31.もっと最速の男
「いらっしゃ――……はれ? バート?」
扉を開いた途端に明るい声が飛んできて、その声はすぐさま怪訝そうな色を帯びた。
とっとと挨拶を済ませるべく、フィルは広すぎるバートの背中を押しのけ前に出る。輝く金髪を振り払い、爽やかな笑みを浮かべた。
「はじめまして、奥様。バート殿の同僚の、フィル・ウォーカーと申しま――」
「うおおッ!? な、なんでフィルがこんなとこにっ? おまっ、さてはおれらの後をつけてたな!?」
ひび割れた金切り声が聞こえ、整った眉をひそめる。いやいやながら視線を転じると、予想通りの人物が目の前に立っていた。
フィルは聞こえよがしにため息をつく。
「……あのな。なんでここに、は僕の台詞だ。――失礼、奥様。どうやら弟がご迷惑をお掛けしたようですね?」
茶髪の女性に苦笑を向けると、彼女は恥じらうように顔を赤らめた。もじもじとスカートを握り締め、はにかみながら首を振る。
「エ、エレナッ!?」
「ご迷惑だなんて、そんな……。と、とっても素敵な弟さんですね? 彼女さんの服を見立ててあげるだなんて、すごく優しいと思います」
うっとりと呟くエレナに、バートがみるみる顔色を失くしていく。凄みのある形相へと変わると、剣の柄に手を掛けた。
「――表へ出るんだ、フィル。今から俺と決闘を」
「嫌だよ。……それで、デートだって? さすがは僕の弟。恋人がいたんだな」
どこかほっとしながらクリスに歩み寄る。
脇目も振らずに演劇にのめり込んでいると思っていた弟が、恋をする余裕もあったとは。年頃の少年らしい一面に安堵を覚えた。
クリスは唇を引き結ぶと、一転して嬉しげに頬を染める。照れたように頭を掻いた。
「そ、そうなんだ。彼女、年上なんだけど信じらんないぐらいダメダメでさぁ。服なんか黒のローブしか持ってないって言うから、おれが選んであげなきゃと思って」
「……は?」
年上?
黒の……ローブ?
絶句したフィルが再び口を開くより早く、シャッと音を立てて試着室のカーテンが開いた。反射的に振り向いたフィルの目に、美しい茜色の髪が飛び込んでくる。
身に着けているのは、薄いクリーム色のワンピース。
胸元のボタンは一番上まできっちりと止められていて、腰を同色のリボンで絞っている。彼女の華奢な線があらわになっていて、フィルはごくりと喉仏を上下させた。
食い入るように見つめていると、ばちりと音がしそうなほど強くロッティと視線が絡み合った。
「……っ」
「わわ……っ。フィ、フィルさんっ?」
途端にロッティが真っ赤になる。
やわらかなスカートをせわしなく整え、耳まで赤く染めて俯いてしまう。髪留めでまとめていた後れ毛が、はらりと前にこぼれ落ちた。
「――うわあ! すっごく可愛いよ、ロッティ!」
大歓声を上げたクリスが、すばやく試着室に駆け寄る。ロッティもおずおずと顔を上げた。
「この色なら落ち着いてるし、襟付きで清楚に見えるよねっ! 着心地はどう?」
「は、はい。とっても楽……だと、思います」
目を白黒させながら答えると、クリスはとろけるような笑みを浮かべた。ロッティに体を寄せ、耳元にこそこそと囁きかける。
「お、おい! 近いぞクリス――!」
クリスの言葉に耳を傾けていたロッティが、突然すっと背筋を伸ばした。パンと手を叩き、左右に身をくねらせる。
「ま、まあー。うれしいわー。ほんとうに、買ってくれるのー?」
「もちろんだよ! こう見えて、彼女にプレゼントする甲斐性ぐらいあるつもりだからさっ」
「やったわー。ついでに、バッグと靴もほしいわー」
「……ロッティ」
フィルが押し殺したような声を上げた。
