60.踏み出す勇気
(やった……!)
なんとか場が収まったのを見届けたところで、ロッティの体から急激に力が抜けていく。さっきまで大声で怒鳴ったり高笑いしたり、派手に魔法を放ったりしていたのが嘘のようだ。
崩れ落ちかけた彼女に、地上のカイが笑顔で手を伸ばす。「よくやったな、このままそっと退場するぞ」と声を落として囁きかけた。
「はいっ……」
「王子様、騎士様ー! まだ闇の魔女が残ってるよー!?」
「悪い魔女もやっつけちゃえぇーーー!!」
(……へっ!?)
慌てて声がした方向に顔を向けると、見物の小さな子供達がこちらを指差していた。ご丁寧にぴょんぴょん飛び跳ねながら、「こっちこっち!」と周囲の注目を引き付けている。
顔をしかめたカイが、即座に手を引っ込めた。
「うお、やべえな。……ロッティ、こうなったらもう仕方ねぇ。お前も潔くやられちまえ」
「や、や、嫌ですう~!!」
痛いのも怖いのも勘弁してほしい。
絶望的な気分で後ずさりすると、じっとこちらを注視するフィルと視線が絡んだ。思わず動きを止めたロッティに、目を細めて微笑みかける。
「……あ、フィルさ――!」
「軍人殿よ! 最後の一人は譲ってやったのだから、あの闇の魔女はわたしに任せてもらおうか!」
フィルの高らかな叫びを聞いた途端、ロッティは白目を剥きそうになった。……よりによって自分は、剣の達人であるフィルに退治されなければならないのか!
「おうっ、頑張れや美形の騎士サマっ!!」
なぜかカイが大喜びで囃し立てる。
そんな彼を涙目で睨みつけ、ロッティはよろよろと杖を構えた。大急ぎで頭を回転させる。
痛くはないが華々しいやられ方、悪役らしい劇的なやられ方――……
「――はっ!」
まだ何の妙案も浮かんでいないのに、フィルは待ってはくれなかった。地を蹴って駆け出すと、ぐんぐんロッティに近付いてくる。
「きゃあ、わぁっ!? ひ、ひひひひ光よ――」
「ロッティ!?」
バキッ!!
馬鹿の一つ覚えのように呪文を唱えかけた瞬間、ロッティの足が屋台の屋根を踏み抜いた。ぐらりと傾いだ彼女の耳に、カイの叫びが聞こえてくる。
(落ちる――……!)
衝撃に備えてきつく目をつぶったのに、いつまで経っても痛みは襲ってこなかった。どころか、ふわりと温かく包み込まれたような気がする。
怖々と目を開くと、至近距離に美しい騎士の顔があった。かちんと凍りつくロッティに、フィルはいたずらっぽく片目をつぶる。
「……っ」
「――見よ、かの闇の魔女はわたしが捕らえた! 二度と悪さができないよう、我が生涯を賭けて逃さないと誓おう!!」
浮遊感を感じたと思った時には、軽々と空に向かって抱き上げられていた。
フィルは大歓声に包まれた広場を余裕たっぷりに見渡すと、その腕にロッティを抱いたまま踵を返す。拍手喝采を背に、裏路地へと足を急がせた。
場を繋いでくれたのか、クリスティアナの美しい歌声が流れてくる。
大股で進んで充分に離れたところで、フィルはようやく息をついた。
小刻みに震えるロッティを降ろし、心配そうに顔を覗き込む。
「……ロッティ。怪我はありませんでしたか? どこか痛むところは?」
「…………」
真摯な問い掛けに、ロッティは答えなければと思うのに声が出ない。
言葉の代わりに、瞳からぼろりと大粒の涙があふれ出た。
「ろ、ロッティ!?」
フィルの慌てふためいた声が聞こえたが、ロッティは涙を払うのに必死で顔を上げるどころではない。泣き止まなければと思うのに、後から後から涙があふれ出て、顔はもうぐちゃぐちゃだった。
「ひ……、っく。ふ、えっ」
子供のようにしゃくり上げ、恥ずかしさにますます居たたまれなくなる。唇を噛んで嗚咽をこらえていると、がちがちに強ばった体を引き寄せられた。
「ふっ……、く」
「ロッティ。……無理に泣き止まなくていいですから、そのまま聞いてください」
ぽんぽん、となだめるように背中を叩かれて、ロッティはまた小さく泣き声を上げた。フィルの団服をぎゅっと握り締める。
「クリスを――弟を助けてくれて、本当にありがとうございます。目立つのが何より苦手なあなたが、弟のために一歩を踏み出してくれた」
「…………」
「クリスが怪我もなく無事だったのも、最後まで演技をやり通すことができたのも、全部あなたのお陰です」
「……ちが、う」
わななくロッティの唇から、反射的に掠れ声が飛び出した。驚いて体を離すフィルに、ロッティはもう一度「ちがう!」と叫んでしゃにむに首を振った。
ひび割れた声をみっともなく思うのに、一度出た言葉はもう止まってくれない。
「わたし、わたしは考えなしに、ただ飛びだしただけですっ。つ、強くなんてないし、なんの力もないのにっ。フィ、フィルさんが、来てくれなかったら、今ごろきっと――!」
「それでも僕は間に合わなかった」
落ち着いた声がロッティを遮る。
目を見開く彼女に、フィルは静かな眼差しを向けた。
「あなたが時間を稼いでくれなかったら、僕にクリスを助けることは叶わなかった。強くもなく何の力もないと言うあなたが、逆境に立ち向かってくれなければ、シベリウスの演劇は失敗に終わっていた。……だから僕は、何度だってあなたに言います」
――弟のために、勇気を奮い立たせてくれてありがとう。
まっすぐな言葉がロッティの心を包み込む。
いったんは治まりかけていた涙が、またこんもりと盛り上がった。雫が落ちるのと同時に、ロッティの口から「うわああん!」という盛大な泣き声が漏れる。
声を上げて泣きじゃくる彼女を、フィルは辛抱強くなだめ続けた。
少しずつ少しずつ泣き声が小さくなったところで、フィルはゆっくりと深呼吸する。
固く閉じていた腕をゆるめ、真っ赤に泣き腫らした翠玉の瞳を覗き込んだ。
「……ロッティ」
緊張で喉が詰まりそうになりながらも、潤んだ瞳から目を逸らさない。
「さっきの、西広場での最後の台詞。――あれには演技だけじゃなく、僕の本心も混ぜてみたんです」
「さい、ごの……?」
ロッティがぼんやり繰り返すと、フィルは生真面目に頷いた。ロッティの頬に大きな手を当てて、「魔女はわたしが捕らえた。我が生涯を賭けて逃さないと誓おう」と低い声で囁きかける。
ロッティが長いまつ毛を震わせた。
その瞳から透明な雫が落ちるのに、フィルは言葉を止めて見惚れてしまう。どきどきとうるさい鼓動を無視して、抑えきれない思いを口にした。
「――どうか、僕に捕まってくれませんか?」
「…………」
ロッティは瞬きもせずに立ち尽くす。
無言のまま穴が空くほどフィルを見つめ、ややあってゆっくりと首を横に振った。
「……っ。ロッ」
「……もう」
消え入るような声で呟くと、ロッティはフィルの胸に飛び込んだ。驚いて硬直するフィルに構わず、力の限りその体にすがりつく。頬を胸に押し当てる。
「もう……、とっくに、捕まってます」




