35.彼の心は
差し入れの焼き菓子は、木の実を練り込んだ飴で表面がつやつやと輝いていた。
その美しさをじっくりと鑑賞してから歯を立てると、サクッと小気味のよい音が響いた。飴の甘さと、木の実の香ばしさ。ロッティはうっとりと吐息をつく。
アナがおかしそうに頬をゆるめた。
「気に入ってくれたみたいで嬉しいわ。よかったら私の分もどうぞ」
「えええ!? だだだ駄目ですよっ。それでなくてもずうずうしいのに……っ」
わたわたと手を振り、大急ぎで壁際まで下がる。挙動不審なロッティに、クリスがぷっと噴き出した。
「アナ、いらないんならおれが貰うよ?」
「あら。あなたにあげるぐらいなら自分で食べるわ」
澄まして告げて、離れてしまったロッティを手招きで呼び寄せる。おずおずと近付くと、アナは焼き菓子をパキンとふたつに折った。
片方を口にして「美味しい」と目を細める。
ロッティもほっとして頷いた。
「はい! とっても――……むぐっ?」
残り半分を問答無用で口に突っ込まれ、ロッティは目を白黒させる。アナがいたずらっぽくウインクした。
「半分こ。クリスともしたのでしょう?」
「は、はい……」
ロッティは観念して、もぐもぐと焼き菓子を咀嚼する。
クッキー部分はサクサクなのに、表面の飴はパリッと硬くて違いが楽しい。夢中になって食べていると、アナがロッティの髪を優しく撫でた。
「可愛いわ」
「……や、アナ。ロッティはおれらより年上な?」
あきれたように口を挟むクリスを、アナはちらりと睨めつける。
「年上だろうが年下だろうが関係ないわ。私、可愛いものは全力で愛でる主義なの」
胸を張って宣言して、「ごゆっくり」と言い残して去って行った。ひとつに結んだ黒髪が、鞭のようにしなやかに揺れる。
凛としたその後ろ姿に見惚れていると、クリスがひょいと肩をすくめた。
「ちなみにアナは十八ね。落ち着いてるから、もっと上に見えるだろー?」
「ええっ? ま、まさか四つも年下だったとは……!」
背の高いひとって羨ましい。
アナはもう他の劇団員に交じって稽古を始めている。クリスも指をひと舐めすると、「おれも戻ろっと」と立ち上がった。
壁際から椅子を引いてきて、座席をぽんと叩く。
「ロッティ、好きに見学してていーよ。おれも今日は適当なとこで切り上げるから、一緒に帰ろ」
「は、はいっ」
直立不動で返事をするロッティをちらりと笑い、クリスも軽い足取りで行ってしまった。ロッティはため息をつき、椅子を壁の片隅へと移動させる。
怖々と腰掛けて、シベリウスの稽古風景を見守った。
(……みんな、すごく楽しそう……)
どの顔も生き生きと輝いている。
きっとここにいる全員、芝居が好きで好きで堪らないのだ。
芝居と魔石という違いはあれど、ロッティにも情熱を傾ける物がある。だから、彼らの気持ちが手に取るようにわかった。
口元に笑みを浮かべたところで、突然肩を叩かれた。
「わっ?」
「よう、嬢ちゃん。確かお前さん、クリス兄の恋人だったよな?」
低い声にびっくりして顔を上げると、髭面の大男がロッティを見下ろしていた。
途端に体が震え出して、ロッティは弾かれたように後ろに下がる。椅子がぐらりと傾いだ。
「――っと危ねぇ!……すまんな、驚かせちまったか? アナからもよく怒られんだ、『せめて髭を剃れ、その悪人面をどうにかしろ』ってな」
椅子の背を支え、がははと大笑いする男をロッティは呆けたように見上げた。男はアナの父親――劇団長のダレル・シベリウスだった。
早鐘を打つ心臓を押さえ、ロッティは食い入るようにダレルを見つめる。確かに髭は怖いし体も大きく迫力があるものの、目尻に皺の寄った彼の笑顔は優しげだった。
