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僕らの言葉が無視され続けても
地上で眠り続ける者たちには
何の関係もないこと──少なくとも
日々の薄暗い生活のなかでは──
だけど名前が無視され続けたら
そう、いろんな名前
人を見守る名前、竜を退治する名前
それから、愛のために働く名前──
それらが無視され続ける時
僕らは次に、どんな災害と遭うだろう
サイハは言う
「人が無意識で動き続ける限り
誰かが誰かを愛することはかなわない」
人が人に恋をするということが
サイハの前では色を失う
僕だって、そう思う──だから
「サイハ、僕ら人間に与えられた
愛というものは、いったい
どういうものなんだろう
誰かに優しくできるということ?
母親が子どもを抱きしめること?
いとしさが、自分も相手も飲み込んでいくこと?」
僕はサイハに問いかける
僕は彼女に愛されたいと願い
でも、その形にこだわっているわけじゃない
きっと彼女の提示するものが
僕にとっての正解となる──だけど
それは本当に僕だけの正解?
彼女は言う──
「愛は、人間の存在のうち
最も自由であるもの
自由そのものであるもの──だから
あなたの行為は愛となり
あなたの思いは自由となります」
これまでいったい、この世界のなかで
どれだけの愛と恋が歌われてきただろう
詩人は叶わなかったものを恋と言う
愛することは神の仕事だと言い
だから、きっと
言葉が愛に満ちた詩人は
まるで神さまのように、その喉から
新たな何かを地上に産み落とすのだと思う
サイハ、僕らだって
そのようにありたいと願うことは
きっと人間として、正当なんだと思う
君はこの町を、この湿り続ける町と人々を
いったいどのように見ているだろう
通りを歩く時の君は、まるで聖女のように
その足跡に光を宿らせる
誰かがそこを覗き込んだら
世界は反転し、あらゆる意志と思考が照らされる
君はいつも、光を撒きながら
世界に、人々に、問いかけ続けている
そしてもし、そのアザを覗き込む者が現れたら
サイハ、君は、いったいどうする
僕と君との関係は、その時
いったいどうなるのだろう──だけど
僕は君を止めることなどできない
そうして君を抱きしめること──それが
愛であるのだと、僕は信じている
いやでもサイハ、君は
その愛をいったいどこまで抱き続けることができる?
君が悪意を持つことはないかもしれない
だけど、その敵意は何?
例えば──ほら、そう、その目
鋭さと決意と力強さに満ちた目
通りかかった骨董屋の店頭、そこに置かれたひとつの石
どうして今、立ち止まり
君はその愛を槍のような炎に変える?
「ねえ、カナタさん、あなたには
あの石がどう見えますか」
「あれははるかはるか昔には
宇宙で星だったものだよ
でも今は、霧のなかの意識で生きる人々のなかで
こんなにも固まって、いろんなものがこびり付いて
かつての光なんて見る影もなく、そうだね
とても──そう、とても悲しい色をしてる」
「でもあの石は、誰かを求めています
自分を握りしめてくれる者を
とても歪んだ形で、必死に求めています
そして誰かが触れた時
その者の全てを滅ぼして、そして石は
また宇宙で輝くことを望んでいます──でも
それが叶わないことも分かっているから
こんなに汚れて、これからも汚れ続けて
もう、人間の悪意を糧にするしかないんです」
「サイハ、今、ようやく分かったよ
この石はあの時の石だ
僕らには見つけることのできなかった
教会の一室にあったおそろしい気配──でも
僕らには縁がないと思っていたのに
こうして、時を経て出会ってしまった
どうして、どうして──僕らは今
出会ってしまったのだろう」
いや、違う──
これはもちろん偶然ではない
確かに、確かにあの時
僕らと牧師との縁は切れた──でも
運命の転回のその全てが
僕ら人間に見通せるはずもない
今この瞬間は、たったひとつ前の過去を
そして次にきたる瞬間は、今この瞬間を
そう、せいぜいそのくらいの繋がりを
なんとなく予感する程度
だからいつだって運命の打撃は強烈で
その計り知れない伏線に僕は戸惑う
それは、サイハも?
