22.楽屋にて
茫然自失して立ち尽くすロッティを、フィルは大慌てでソファへと誘った。肩を押して座らせて、不安気にロッティの顔を覗き込む。
「いや、驚かせてしまって申し訳ない。少し休んだら今日はもう帰りましょう。詳しい話はまた改めて――」
「かいつまんで説明しておくと、さ。そもそもの事の始まりは五年前。おれが八歳のころ、初めて劇団シベリウスの舞台を観た時に遡るんだ」
再びかつらを装着したクリスティアナ――もといクリスが、フィルの言葉を強引に遮った。混乱するロッティの隣にどっかりと座り込み、胸を反らしてふんぞり返る。
フィルは途端に苦虫を噛み潰したような顔になると、腕組みして彼を見下ろした。
「話はまた後日と言っただろ。……というかお前、その盛りすぎの胸をまず何とかしろ。この上なく目障りだ」
わざとらしく前に突き出した双丘に、苦り切った視線を向ける。
クリスは長い睫毛で縁取られた瞳を瞬かせると、ぽっと初々しく頬を染めた。大仰に身をよじり、己の華奢な体躯を抱き締める。
「まあ、フィルってば助平なんだから! 男って本当にくだらないわ」
「その薄気味悪いしゃべり方もやめろっ!」
わあわあ言い争う兄弟を、ロッティは黙り込んだまま見守った。
二人とも美形に変わりはないが、クリスの方が目鼻立ちがくっきりしていて、人目を引く派手な顔立ちをしていた。上品に整って甘い雰囲気のフィルと違い、少年の勝気な性格がよく表れている。
熱心に観察していると、視線を感じ取ったのかフィルが不意に口をつぐんだ。どきりとするロッティに、申し訳なさそうに手を合わせてくる。
「おかしな弟でびっくりされたでしょう? ですが、コイツは決して趣味でこんな格好をしているわけではないのです」
「そうそう、偶然の成り行き任せでこうなっちゃったんだよ。……だけどもおれは、今のこの生活を心から楽しんでるんだ。生き甲斐だって感じてるし、終わる日のことなんか全然考えてない」
一度言葉を切ったクリスは、羽のように軽やかな動きで立ち上がる。ほっそりした腰に手を当て、雰囲気を鋭く一変させた。
思わず息を呑んだロッティを、氷のように冷ややかに睨み据える。
「だから全部、フィルが勝手に大騒ぎしてるだけだ。――おれは別に、アンタの護符なんかこれっぽっちも欲しくはないんだよ」
「……っ」
怒りすら滲ませた、断固たる拒絶。
ロッティが肩を跳ねさせると、すぐさま庇うようにしてフィルが前に出た。憤然として口を開きかけた瞬間、激しい音を立てて楽屋の扉が開かれる。
弾かれたように振り返った先には、年の離れた男女二人が立っていた。
女性の方――すらりとした黒髪の美女が、音を立てず滑るようにして近付いてくる。
癖のないまっすぐな髪をさらりと揺らすと、彼女は切れ長の目を細めた。
「そこまでよ、クリス。お兄さんの気持ちも少しは考えてあげなさい」
「いやお前が言うなや。……まあ、そもそも許可を出した俺も同罪だが」
もう一人の髭の大男がすかさず突っ込んで、疲れたように肩を落とした。決まり悪げに頬を掻き、フィルに向かって頭を下げる。
「貴方がクリスの兄さん、だな? 挨拶が遅れて申し訳ない。俺が劇団長のダレル・シベリウスだ。そして、こっちが娘の――」
「アナ・シベリウスよ」
長身の美女が名乗ったところで、「あっ!」という短い叫びがロッティの口から漏れた。
全員の視線が集中し、彼女は途端に顔を赤らめる。緊張に目を泳がせながらも、意を決してアナに歩み寄った。
(……やっぱり!)
アナは、今日の演目で主人公のライバル役を演じた女優だった。
主人公に歌姫の座を奪われ――ありとあらゆる手段を使って彼女を追い落とそうとする、高慢ちきで自己中心的な敵役。
舞台上では憎々しげに顔を歪めていた彼女が、今は凛としたまっすぐな眼差しをロッティに向けている。ロッティはその美しい顔から強いて目を逸らしながら、俯き加減に口を開いた。
「あ、あの……っ。舞台、すごく素敵でした。く、クリスティアナさんはもちろんですけど、アナさんの、歌も演技もっ。動きとか表情のひとつひとつが、本気で腹が立っちゃうくらい真に迫っててっ。片時も目が離せませんでしたっ」
人見知りなロッティにしては、最大限の勇気を振り絞って熱弁する。それだけ、初めて観た歌劇に心を奪われたのだ。
アナはひとつ瞬きすると、ふわりと瞳の色をやわらげた。優しくロッティの手を握る。
「嬉しいわ。ありが」
「そうだろぉっ!? なんだよ魔女さん、ロッティだっけ? アンタなかなかわかってんじゃんっ!」
ぱっと顔を輝かせたクリスが、ばしばしと激しくロッティの背中を叩いた。思いのほか強い力に、ロッティは前のめりに倒れかける。
「クリスッ! お前はっ!!」
怒声を上げたフィルが、すかさずロッティを支えてくれた。フィルの胸に抱きとめられるような形になり、ロッティは完全に硬直してしまう。
(あ、あわわわわっ!?)
「大丈夫ですか? お怪我は?」
気遣わしげに確認するフィルに、ロッティは真っ赤な顔でかぶりを振り続けた。それでやっと安堵したのか、フィルは少しだけ体を離す。
しかし、その手はいまだロッティの肩に掛けられたままだ。
(ひょええええ)
大きな手の平からフィルの体温がじんわり伝わって、ロッティはもう爆発寸前だった。
ぱくぱくと口を開け閉めするばかりの彼女に優しく微笑みかけ、フィルはクリスを睨みつける。
「全く。お前は女性の扱い方というものが――」
「あらぁ? むしろお礼を言われたっていい場面だと思うけどぉ?」
クリスが長い髪をかき上げてにやつくと、フィルが言い返すよりも早く、アナが生真面目な顔で手を伸ばした。フィルから力ずくでロッティを引き剥がし、フンと軽蔑したように鼻を鳴らす。
「しめしめと内心で思っているのが丸わかりだわ。嫌らしい男」
「いやはや、聞きしに勝るタラシっぷりだなクリス兄。クズ男臭がぷんぷんするぞぅ」
「酷くないですかその誹謗中傷ッ!?」
劇団親子から口々に畳み掛けられ、思いっきり脱力するフィルであった。