表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
19/70

19.天上の調べ

(すごい、すごい……!)


 生まれて初めて目にする歌劇に、ロッティの心は完全に奪われていた。


 宝石が散りばめられた華やかな衣装、軽快な台詞回し、そして優雅ながら目まぐるしいダンス……。


 けれど、何より素晴らしいのは歌だった。


(歌姫、クリスティアナ……!)


 舞台上に何人いようと、いつだって吸い寄せられるように彼女の姿を追ってしまう。ひとたび彼女が口を開けば、固唾を呑んで歌に聞き入ってしまう。


 類まれなる歌声、人間離れした美しい容姿。


 ロッティの目はもう舞台に釘付けで、興奮のため胸は高鳴りっぱなしだった。

 隣のフィルはというと、劇が始まってからずっと身じろぎひとつしていない。どうやら彼も凄まじい集中力を発揮しているらしい。


 一瞬だけ彼に思考が飛びかけたものの、クリスティアナが天上の調べを紡ぎ出した途端、ロッティは再びきらびやかな物語へと没入する。潤んだ目を細め、うっとりと歌に聞き惚れた。



 ――この物語の主人公もまた、歌姫だった。


 歌うことを何よりも愛しているのに、彼女に与えられるのはいつも端役ばかり。歌どころか台詞ひとつなく、舞台の後方で踊るだけの日々を過ごしていた。


 そんなある日、彼女は代役として歌を披露する機会に恵まれる。素晴らしい歌声で観衆を魅了した彼女は、一夜にして表舞台に躍り出た。


 自信に満ちあふれてどんどん美しく変わっていく彼女に、主役の座を奪われた前の歌姫、そして二番手、三番手の歌い手達の醜い嫉妬が襲いかかる。


 激しさを増していく嫌がらせに、彼女は次第に身の危険を感じるようになる。


 不穏な雰囲気を残したまま、第一幕が終わった。




 ***



 割れんばかりの拍手がホールに木霊する。

 ロッティも夢中になって手を叩き、大興奮のままフィルを見上げた。


「歌姫さん、すごく素敵でしたっ。酷い嫌がらせにはらはらして、腹が立って、でも歌姫さんは強くて全然負けてなくて! 格好いいです、憧れます!」


 主役を演じるクリスティアナは、おそらく二十そこそこといったところだろう。

 黄金の長い髪が美しい、目鼻立ちのはっきりした美人だった。


「――でも、何よりあの瞳ですっ。紫水晶みたいな綺麗な色もそうですけど、凛とした意志の強さが宿ってて……! きっと、彼女は絶対に諦めないひとだと思うんですっ」


「ははは……。そう、ですね。おそらく、大正解だと思いますよ……?」


「……フィルさん?」


 周りの観客達はもう立ち上がっているのに、フィルは座り込んだままだった。力なく背もたれに体を預け、虚ろな笑い声を響かせている。


「凄い、のか……? いや、凄いだけに最悪だ……。あああああ」


「フィルさーーーんっ!?」


 とうとう頭を抱えこんでしまった彼を、ロッティは必死になって揺さぶった。


(一体、どうしちゃったの……!?)


 あれほどの舞台を目にした直後だというのに、フィルのこの打ちひしがれよう。歌劇は好みではなかったのだろうか。


「あの、フィルさん……? もしも、気分がすぐれないのなら……」


「大丈夫です、問題ありません! 途中退席など死んでもできませんからっ!」


 おずおずと声を掛けた途端、彼は弾かれたように顔を上げた。血相を変えたその様子に、ロッティはぱちくりと瞬きする。


「いえ、あの……。外の空気を吸いに行きませんか?って言うつもりで……」


「あ……っ」


 フィルは赤面すると、やっと座席から立ち上がった。気取ったようにロッティに腕を差し伸べる。


「では、バルコニーに出ましょうか。きっと夜景も美しいことでしょう」


「……はい」


 大真面目に頷いて、フィルの腕に手を掛けた。けれど内心、ロッティは懸命に笑いをこらえていた。

 あれだけ挙動不審だったのに、女性をエスコートするとなると、まるで条件反射のように張り切りだす。


(フィルさんって……。面白いひと)