そのアザの影から溢れる光は
いったい僕らのどこまでを見通しているだろう
サイハの言葉が、わなないている
はじめて、僕はそんな彼女を目にする
「サイハ、どうしてそんなに乱れているの
確かにあの石は恐ろしい
きっとこの五年の間に
数知れず悪意にまみれて姿を変えて
今や邪悪だとさえ思うよ
とても息苦しくて、だけど──
僕にはやっぱり、悲しさに見えるよ」
「カナタさん、ごめんなさい──取り乱してしまって
あの石は、私たちを追ってきたんです
そして私たちは逃れられなかった
私たちは私たちの道を歩いてきたのに
その跡を、悪意は塗り潰してきたようです
今や悪意は、それほどまでに盲いています
私はそれが、たまらなく悔しいのです」
「僕らは綺麗な場所に居続けたいわけじゃない
そうだろ、サイハ──そう言ったのは
五年前の君だった、それから
僕らは少なからず悪意の雨のなかを歩んで──
確かに、僕にはまだ、見つけられないものが多い
それでも、綺麗な場所で何もしなかったわけじゃない
その結果、あの石にまた出会ったのだとしても
それが君をこんなにまで震わすなんて──
サイハ、君にはまだ、他にも視えているものがあるの?」
「そうです、私たちは──
私たちの意志と思いで
綺麗な場所を作ってきたんです
でも悪意は、それを許さなかった
まるで取るに足らないもののように
私たちを踏みにじっていきました
今までそれに気付けなかった自分も恥ずかしい
でも、でも──私もやっぱり、カナタさんと同じように
私たちのこの五年を
世界は否定してきたのだということが
とてもとても──ええ、とても、悲しいです」
それはサイハの涙だった
アザを伝う透明な光が
僕の心臓の奥で震える
こんなにも──こんなにも純粋な彼女を
悪意の世界は決して見逃さなかった
サイハという少女が存在しているということを
世界は、この歪んだ世界は──認めなかった
そして彼女と共にいる僕のことも
決して許してはくれなかった──だから
災害のなかから何かを言おうとする世界は
僕らのもとに、悪魔の遣いのように
この石を送り込んできた──
──お前たちは、決して逃れることなどできない
見よ、ここに生きる人間たち、そう
神を信じられぬ病人たちを
神の子を欺く者たちは、みな不幸なのだ
そして聖なる名を持たぬ者たちは
悪意のもとでしか呼吸ができぬほどに
どこまでも薄弱な言葉でたゆたうのだ
そんな町でいくら抗ったところで
お前たちが道を見つけられるわけがない
屈せよ、この町に
屈せよ、赤黒く流れる我らの怒りと欲望に
石が、僕らに囁きかける
それは違う──と、僕は言えなかった
だけど、サイハは
目を閉じ、震える瞼のその奥で
ぎゅっと、僕の言葉を掴んでくれて──そして
あらゆる影を消し去るように
その、アザから、光を生み出した
全ての命がこの一瞬、サイハの名を振り返る
あらゆる音が消え去って、白い何かに包まれて
奥底からやってくる──あれは、そう、あれは
黄金色に輝く輪──そして
影は萎縮し、恐れ慄き背中を向ける
その先で、あの、僕らの前に現れた、歪な石が
木端微塵に砕けて散った
あとはさらさら風に飲まれて
人々の、この町の人々の足元で
ひとつの原子も残すことなく、消滅していく
「カナタさん、私たちは
振り出しに戻ってしまいました
きっとこれからも、何度も何度も
同じように振り出しに戻ってしまうと思います」
「でもサイハ、そうすることでしか
この町では生きていけない、そうだろう
だから、これでいいんだ
どれだけ悲しくても、そうすることしか、できないから」
サイハの指が、僕の指に触れる
そこに、運命はあるだろうか──
僕には分からない
だけどやっぱり僕らの指は
時にこの町の金貨を掴み
そして時に互いの指と溶け合っていく
そして、そして──どうしようもなく
この町を、歩き続けるのだ