2.路地裏の邂逅
『宝玉の魔女』ロッティ・レインの朝は早い。
なぜなら一睡もしていないから。仕事が佳境になると、彼女はいつも徹夜で魔石を仕上げてしまうのだ。
「ふ、あああ~~~~」
作業台の上いっぱいに広げた大きな布。
布に描かれた円の周りには、ロッティが編み出した術式がびっしりと書き込まれている。
己の魔力を地の属性に変換する術式に、地の属性に破邪の効果を付帯する術式。さらに加護までおまけで付けて、仕上げに魔石に魔力を浸透させていく術式……。
指で術式をなぞる度、細かな文字はうっすらと光を放つ。
慎重に慎重に魔力を指先に込め、ゆっくりゆっくり動かして――……
なんてことをしていたら、いつだって夜はあっという間に終わってしまう。
もう少ししたら寝よう、ここまで魔力を込めたら休もうと思っていても、いつだって途中でやめられたためしはない。
強ばった腕をぐるぐると回し、ロッティは足を引きずるようにして作業部屋を出る。
「さすがに少し仮眠を取ろう……。食材だってもうないし、ひと眠りしたら買い出しに行かなくちゃ……」
寝室で休んだら本格的に寝入ってしまいそうだったので、居間の片隅にある小さなソファに横たわった。狭くたってきちんと体を折り曲げれば入るのは、ロッティの体がとても小さいから。
十五を境に身長は伸び悩み、二十を二つ越えた今でもロッティはちびのまま。うっとうしく覆いかぶさった前髪も相まって、完全に年齢不詳な見た目といえる。
毛布にくるまり、小さな体をさらに小さく縮こませる。
「外に出るなら着替えは……うーん。ま、このままでいっか。カイさんの商会なら、顔見知りばっかりだもの……」
むにゃむにゃと独り言ちて、幸せそうに目を閉じた。
***
「いらっしゃ――あら、ロッティちゃん! 相っ変わらずみすぼらしい身なりだねぇ!」
商店の扉を開いた瞬間、けたたましい声が飛んでくる。
言っている内容自体は酷いものの、その口調は朗らかで決して毒は込められていない。
カイの父親が経営する『オールディス商会』の業務は多岐に渡り、王都の中心部に位置するこの食料品店も商会の所有だ。今しがたロッティをけなした女性がここの店長を任されている。
ロッティはぐるりと店内を見回すと、女性の腕を引っ張って目立たない片隅へと移動した。
「こんにちは、クレアさん。……塩漬けの豚肉と魚の燻製、それから豆と日持ちのする根菜を。これで買える分だけお願いします」
フードと長い前髪で顔を隠したまま、革袋から適当にひと掴み銅貨を取る。ひいふうみい、と数えてから、クレアはにっこりと頷いた。
「はい、毎度あり。追加で新鮮野菜と果物も入れておこうね」
「いえ、あのそれは……」
腐らせる自信しかない。
ロッティは料理が苦手だし、そもそも仕事中はついつい食がおろそかになりがちだ。小さな声で抗弁する彼女を完璧に無視して、クレアは手早く品物を集めてしまった。
「はい、どうぞ。健康の基本は食からだよ、ロッティちゃん」
「……ありがとう、ございます」
仕方なく紙袋を受け取って店を後にする。
深く俯いて歩き、賑やかな大通りから脇道へと逸れた。行きかう通行人の姿が見えなくなり、それでやっと安堵して足を止める。
両腕で抱えた紙袋からみずみずしい緑の葉が見えて、知らず知らずため息がこぼれた。これはもう、帰ってすぐ生のままかじるしかない。
(味付けは……塩でいっか)
「おーい、ロッティ!」
突然野太い声が飛んできて、ロッティはびくりと体を揺らす。
そのまま振り返りもせず足を速めると、背後から荒々しく肩を掴まれた。ひっと小さく息を呑んで硬直するうちに、体ごと強引に振り向かされる。
「てっめぇ、明らかに聞こえてるくせに無視すんじゃねぇよっ」
「……なんだ、カイさん」
体から力が抜けて笑顔になると、カイは大仰に肩を落とした。
「あのな。それなりに付き合い長いんだからよ、いい加減オレの声ぐらい覚えろっつの。毎度毎度ビクつきやがって」
「ごめんなさい……。でも『ああカイさんの声だな』って思う前に、『ああこれ絶対質の悪いチンピラだな』って、足が勝手に逃げるんです……」
しおらしく頭を下げたロッティに、カイの機嫌がみるみる急降下していく。
壁に手を突き、長身の体で覆いかぶさるようにしてロッティに凄んだ。
「あぁん? てンめぇ、このオレ様のどこがチンピラに見えるってんだっ!?」
「ひいぃ~! どどどどこって言われましてもっ。強いて言うならその絶妙に裏返る声とか、やっすい挑発の仕方とか、脅すために無駄に距離を詰めてくるところですぅ~!」
「…………」
気が弱いくせに口が悪い。いや、これは対人関係を構築するのが苦手であるゆえか。
カイが毒気を抜かれて固まっている間にも、ロッティはカイの腕の下でぷるぷると小動物のように震えていた。前髪に隠れて見えないものの、きっと涙目になっているに違いない。
途端に弱い者いじめをしている気分になり、カイはロッティのフードにぽんと手を置いた。
「あ~……。悪かった。別にもう怒ってねぇって――ッ!?」
突然、カイが声にならない悲鳴を漏らす。
びっくりして顔を上げたロッティの目の前に、すっと手が差し伸べられた。細く長く、うっとりするほど綺麗な指。
固まったまま鑑賞していると、頭上からやわらかな声が降ってきた。
「大丈夫ですか、お嬢さん?」
「へっ……!?」
弾かれたように見上げれば、思いのほか近くに柔和に微笑む男の姿があった。
ロッティは声もなく男の顔に見入る。
眩いばかりの金の髪に、水の魔石のような深い青の瞳。切れ長の目は鋭いのに、目尻がほんの少し下がっているお陰か甘い印象を与える。端正な顔立ちに、女性が悔しがりそうなほどきめ細やかな肌。
「あ……、あ……」
壁に背中をぴったりくっつけて、それでもまだ下がろうとするロッティを見て、男がすうっと目を細めた。
目にも止まらぬ速さで、側に立ち尽くしていたカイの体を壁に叩きつける。
「婦女暴行の現行犯だな。今すぐ警邏隊に引き渡す」
「はあ!? 違っ、オレは引きこもりのこいつの唯一の友人でっ」
カイが焦ったように暴れ出すが、男に押さえ込まれた体はびくともしない。
身長は同じぐらいだが、男はカイに比べてあまりに華奢だった。それなのにカイの方が明らかに力負けしていて、カイは死にものぐるいで潰れた声を張り上げた。
「ロッティ! 何とか言えって! 早く否定しろ、この男の誤解を解いてくれっ」
「あ……。カイ、さん……」
目の前の美形から必死で視線を引き剝がし、震えながらも一歩前に出る。
美形の顔は見ないようにして、カイだけを睨むように見据えた。
「……ゆ、ゆゆゆ唯一、じゃ、ありません。クレアさんだって、お友達って言えるかもしれないし……っ。引きこもり、でもないっていうか。今日だって、ちゃんとこうして買い出しに来てますからっ」
「……………」
そこじゃねえぇぇぇぇぇーーーーッ!!
カイの悲痛な叫びが、狭い路地裏に響き渡った。