9.思いの丈を
淡いクリーム色をした花柄の便箋を前に、ロッティは完全に動きを止めていた。その右手には羽根ペンが握られていて、もうかれこれ一時間以上はこの姿勢のまま固まっている。
(……えっと)
ロッティには、手紙なるものを書いた経験はほとんどない。なぜなら送る相手がいないから。
王立騎士団本部からの帰途、オールディス商会経営の雑貨屋でこの便箋を購い、揃いの封筒を用意したところまでは完璧だった。しかし帰宅してから、彼女の時間は止まってしまっている。
ロッティはやっと身じろぎすると、悩みすぎて痛む額を押さえた。
(カイさんは……何と言っていたっけ……?)
そう、確か。
家まで送ってもらって別れる時に、「手紙はきちんと時候の挨拶から入るんだぞ」と忠告してくれた気がする。
手紙もろくに書いたことのないロッティとは違い、カイは商売人だ。彼の言うことに間違いはないはず。
うん、と心を決めて羽根ペンを掴み直す。
『今日はいい天気ですね』
そこでまた手が止まった。
「いや、違う……。カイさんは、他にも何か教えてくれてたはず……!」
えぇと、そう。
確か、カイは――「まず一行目に『拝啓』って書くんだぞ」と言っていた!
慌ててさっき書いた便箋をくしゃくしゃに丸め、まっさらな便箋を用意した。羽根ペンにたっぷりインクを含ませ、テーブルに覆いかぶさるようにして便箋に向かう。
「そう、まずはお名前を書かないと……! 拝啓……、拝啓……。そう、拝啓……!」
宙に浮いた羽根ペンから、ぽたりとインクが落ちた。新品の便箋にしみがつく。
ロッティは茫然とした顔で虚空を見上げた。――そう、彼女は大変な事実に気付いてしまったのだ。
「あの騎士さん……っ。お名前なんて言ったっけ!?」
***
テーブルの前、まんじりともしないまま夜が明けた。
ロッティの目は血走っていて、羽根ペンを握りっぱなしの手はかちこちに強ばっている。これだけ長いこと考えたにも関わらず、まだあの騎士の名を思い出すことはできなかった。
とうとう羽根ペンを放り投げ、くしゃくしゃに乱れた頭を抱え込む。
(ううう、だって……!)
彼が名乗ったのは、初めて会った時の一度きり。
しかもあの日のロッティはパニック状態で、右から左に彼の名を聞き流してしまったのだ。
涙目で真っ白な便箋を睨みつける。
「どうしよう……。カイさんだって、いつも『騎士サマ』としか呼んでないし……」
――そこで、はっとした。
勢いよく顔を上げ、衝動のまま一行目に書きつける。
『拝啓 騎士様』
しかし、ロッティはすぐさまかぶりを振った。せっかく書いた便箋を破り、くず籠に放り投げてしまう。
「これじゃ、駄目。そのまますぎて、名前を覚えてないってことが丸わかりだもの……」
あの笑わない目で怒られたら、と考えただけで恐ろしい。
自分の想像に震え上がり、唇を噛んでじっと考え込んだ。
彼を表すもの。
美しい黄金の髪、それから水の魔石に似た青い瞳。それとも、心を鷲掴みにするような端正なあの顔立ち――?
「綺麗な騎士様、美しい騎士様……。水の騎士様、光の騎士様。……ううん違う、そうじゃなくって……」
夢見心地で立ち上がり、部屋の中をぐるぐると歩き回る。
途端に蹴つまずきそうになり、つんのめるように足を止めた。
「…………っ!」
息を呑んで床を見下ろす。
ロッティの翠玉のような瞳にぱっと明かりが灯った。大急ぎでテーブルに取って返して、すぐさま力強くペンを握る。
そのまま一気に文字を連ねていった。
***
満足のいく手紙が仕上がり、ロッティは安堵の吐息をついた。大きく背伸びをした瞬間、お腹が甲高い音で鳴る。
「……お腹、減ったなぁ……」
考えてみれば、昨夜から何も食べていない気がする。
よろよろと台所に向かったものの、お腹がすきすぎて調理する気力もなかった。そのまま食べられるものはないかと食料棚をひっくり返す。
「……あ、あった。うん、じゃあいただきます!」
ポリ……ポリ……。
手の中のそれをかじりながら、居間に戻ってカーテンを開いた。窓ガラスにはしとしとと湿っぽい雨が打ち付けている。
「今日は雨かぁ……。どうりで暗いと思った」
呟きながら、床にぺたりと座り込んだ。
静かな雨音に耳を澄ませ、黙々と朝食を平らげる。ポリポリ、ポリポリ……。
雨音に混じってノックの音が聞こえた気がしたが、ロッティは無心で食べ続けた。微かな声も聞こえた気がしたが、それでも食べ続けた。
「――失礼します! ロッティ様!?」
床に座り込んだままで振り向くと、ロッティは目をまんまるに見開いた。
血相を変えて居間に駆け込んできたのは、今しがた自分が手紙を書き終えたばかりの相手。暗い部屋の中ですら輝きを放つ金髪と、深い青の瞳に息が止まりそうになる。
彼は彼で、穴が空くほどロッティを見つめていた。……いや。正確には、ロッティではなく彼女の手――
「……あっ!」
ロッティの顔にみるみる血が上る。
大慌てで手を背中に隠したが、もはや時すでに遅かった。愕然とした顔の騎士がロッティに歩み寄る。
「……あの。ロッティ、様……?」
俯くロッティの側に膝を突き、ためらうように視線を泳がせた。
「その……。なぜ、人参を丸かじりしていらっしゃるのです……?」
「…………」
生のままで食べられる野菜が、これしかなかったからです……。
耳まで真っ赤に染め上げながら、消え入るような声で答えるロッティであった。