(……大、丈夫……。このひとは、違う……)
何度も己に言い聞かせてから、ロッティはぎこちなく頭を下げる。
「こ、こんにちは。クリスさんと、フィルさんの友達の……ロッティ、です。えと、決して恋人なんかじゃなく……」
「へえ? なんだ、クリス兄の片思いだったかぁ!」
またも豪快に笑うダレルに目が点になる。
フィルの名誉のためにも訂正しなければ、と頭を悩ませている間に、ダレルがもうひとつ椅子を持ってきた。ロッティの隣にどっかりと座り込む。
「明日っから次の公演の準備に入るのさ。台本はもうできてる。主演はもちろんクリスティアナだ」
楽しげに声を弾ませ、ロッティに分厚い冊子を渡してくれた。新しい演目の台本だと気付き、ロッティは慌てて彼を見やる。
「こ、これ、大事な物なんじゃ……?」
「おう。だからやらんぞ。見るだけ、見るだけ」
ケロリと言い放つ彼にあっけに取られ、ややあってロッティは噴き出した。くすくす笑いながら最初のページを開く。
「主役は……、お姫様?」
「そう。しかし彼女は、病に伏した双子の兄を守るため、男装して兄王子に成り代わる。剣を操り政敵を蹴散らす、強く気高い戦うお姫様だ」
ぱらぱらと台本をめくるロッティの手が止まった。しばし黙りこくって考え込み、唖然としてダレルを窺う。
「あの……。つまり、役柄は女の子役だけど、彼女は男の振りをしていて?」
したり顔で頷いたダレルが、続きを引き取ってくれた。
「それを演じるクリスは、女の振りをした男だな」
「…………」
ロッティの頭の中がこんがらがってくる。
頭痛を堪えていると、ダレルがふっと笑う気配がした。愛おしむように目を細め、稽古風景をぐるりと見回す。
「……クリスには、本当に感謝してる。あの日は本当に、シベリウス存続の危機だったんだ」
「あの日……?」
少しだけ考えたロッティは、フィルから聞いた話を思い出す。確か――公演の直前に、看板女優が引退してしまったのだったか。
ダレルは苦そうに肯定した。
「フローラはなぁ、前々から待遇に不満を持ってたんだ。シベリウスを牽引しているのは自分だと、自分がいなけりゃシベリウスは立ち行かないと」
「じゃあ……。体調不良で辞めたわけじゃ、なかったんですね?」
掠れ声で問い掛けると、ダレルは唸るように黙り込んだ。またしばらく劇団員を目で追い、重苦しくため息をつく。
「舞台は主役も脇役も、控えも大道具も全員で力を合わせて作り上げていくもんだ。他の給料を下げてでも自分に寄越せ、つーのは何があろうと受け入れられない」
ぐしゃぐしゃと髪を掻きむしり、ダレルは勢いよく立ち上がった。固唾を呑んで聞き入っていたロッティに、ニッと歯を見せて笑う。
「クリス兄の心配はもっともだ。本っ当に申し訳ないと思ってる。――けど、な」
笑みを消し、真剣な表情へと変わる。
ロッティは思わず背筋を伸ばした。
「劇団長として、仲間として。俺もアナも、他の全員も――全身全霊でクリスを守ってみせる」
「ダレルさん……」
揺るぎない決意を秘めた言葉に、ロッティは目を瞠る。ややあって、はにかみながら頷いた。
「フィルさんにも……。必ず、そう伝えます」
「おう、頼んだ。クリスの奴は、俺とアナからも説得してみるからな。本当になぁ……。魔石を持ってくれたら、俺らも多少は安心できるのになぁ。あいつは何を、ああまで頑なになってんだか」
椅子を片付ける彼の背中に、ロッティも慌てて追いすがる。驚きながら長身の彼を見上げた。
「ダレルさんも……理由を、ご存知ないんですか?」
髭面を歪めたダレルは、深々と嘆息して頷いた。
「ああ。心当たりひとつありゃしねぇ」