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僕らはまた、夜を歩く
欠け続ける月のもとに町があり
闇に飲まれる大地は
聖なる味を喚起させる
歩いた場所には花が咲くと、サイハは言う
それはどんな花?──と訊くと
「誰かが生きて、そこに確かに存在して
鳴り続ける心臓が一滴一滴落としていく
その血を太陽の代わりとして
まるで──人の意志が
その経過が、伸びゆくという形となって
永遠のなかに刻印されたような
そんな、遥か遙か未来の花──」
サイハはそう、教えてくれた
その瞳は、長いまばたきを挟みながら
闇のなかに暖かな色の何かを見つめていた
それは、僕にも少しだけ視えそうで
でもやっぱり何も広がるものはなく──いやでも
まるで、サイハが発しているかのように
確かに──色付く音がかすかに目を掠めていった
「咲いた花は、やっぱりいつか枯れていくの?」
僕はサイハのいるところへ、声を伸ばす
彼女はゆっくり目を閉じ
顔の大きなアザを宇宙に向けて
そのまま右手を星へと伸ばす
その──細く長いひとつの曲線
それはまるで星座のようで
銀色に光る緩やかな梯子のようで
そして月が──あの欠けた月が
サイハというひとつの鍵に共鳴し
その本当の色をあらわにしていく
「枯れない花なんて、どこにもない
でも花が見せたものは
きっと枯れることを知らない」
「サイハ、それじゃあ、あの月は何?
僕らの足跡に咲いていく花と
いったいどういう関係があるの?」
「ほら、月は私たちの頭を照らして
手足を照らすことはしないのです
そうして私たちは思い、理解し
過去を──そうです、遥かな過去を思い出します」
「僕もまた、月に照らしてもらえるだろうか
だとしたら、その時この頭は
いったいどこに行ってるだろう」
その時遠くで鳥が鳴き
優しい闇の明けゆく気配が
静かに僕らの頬に触れる
それは冷たく、ほのかにまばゆい
そのなかを、はるか星の世界まで
頭を咥えた鳥が飛ぶ
「どうしてみんな、星を忘れていくんだろう」
その問いは答えを孕んで落下していく
サイハが見つめるのは
地震の火種にくすぶる悪意──
僕らは復讐されている──きっと
これからも復讐され続けるだろう
だからその時、僕はサイハのアザを必要とする
欠けた部分に宿るものを
流れる血は欲し続ける──そこに
指を浸して感じうる光を
僕らはいつか、この言葉にまとうことができるだろうか
「長い夜が明けていったら
何もかもが最初に戻ります
人々の歩みも、冷たい意志も
まるで──本の一ページみたいに」
サイハの指が絡み合う
それは何かをとどめるみたいに
この闇に、この空気に、この思いに
必死に繋ぎ止めようとする
それでも全ては流れていく
指の隙間から、宇宙に向かって──
そこに乗れたら、きっと幸せだと言える
でもあらゆる地上はその道を知らず
たぶん──だから、サイハの目は寂しく笑う
「避難所が見えてきたよ
牧師さんに報告をして
それから少しだけ眠って、それから──
ねえ、サイハ、僕らはそれから
いったい何をしようか」
「私たちは、私たちの生活をしましょう
きっと、それ以外に見つかるものは
何もないと思いますから」
そうかもしれない
僕は──僕らは、何も持たずに
この地上を歩き始めてしまった
得られるものの全ては儚く
無くしてしまうと、いつの間にか忘れてしまう
だから、いつだってここに立っているのは
きっとただの裸の言葉──
それ以上のものを、僕らはまだ、見つけていない
避難所が、少しだけ動いている
集まった人々が、今日を生き抜く準備をしている
たぶん牧師は眠っていない
彼に語りかける天使たちは
いったいどんな顔をしているだろう
その声を聴いて欲しくて
どんな危ない道を歩んでいるだろう
それはきっと、いつか彼を破滅させる
地上の受け取ったものは必ず
地上と一緒に崩れ去っていくのだから
僕はサイハと手を繋ぎ
どこかにいる牧師を探す
彼は夢遊病者のように
幻を追いかけ、崖の上に立っている
僕の声はもしかすると
吠えたてる犬になってしまうかもしれない
だけど真の意味で愚かな者なら
自分の荷物に星を見つけることだろう
彼は──牧師はどうだろうか
僕はサイハの顔を見る
サイハも僕の顔を見て
悲しそうに目を伏せる──
「あなたたち、無事に帰ってこられたのですね
石は、石はどうでしたか
取り戻すことはできましたか」
それはやっぱり嘘っぽい声──この色は
いったい誰を騙すためだろう
こんな色は存在しない──本来
この世界に、こんな色はどこにもないのに
でもきっと、彼は──
これが神だと信じている
「石はどこにもありませんでした
きっと、石があった場所はあそこで間違いありません
でももう、石はなかったんです」
「ああ、そんな──
神よ、あなたは私をお見捨てになるのですか
私はいったいこの先
どうやって悪からこの身を守ればいいのでしょう──
あなた、同志よ
お願いです、私の神への愛の全てを捧げます
ああ、どうか、どうかもう一度
教会に行ってはくださいませんか
石は必ずあるはずです、だから──」
「牧師さん、僕はもう、その役ではありません
教会にはもう暴徒もいませんから
よければ陽の照らすうちに
牧師さん自身が行かれてはどうでしょう」
「ああ、なんたること、なんたること──
もはや神は行ってしまわれた
我ら人間は、さらなる災厄に見舞われて
骨の最後のひとかけまで、悪魔に飲まれてしまうでしょう」
牧師が僕を離したので
短かった僕らの縁も切れてしまった
繋いだサイハの手が少しだけ冷たく
でもその柔らかい命の感触が
牧師の呪詛から守ってくれた
「行きましょう」とサイハの声がして
僕らは牧師に背を向ける
くず折れていく彼の姿は
崩れていく地上そのもので、きっと
その口が神と発することはもうないだろう
誰にも知られず露の下の灰となり
生ぬるい温度で地面を覆っていく──それが
彼の、彼の信じた神との心中
「ねえ、サイハ
けっきょく石は何だったんだろう」
「分かりません
月の欠片か、重力に負けた星か──でも
私たちには関係なかったのです」
「そうだね──でも
この先もずっと、関係ないままいられるだろうか」
サイハは静かに目を伏せて
アザの影をそっと見つめる
そこにわずか光が見えて、僕は
彼女の手を強く握る──強く、強く
それは、僕がこの地上で初めて抱いた
何があっても無くしたくないもの、その
深く大きな言葉の衝動だった