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ひととせ、ひととせ──
人は声を震わせながら成長していく
きっと、僕らの歩みもそうであったと思う
大災害から五年──それでも
町はまだ砕けた残骸を残し
ただ、人だけが、項垂れた影を連れて
また元のように生活を始めた
いろんなものが変わった、と
誰もがそう言うこの町は、でも
光のなかでも少しだけ不気味だ
僕は──たぶんサイハも
何かが本当に変わったとは、思っていない
染みついた遠い潮のにおいは
今もまだ、人々の硬い心への復讐を狙っている
あの時かすかに生じた敬虔な祈り──だけど
この町はもう、それを忘れてしまったように
残り続ける瓦礫に永遠という名を付ける
だから──やっぱりここは
僕にもサイハにも、居心地が悪い
それでもその退廃のなかで
僕はいつもサイハの言葉を思い出すのだ
──自分だけは綺麗な場所にいたいだなんて
そんな逃避で命を削るのですか
でもだとしたら、僕はいったいこの町で
何をしようとしているのか
あいも変わらず僕はやっぱり
何も持たざる者──だけど
ただサイハの存在だけが
この地上の歩みを現実にしてくれる
だから、僕は
大学生になった彼女と、今、一緒に暮らしている
そこは安くて古いシェアハウス
同居人は他に三人
サイハと同じ年のエイコさん──目の下の隈が特徴
酒と煙草が日常のタカくん──ずっとバイトをしている
気弱な声で歩くフミトくん──たぶん読書が趣味
僕が一番年長で、いつの間にか料理担当
今朝も、サラダを作り、パンを焼き
目玉焼きを添えて机に並べる──でも
座ってくれるのは、サイハとエイコさんだけ
二人が並ぶと、僕は何を言っていいか分からなくなる
サイハのアザが光なら
エイコさんの隈は闇
そこには人の抱く情念が詰まっていて、彼女は
ずっとそれに苦しんでいる
ぜんぶぜんぶ夢ならいいのに、と、彼女はよく言う
だから──僕の料理は夢にならないよ、と
彼女の隈から生えようとする翼をへし折る
サイハは──
ひととせ、ひととせ、どんどん綺麗になっていって
彼女のどんな仕草も、どんな声も、どんな表情も
その全てがどんなに美しいことか
僕はもう、彼女から離れられない
できることなら彼女の呼吸の全てを
この目の全てに焼き付けたい
そのアザが、サイハの何かを損なうことはありえない
アザという空洞には
満ちるということなく美が
日に日にかさを増していく
日が明けるたび、サイハは光を増していく
僕は──どこまで耐えられるだろうか
「今日は、少し早めに行って
することがあるんです──だから
先に出ますね」
真っ直ぐ伸びるサイハの背筋
そこに添えられる、静かな声
僕は何も言うことができず、ただ
サイハに見惚れている
なんて綺麗な人間なんだろう、と、思う
そんな存在は、いったいこの先
この世界でどのように生きていくのだろう
僕にはまだ、想像できない
ただそんな彼女をとりまくものは
どこまでも純心で穢れないものであってほしいと願う
でも──それに反して、サイハは言うのであろう
──自分だけは綺麗な場所にいたいだなんて
そんな逃避で命を削るのですか
いやでもサイハ、だとしたら
君の命はいったい、何に削られ
そして世界は君に何と語るのだろうか──
僕はサイハとエイコさんを見送って
食事の片付けを済ませ、それから
雑多な町へと足を踏み出す
ここはやっぱり湿っている
どんなに晴れ渡る日でも
あの大災害が染み付いて、いまだ
あらゆるものを失ったあの日から
進めないままでいる──ままでいる、はずなのに
そんなことはたぶん、もう
誰の記憶にも残ることなく
人は嘘を固めて道として、歩いているつもりでいる
まとわりつく、この町の乾いた水気は
埋まることのない空白を主張し、でも
みんなみんな、見ないふりをしている
何も聞こえないふりをして、力無く笑っている
いやでも──もしかすると
あの大波が奪い去っていったと思ったものは
未練のようにまだ
この町にこびりついているのかもしれない
それは、たとえば──そう、やっぱり
いろんな形の、悪意なのだとしても
「おい、おい──そこのお前」
それは酒臭いやさぐれた声
彼は公園の片隅で、いつも飲んだくれて叫んでいる
彼は──あの大災害に何を奪われ、それから
今もまだ、何を残しているのだろう
「おい、お前みたいな色のないやつが
どうしてこんな明るい空の下を歩いている
だが俺には見えるぞ
そうだ、お前は
何も失わなかった──そうだ、失うものすらなかった
俺はお前を羨ましく思う
悪魔すらそっぽを向くほど何も持たない
そんなお前のみすぼらしさを
俺は心底羨ましく思う」
「それでも、僕もまだ
この町で生きていかなければならないんです」
「逃げ出さないのは見上げた根性だ
だが──お前はここを見捨てることもできる
なのになぜそうしない
ここにいることで、お前にいったい何の得がある」
「僕は、まだ──
この命をどこでどう削っていけばいいのか
何も分からないんです」
彼は酒瓶の中身をたっぷり飲み込み
全てを幻にするかのように
地上を見下すような目をする
「俺はな、ボクサーだったんだ
だが卒中で倒れてしまった
あの大災害の少し前のことさ
でもな、それでもな、俺はまだ戦える
誰とだって戦えるんだ──たとえ
今はこうして、酒の向こうの霧と打ち合うしかないとしても」
僕には──
よく分からない
彼が無くした者なのか、そうでないのか
ただ時折見せるその眼光は、どこか
地上と同じ硬さの何かを見ているような
そんな気がする──でも
それが世界のなかであまねく真理だったとしても
その正当性まで判別できるわけじゃない
僕は軽くお辞儀をして──そして
けっきょく、何も言えなかった
「それは敬意か、それとも
俺から目を逸らしているのか
ああ、そうだ、この町にはな
そんな奴らしかいないんだ──だからな
よく覚えておけ、みんなみんな
俺と何も変わらないってことを
ここにいる奴らはみんな
霧の向こうの影と戦っているだけだってことを」
そしてやっぱり、彼と僕の目が合うことはなく
視線の角度が交わることもなく
僕らは遠くすれ違っていく
その、先に──まだ少しだけ
サイハの足跡が光っている
今はまだ、そこを辿っていけばいい
だけどその先、もっと先に行った時
僕はいったい、この言葉を
世界のどこに打ち付ければいいだろう