18.決意と共に
日はすっかり西に傾き、空の向こうはロッティの髪と同じ茜色に染まっていた。
目の前にそびえ立つ荘厳な建物を、ロッティは声もなく見つめ続ける。真っ白な太い柱が幾本も連なって、壁には精緻なレリーフが彫り込まれていた。
フィルから優しく促され、ロッティは真っ赤な絨毯を恐る恐る踏みしめた。自分ひとりだけが激しく場違いな気がして、そわそわと落ち着かない。
「フィル、さん……。わたし、私、へんじゃないですか……?」
涙目で見上げると、瞬間息を呑んだフィルは「そんなことありません!」と勢い込んで否定した。
「だって、あなたはこんなにも可愛……いやその、今日のこの場に相応しい装いをされていますからね!」
「本当ですか!?」
よかった。
服を買うのは緊張したが、エレナのお陰でどうやら恥をかかずに済んだらしい。
ほっと安堵したら、やっと周囲を見回す余裕が出てきた。
ロッティの周りの人々も、皆思い思いのお洒落をして、興奮したように頬を上気させていた。連れとぺちゃくちゃとおしゃべりをしながら、せわしなく中を見物して回る。
「……皆が皆、慣れてるわけじゃないんですね?」
こっそり囁きかけると、フィルが苦笑して頷いた。
「昔と違って庶民にも手が届くとはいえ、そうそう通い詰められる金額じゃありませんから。それは張り切りもしますよ」
「なるほど……」
カイは『庶民の娯楽』と言っていたが、その語頭には『特別な』と付けてもいいのかもしれない。
周りの人々の初々しい様子に、自分だけじゃないのだと悟ったロッティの緊張もほぐれていく。
「ロッティ様も、初めてなのですよね?」
微笑むフィルに、はにかみながら頷いた。
「はい。フィルさんが誘ってくれなければ――華やかな歌劇なんて、私には一生観る機会はなかったと思います」
***
劇団シベリウス。
ここ王立劇場を拠点として活動する、この国一番の歴史ある劇団だ。王都民に爆発的な人気を誇っているという。
世俗に疎いロッティですらその名は知っていたが、今日を迎えるまでその他のこともしっかり予習してきた。無論、情報源はカイである。
大ホールに足を踏み入れてから、フィルの様子がどことなく変わった気がした。明らかに口数の少なくなった彼を訝しく思いながら、二人並んで真紅のビロードの椅子に腰掛ける。
「団員さん達には、それぞれ熱狂的なファンがついてるんですよね? 中でも、今最も人気なのが――」
「歌姫と讃えられる新人クリスティアナ。看板女優であるフローラの退団後、代役として主役に抜擢されたんだとか。麦の穂のような黄金の髪をたなびかせ、この世のものとも思えぬ美声で歌うそうですよ。……僕も、実際に見るのは初めてです」
ロッティの言葉を早口で遮ると、フィルは緊張したように空咳した。まるで、挑むかのように舞台を睨み据えている。
つられてロッティも前方を見た。
(……舞台、すごく近いな……)
これほど近ければ、きっと役者の息遣いすら感じられるに違いない。まだ幕の降りている舞台を、ロッティも強ばった表情で見上げた。
(フィルさんの相手って……劇団の、誰なんだろう?)
あの日、フィルから貰った手紙の文面を思い返す。
『事情をお話する前に、ロッティ様にはぜひ魔石を贈る相手にお会いして欲しいのです。そうすれば、わたしがこんなにも魔石を必要とする理由をおわかりいただけるかと思います』
そうして、フィルは劇団シベリウスの舞台を共に観ることを提案してきた。お相手というのは、どうやら件の劇団員らしいのだ。
ロッティはフィルの提案を受け入れた。
フィルと違いロッティには魔石を作る以外の予定はないので、日取りも至極あっさりと決まった。
(……でも……)
ロッティ達が座るのは、最前列のちょうど真ん中の席。
たった数日前に、これほど良い席が確保できるものだろうか――?
***
フィルはひどく緊張していた。
ここに来るまでの心躍るひとときは、もう随分と前のことのように思える。隣に座るロッティに微笑みかける余裕すらない。
汗ばんだ手で、膝をきつく握り締めた。
(……やはり、来るべきではなかったか……?)
自問自答して、いや、ときっぱり否定する。
千の言葉を尽くすより、現状をロッティに見てもらうのが一番手っ取り早い。何より、フィルにはこの舞台を観る義務がある。
同じ王都にいながら、ここに来るのをずっと避けてきた。
何度となく説得を試みたが、全くの徒労に終わってしまった。とにかく一度舞台を観てほしい、と相手は声を枯らして主張したのに、自分は頑なにそっぽを向いたままだった。
(……だが、それも今日で終わりだ)
深呼吸して顔を上げると、ロッティが食い入るように自分を見ているのに気が付いた。
こぼれるように大きな瞳が、今はフィルを案じるように揺れている。
体の強ばりが解け、我知らず笑みがこぼれた。彼女の耳元にそっと囁きかける。
「……じき、始まります。途中休憩もありますから、軽く何か食べることもできますよ」
「や、もう飲み物すら入りません……」
情けなさそうにお腹を押さえる彼女に噴き出して、フィルは再び舞台を見上げた。
(……大丈夫)
隣に、彼女がいてくれる。
目を逸らさず、最後まで見届けよう。
フィルの決意に呼応するかのように、開幕のベルがけたたましく響き渡った。
――ゆっくりと幕が開く。