63.祈りを込めて
クリスの爆弾発言に、騒然としていた倉庫内は一転して水を打ったように静まり返る。隣のフィルも絶句していて、ロッティは心配そうに彼を窺った。
誰もが言葉を探しあぐねる中、ダレルが低い唸り声を漏らした。
「……なあ、クリス。ひとつだけ確認させてほしいんだが、あくまで声変わりが始まった『かも』なんだな? 確証はないってことか」
「う、うん。ちょっと喉に違和感があるぐらい……、かな」
「そうか。……なら、特に今どうこうって話じゃねえな」
あっさりと肩をすくめたダレルに、クリスは信じられないというふうに目を見開いた。ロッティとフィルも思わず顔を見合わせる。
顔色を変えたクリスが、荒々しくダレルに詰め寄った。
「で、でも団長っ。もし次の公演の最中に、おれの声が出なくなったら!? 舞台に穴を開けちゃうことに――!」
「その時は私が主役を演じるわ」
突然、落ち着いた声が割って入る。
はっと振り向くと、いつも通り冷静さを崩さないアナがそこにいた。アナは動揺するクリスを鋭い眼光で射抜く。
「クリス。今回の私の役、敵国の女王という重要な役どころではあるけど、出番は控えめだし歌もないでしょう? いざという時に備えて、敢えてその役を選んだの」
「え……っ」
「あなたに内緒で、主役の歌も台詞もずっと練習していたわ。もちろん他の団員達も全員承知してる」
淡々と明かされる真実に、クリスはみるみる色を失った。
問いただすように周囲を見回す彼から、団員達はバツが悪そうに目を逸らす。「だってなぁ……」「教えると気にするだろうし」ともごもご弁解した。
アナはひとつため息をつくと、まっすぐにクリスに歩み寄る。
「舞台に穴を開けたりしないわ。だからあなたは、安心して己の役割を全うすればいい。背中は私に任せてくれる?」
「アナ……!」
クリスの顔がくしゃりと歪んだ。荒っぽく顔をこすって、逃げるように背中を向ける。
震える肩を後ろから優しく撫でながら、アナは何事かじっと考え込んだ。
「でも、それはそれとして……。フローラに戻ってもらう、というのは、なかなか良い案かもしれないわ」
『えええっ!?』
この場にいる全員――泣いていたクリスでさえ顔を上げ、素っ頓狂な声を上げる。
アナはおかしそうに頬をゆるめると、父親であるダレルに向き直った。
「王都の二大劇団を連続して辞めたんだもの、フローラにはもうどこにも行き場がないと思う。違う?」
「そりゃあ……、けど、なあ……?」
うろうろと視線を泳がせる父親を軽やかに笑い、アナは他の団員達を振り返る。
「もちろん、フローラには心を入れ替えてもらうわ。以前のように女王然として振る舞うのは止めさせるし、練習にだって真面目に参加してもらう。それならどう?」
「いや、まあ……」
「きちんと約束するなら、うん……」
困り顔を見合わせつつも、積極的な反対意見は出なかった。フローラにはもう後がないことを、この場にいる全員が理解しているのだろう。
じっと唇を噛んで考え込んでいたクリスも、ややあって決然と顔を上げた。
「そんなら、さ。やっぱりクリスティアナは、次の公演を最後に引退することにしようよ」
「クリス!?」
驚愕するフィルに、クリスは事もなげに頷いた。ニッと口角を上げ、いつも通りの生意気な笑みを浮かべる。
「もちろん、おれ自身は歌を止める気はないけどね。クリスティアナが引退して、数年後に今度は『クリス・ウォーカー』がデビューするんだ」
「わあ……っ。楽しみです!」
手を叩いて喜ぶロッティを、クリスは嬉しげに見つめた。跳ねるように彼女に歩み寄り、守り袋を首から外す。
「あのさ、ロッティ。クリスティアナが引退しても、おれ、この魔石をずっと持っててもいいかなぁ?」
「クリスさん……」
束の間絶句したロッティは、すぐさま晴れやかな笑みを浮かべた。熱を帯びたクリスの手を、宝物のように両手で包み込む。
なぜかフィルが呻き声を上げた気がしたが、ロッティは一心にクリスだけを見つめた。
「――これは、クリスさんのための魔石です。もう中は見てみましたか?」
「ううん。せっかくだからロッティと一緒に、と思ってさ。開けていい?」
待ち切れない様子で尋ねるクリスに、ロッティは「もちろん!」と即答した。
クリスは深呼吸すると、震える指を守り袋の中に入れる。
フィルにカイ、アナとダレル親子も興味津々で二人を取り囲んだ。ロッティ以外、贈り主であるフィルですら中身を知らないのだ。
「……っ。これ――!?」
