42.夜の稽古場
稽古場の壁に寄りかかり、二人並んで床に座り込む。
挽き肉のパイは冷えきっていたものの、空腹だったのかクリスは嬉しそうに手を伸ばした。ガツガツと凄い勢いで平らげる彼を、ロッティはぼんやりして見守った。
胸に微かな痛みが走る。
(……どうして……)
クリスはこんなにも素晴らしい才能を持っているのに、自分を卑下したりするのだろう。情熱ではなく自己顕示欲とは、一体どういう意味なのだろう。
懸命に思考を巡らせていると、不意にクリスがロッティを見た。ロッティの鼓動が跳ねる。
「クリスさ――」
「ごめん。おれ、もしや食べすぎちゃった?」
申し訳無さそうに眉を下げられ、一拍遅れて慌ててかぶりを振った。
「わ、私はもうお腹いっぱいなので。全部食べちゃって大丈夫ですよ?」
「まじで? そんじゃあ遠慮なくっ」
再び勢いよくパイにかぶりつく彼に、ロッティは思わず笑顔になる。笑いを噛み殺していると、クリスが高らかに両手を打ち鳴らした。
「ごちそーさまっ。お礼にお茶淹れてくるっ」
指を舐めて機敏に立ち上がり、跳ねるようにこの場から去っていった。
一人きりになった倉庫の中、ロッティは溜めていた息を吐く。膝を抱え込んでしばし待っていると、やがてクリスが湯気の立つカップを両手に戻ってきた。
「はい、ふたつとも持ってて」
問答無用でカップを押し付けて、今度は膝掛けを取ってくる。
「ちょっと冷えてきたからね。でかいから二人とも入れるよ」
ふわり、と広げた膝掛けに、二人一緒にくるまった。
カンテラの明かりがゆらゆら揺れる。じっと炎だけ見つめて、二人の間に沈黙が満ちた。
クリスがふっと身じろぎする。
「……あのさ」
「はい」
ロッティには心の準備ができていた。
微笑して続きをうながすと、クリスも安堵したように頬をゆるめた。膝掛けをぎゅっと握り締める。
「おれはさ、シベリウスに入る前……ううん。見習いとして入ってからもずっと、自分は人一倍すごい情熱を持ってるって思ってたんだ。それこそ、古株の劇団員にだって負けないぐらい」
「…………」
「おれは絶対いつか主役を演じてみせるぞー! なんて、偉そうに決意しちゃったりもしてて」
くつくつとこもった笑い声を立てたクリスは、不意に言葉を止めて俯いた。ためらうように視線を泳がせ、「でも……」と小さく呟く。
「フローラがさ、本番直前でいきなり引退宣言をした後――……あっ、フローラってのは」
「シベリウスの、前の看板女優さん……ですよね?」
ダレルさんから聞いています、と付け足したロッティに、クリスはほっとしたように頷き返した。しばし唇を噛み、再び重い口を開く。
「……劇団長は、アナに代役をやれって命じたんだ。代わりに、アナがその時演じてた役柄はおれにやれって」
「えっ?」
けれど、実際には主役を演じたのはクリス――クリスティアナだったはずだ。フィルからも、ダレルからもそう聞いている。
ロッティがそう言うと、クリスは途端に痛そうに顔をしかめた。
「そう。演じたのは、おれ。……アナが、そうしろって言ったんだ」
「アナさん、が?」
うん、とこっくり頷いて、クリスはロッティに身を寄せる。小さく震えて、膝をきつく抱え込んだ。
「その舞台の初日には、さ。第一王子様がお忍びで、婚約者である隣国のお姫様と観劇に来る予定だったんだ。王立劇場には、王族専用のボックス席があるから」
劇団長であるダレルは熟考の末、娘のアナにフローラの代役を命じた。
劇団員全員での会議は、葬儀のように静まり返っていたという。痛いほどの沈黙を突然破ったのが、他でもないアナだった。
息をひそめてクリスが続ける。
「みんな動揺してたのにね。アナだけはいつも通り冷静沈着だった。つかつか前に出ておれたちを見回して、迷いなんか微塵もない口調で宣言したんだ」
――主役を演じるに相応しいのは、私じゃないわ
――王子様が観に来られるのよ。私達は安易な妥協に逃げるのではなく、今できる最善を尽くすべきだわ
そうしてアナは、最後列の端にいるクリスをまっすぐに見つめたという。
その時のことを思い出したのか、クリスはぎゅっと目を閉じる。
「アナは……、アナから、歌姫を、主役を演じろって言われたんだ。おれ……おれ、わけわかんなくなった。初めて舞台に立てる喜びとか、ちゃんとできるのかって不安とか、失敗したらどうしようって恐怖とか。いろんな感情が、一度に襲ってきて……」
――クリス。あなたがシベリウスの新たな歌姫となるの
「でも一番は、嬉しかった! 嬉しくて嬉しくて、やりますって勢い込んで答えた。フローラは気分屋で、おれが練習を代わることもしょっちゅうだったから。おれは歌も演技も完璧に自分のものにしてたんだ。お陰で初公演だって大成功! おれは有頂天になって――!」
熱に浮かされたようにまくし立てていたクリスが、突然泣き出しそうに顔歪めた。振り上げたこぶしを下ろし、唇を噛む。
「鼻高々なおれを……アナは、褒めてくれた。最高の舞台だったって、称えてくれた。その瞬間……」
おれはどうしてか、すごく惨めな気持ちになった。
消え入るように告げた途端、クリスの瞳からとうとう涙がこぼれ落ちた。
透明なしずくが後から後からこぼれるのを、ロッティは声もなく見つめる。流れる涙をそのままに、クリスは堰を切ったようにしゃべり出した。
「アナだって主役をやりたかったはずだ! それなのに、アナがおれに主役を譲ってくれたのは、何よりシベリウスの舞台を優先したからなんだ……!」
付け焼き刃で自分が演じるよりも、クリスが演じた方が完成度の高い舞台になる。
アナは、そう冷静に判断したのだ。
「もしおれがアナだったら、絶対に譲ったりできないよ! たとえ無茶だとわかってたって、与えられたチャンスにしがみつくよ、絶対! でも、アナにはできるんだ。笑顔でおれの演技を認めることだってできるんだ……」
膝に顔を埋めてしまったクリスに、ロッティは静かに手を伸ばす。
さらさらした黄金色の髪を、ゆっくり何度も撫でた。クリスは何の反応も返さない。
しばらく経って、やっとクリスは少しだけ顔を上げた。すんと鼻をすすり、真っ赤に腫れた目で虚空を睨む。
「……おれも、アナみたいな情熱がほしい。自分が自分が、なんて自己顕示欲じゃなくて。眩しいぐらいまっすぐで、きれいな情熱――……」