 もはや、フィルに対する苦手意識は完璧に消えていた。

 はにかみながら彼を見上げると、彼は幕の下りた舞台に視線を向けていた。

 息苦しそうな、祈るようなその顔にロッティははっとする。同じような表情を、いつかどこかで見た覚えがあった。


 フィルに案内されながら、ロッティはじっくり己の考えを咀嚼する。


「あ……っ。そっか!」


「ロッティ様?」


 怪訝そうに首を傾げた彼に、笑顔でかぶりを振った。

 ここに来てから、彼の態度がおかしくなった理由。その答えを見つけた気がしたのだ。




 ***



「わぁ……! 綺麗です……!」


 バルコニーに出た途端、ロッティは歓声を上げてフィルから離れる。手すりにかじりつき、家々から漏れるやわらかな明かりに一心に見入った。


 道の端、等間隔に並んだガス灯もぼんやりとした光を放っている。下から見上げることはあれど、ガス灯を遠くから見下ろすのは初めてだった。


 ゆっくりと歩み寄ってきたフィルも、微笑みを浮かべてロッティの隣に立つ。

 夜景に負けず劣らず美しい彼の横顔を見つめながら、ロッティはじんわりと感慨に浸った。


(不思議、だなぁ……)


 したこともないお洒落をして、見たこともない景色を心の底から楽しんで。


 自分にはこんな経験、全く縁がないと思っていた。

 それなのに今、自分とは正反対の生活を送る人と、同じ時間を共有している。少し前までの自分に教えてあげたら、「嘘だぁ!」と全力で否定したに違いない。


 思わず頬をゆるめると、フィルが不思議そうにロッティの顔を覗き込んだ。目顔で促され、ロッティは唇を湿らせてから口を開く。


「……フィルさんの、ご家族はどんなかた達なんですか?」


 ロッティの突然の質問に、フィルは虚を衝かれたように瞳をしばたたかせた。けれど、ロッティにも意図があって聞いたことだ。

 フィルはしばし沈黙して、夜景へと視線を戻す。


「……父はカイ殿と同じような、敏腕な商売人、かな。母は明るく優しいひとですよ。――血の繋がりは、ありませんが」


「え……」


 目を丸くするロッティに、フィルは笑って頷いた。


「実の母は、僕が物心つく前に亡くなりました。十歳の頃、父が再婚して……義母は僕に、実の子供にするように惜しみなく愛情を注いでくれた」


「そう、だったんですね……」


 ――羨ましい。


 反射的に飛び出しかけた言葉を慌てて飲み込み、ロッティも夜景に見入る振りをする。ガス灯の明かりが少しだけ滲んだ。


「再婚後に、弟と妹が生まれました。かなり年が離れているし――僕は十五で騎士を志し、故郷の街から王都へ出ましたから。決して仲が悪いわけではないですけど、さして親しいわけでもありません」


「……へ?」


 あれ?


 密かに首をひねるロッティには気付かず、フィルは「ロッティ様のご家族は?」と朗らかに問い掛ける。

 ロッティは一瞬言葉に詰まったものの、素直に話すことにした。


「……私の父も、ずっと昔に亡くなりました」


 途端に表情を曇らせたフィルに、急いで「でも!」と続ける。


「母は、私なんかと違って綺麗で、明るくて友達もいっぱいいて、すごく素敵なひとでした! 私のこと、何より大切にして愛してくれて」


 胸が苦しくて言葉が出なくなる。

 それでも、何度も深呼吸を繰り返し、小さな声で付け足した。


「私も母が、世界で一番大好きでした……」


 消え入るような呟きに、フィルも何かを察したのだろう。ふわりと笑んで、壊れ物を扱うようにロッティの手を取った。


「あなたを見ていると、どんなに素敵なかただったか目に浮かびます。――さあ、そろそろ戻りましょう。第二幕が始まります」


「……はいっ」


 目尻を拭い、歩き出す。


 フィルは、気付かない振りをしてくれた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