それを目にした瞬間、クリスは完全に言葉を失った。
慎重につまみ上げたのは、まるで雫のような形をした魔石。表面はすべすべとなめらかで、美しい流線を描いている。
そして何より特筆すべきは、その色――……
「色が、ない……!?」
「透明だとぉ!? ロッティ、お前これどうやってっ」
フィルとカイが目を見開いて驚愕する。
友人達の期待以上の反応に、ロッティは嬉しさをこらえきれずにぴょんと跳ねた。頬を上気させ、透明の魔石に見入るクリスに笑いかける。
「それ、私自身の――無属性の魔力を込めてみたんです。本来ならこうして原石を透明にした後、地火風水のいずれかの属性を込めるんですけど」
「いや、魔石制作の工程は何度も見たことあるけどよ! いつもだったら黒が抜けたところで、ここまで透明にはならねぇだろ!?」
荒々しく叫んだカイが、目を血走らせて魔石を覗き込む。
本当はクリスから魔石を奪ってじっくり検分したいのだろうが、そこはさすがに我慢しているらしい。
フィルもカイの反対側から、魅入られたように魔石に目を落とす。
カイの言う通り、魔石は存在しているのかと危ぶんでしまうほど儚く透き通っていた。澄んだ川の水のようでもあり、きんと冷たい真冬の空気のようでもある。
「……普段なら、黒が抜けさえすれば、そこで終わりにするんですけど。今回は何度も私の魔力を重ね掛けしてみたんです。しつこいぐらいに、何度も何度も」
立ち尽くすクリスに歩み寄り、ロッティは再びそっとその手を包み込んだ。
「何度も何度も、魔力と一緒に祈りを込めてみたんです。――クリスさんの、未来のための」
「……おれ、の……?」
掠れ声を漏らすと、クリスはやっとゆるゆると顔を上げる。
頼りなげな視線を受けて、ロッティは大きく頷いた。
「はい。見ての通り、この魔石には今はまだ何の色もありません。けど、透明だからこそ――この魔石はこれから、どんな色にだってなれるんです」
「どんな、色にでも……」
クリスの瞳に光が灯る。
手の中の魔石を見下ろすと、ふるふると震え出す。それから、はっと息を吸って笑い出した。
「そっか、この魔石はおれとおんなじなんだ!」
「――そう、そうなんです!」
飛びつくように肯定して、ロッティは顔を輝かせる。クリスの手から魔石を取り上げて、銀のチェーンを恭しく彼の首に掛けた。
胸元で、透明な魔石がゆっくりと揺れる。
「これは無属性の魔石ですから、あくまで破邪の効果だけで属性の加護はありません。だからいつか、クリスさんが心から欲する色が決まったその時に……私に、改めて属性を込めさせてくれませんか?」
「ロッティ……」
目元を赤く染めると、クリスは何度も頷いた。幸せそうに魔石を胸に抱き締める。
(よかった……)
ロッティの心にも、温かな喜びがあふれてくる。
この魔石――まるで涙の雫のような形を選んだのは、クリスにあの日の涙を覚えていてほしかったから。夜の稽古場で、「眩しいぐらいまっすぐで、きれいな情熱が欲しい」と言って泣いたクリス。
ロッティにはその姿こそ、何より純粋で眩しく見えたのだ。
どうかいつまでも、ひたむきな心を持つクリスでいてほしい、そんな願いを魔石に込めた。
しみじみ噛み締めていると、なぜか目を吊り上げたカイがロッティに詰め寄ってくる。
「くっそ、透明な魔石たぁ盲点だったぜ! ロッティ、次はこれを売り出すぞ!」
「ええっ? だ、駄目ですよっ。これはクリスさんのために作った、クリスさんだけの魔石なんですか、ら……?」
突然、ぽかんとして言葉を止める。
ロッティの視線の先には、魔石を抱き締めたままのクリスがいた。その顔が赤いのは興奮のためと思っていたが、さっきよりさらに赤くなっている気がする。
瞳が潤んでいるのも、まぶたがぽってり腫れぼったいのも、泣き止んだばかりだからと思っていたが――……
「お、おいクリスッ!? お前、凄い熱じゃないか!!」
「ふぇ……?」
クリスの額に手を当てたフィルが、ぎょっとしたように絶叫した。
ぼんやりとフィルを見返したクリスは、「そおか、どおりであついとおもったぁ……」と呟くなり、ぺしゃんと床に倒れ込む。
「クリスさーんっ!?」
「私、すぐに医者を呼んでくるわ!」
顔色を変えたアナが駆け出して、ロッティも慌ててその背を追った。
ダレルを始めとした団員達も、水だ薬だ濡れタオルを持ってこい、だのと大騒ぎする。
騒然とする倉庫の中で、カイだけがひとり冷静に手を打った。
「喉の違和感って……つまりは、単に風邪だったってことじゃね?」