隠しきれない怒りを感じて、ロッティはびくりと体を跳ねさせる。無表情にこちらを睨み据えるフィルを、怯えながら見上げた。
「フィ、フィルさ……?」
「なぜ、クリスにねだるのです?」
歯を食いしばるようにして問い掛けられて、ロッティは泣き出しそうになってしまう。
助けを求めてクリスに手を伸ばすと、なぜだか彼はふるふると震えていた。両手で押さえた口から、ブッフと音が漏れる。
「――ふっ、あははははは! ロ、ロッティ。もう、終わりにしていいよっ」
ロッティはきょとんと目を丸くした。
「へ? 年下カレシに貢がせる、強欲で最悪な年上カノジョ……。もう、演じなくてもいいんですか?」
「えー、残念ー。せっかく面白かったのになぁ」
げらげらと笑いこけるクリスの横で、エレナが至極残念そうに眉を下げる。ぺろりと舌を出してフィルにウインクした。
「エッ、エレナッ!? なぜ、どうしてフィルに目配せをっ」
「さっきからいろんな設定で遊んでるんですよぅ、この二人。仲が良いですよねー」
いたずらっぽく笑う彼女の言葉に、フィルは激しく崩れ落ちる。ロッティが慌てたように試着室から飛び出した。
「フィルさんっ! ど、どこか具合でも……!」
「……いいえ、大丈夫です」
差し伸べられた手を握り、フィルは己の胸元へと引き寄せる。目を見開くロッティを、跪いたまま真摯な顔で見上げた。
「ロッティ」
「はっ、はいっ!?」
視線をさまよわせる彼女を逃すまいと、フィルは握った手に力を込める。ますます動揺するロッティに、ふわりと優しく微笑んだ。
「可愛いです。とても、よく似合っています」
「……っ!?」
――やっと言えた。
フィルは満足気に吐息をつく。
本当は、観劇の時だって言いたかったのだ。なのにあの時は、自分の動揺をごまかすのに精一杯で伝えられなかった。
クリスに先を越されてしまったのは業腹だが、それでもロッティにはフィルの言葉の方が響いたように見える。翠玉の瞳をこぼれんばかりに見開いて、茜色の髪に負けないぐらい赤くなっているのだから。
愛おしげに目を細めるフィルを、ロッティはようやく正面から見返した。はにかむように頬をゆるめ、繋いだ手をきゅっと握り締める。
「ロッティ――」
「はいそこまでー!」
突然クリスが割って入ってきた。
手刀で二人の手を切り離し、ロッティの肩を抱いてあかんべえする。
「おいっ? クリス、お前気安くロッティにっ」
「触るな、はお互い様。フィルだって勝手に手ぇ繋いでんじゃん?」
「僕とロッティは親しい友人なのだから問題ないっ」
小生意気な弟に声を荒げると、クリスは得たりとばかりに頷いた。ロッティから離れ、仰々しいほど優雅に辞儀をする。
「そんなら、おれだっておんなじだ。――ロッティ、どうかおれと友達になってくれないか?」
瞬間、ロッティは虚を突かれたように動きを止めた。その顔がみるみる喜色を帯びていく。
フィルがあっと思った時にはもう遅く、彼女は勢い込んでクリスの手を取った。
「も、もももちろんっ喜んでっ! わわ私なんかでよかったら!!」
大興奮でまくし立てるロッティに、クリスはにっこりと微笑む。握手した手をぶんぶん振り回しながら、ふふんと小馬鹿にしたようにフィルを振り返った。
「出会って二日でもう友達。おれとロッティって、もしやすっげー相性いいのかもー?」
「そ、そうかもしれませんねっ」
いいえ、きっとそうに違いありません!
きゃあきゃあ仲良く笑い合う彼らを、フィルは愕然として見比べる。
――二日。たったの二日、だと……!?
(嘘だろう!? よりによって、実の弟に……!)
最速と自負していた記録があっさり打ち破られ、この世の終わりのような気分に陥るフィルであった。