6 - アダム乗車する
満足いくまでシャワーを楽しんだ私は、お出かけ用の服に着替えた。今日は青森に行くために、アダムの一張羅を買いに行く予定だ。
リビングのローテーブル中央に鏡をセッティングし、化粧道具を並べた簡易化粧台で化粧をしていた。
「何しとるんじゃ?」
化粧に夢中になっている私に、横になったアダムがつまらなそうな視線を向けてくる。
「化粧だよ。ちょっとでも可愛くなろうと、女の子はみんなするよ」
「変わった文化じゃのう。顔に何じゃ……泥を塗っておるのか?」
私が化粧下地クリームを肌に伸ばしているのを、ぼんやりと見ながらアダムが訊いてくる。
「泥ではないけど……どう? これだけで肌がワントーン明るくなっているでしょ?」
「う~ん。そのままで良いと思うがのう」
人生でこんな甘い台詞言われたことがないから、ついキュンとしてしまう。平然を保っているように見せかけてはいるけれど、内心ドキドキで顔が赤くなっていないか心配だ。
「それは……ありがとう」
話しながらも作業の手は止めず、テキパキと化粧進める。最後に、桜色のリップを唇にのせると、ものの十五分程度で化粧が完成した。
「どうよ?」
したり顔をアダムに向ける。
「確かに、血色が良くなったような気がするの」
「そうでしょ? じゃあ、そろそろ出かけるから準備して」
化粧道具を片付けて、出かける準備を始める。準備といっても、スマホと化粧ポーチをバッグに詰めるくらいのもので、すぐに終わった。
アダムは案の定、準備することなどなさそうだった。
「じゃあ、行くよ」
鞄を持って玄関に向かう。その後をアダムがおとなしくついてきた。
「靴どうしよ……」
服はジャージがあったからとりあえず着せた。しかし靴はどうだろう。大き目なものは私の記憶の限り持っていない。
「靴とはコレのことか?」
「うん。そうなんだけど……アダムさんに合うサイズのものが家になくて……」
「我は必要ないぞ。むしろ、邪魔じゃ!」
「でも、東京はエデンの園と違って、コンクリートで舗装されているし、履物なしじゃ怪我しちゃうよ……そうだ!」
私はトイレのスリッパがフリーサイズであることを思い出した。生乾きのスリッパを持ってきて、玄関に並べて置いた。
「これ履いて、何もないよりいいでしょ?」
「すまない。迷惑をかけるな」
「今さら? 感あるけど、大丈夫だよ」
そういう経緯で完成した、ちんちくりんのジャージにトイレのスリッパを合わせた、奇抜な変人が生まれた。裸にイチジクの葉の変体よりは大分マシだろう。
全ての準備が完了し、私とアダムは家の外に出る。玄関扉の先はどこまでも青空が広がっている。昨日の嵐が噓のような、絶好の買い物日和だ。
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「おお……我ら以外にも人がいたのか……?」
最寄り駅についた途端、アダムは産声のような新鮮な声をあげる。そういえば、アダムは落雷の中より現れてから、私以外の人には会っていなかったのを思い出す。昨夜、私が母と電話していたときはどう思っていたのか知らないが、確かに直接、人を見るのは初めてだ。
昨日は都内全域で一日中運行停止だった鉄道も、今朝から全線運転を再開している。
昼前の駅は人が疎らだ。元々大して活気もない駅は、一層活気がなかった。しかし、人を見るのが初めてなアダムにとっては、丁度良かったのかも知れない。
「こっちおいで、切符買うよ!」
「きっぷ……? とは、わからんが、わかった」
アダムは私のことをイブだと勘違いしている。それは勘違いでしかないのだけれど、彼にとっては私がイブであり、決して知らない人間ではない。初めて外に出て、周りが知らない人ばかりで、さすがのアダムも緊張しているのか調子が狂っている様子だ。やけに素直でおとなしい。
「先ずは上の掲示板で行きたい場所の料金を見る。今回はこの310円のところね」
運賃表を丁寧に指差し、優しく説明していく。
「それで料金がわかったら、この穴にお金を入れて。310円を押す。……やってみて!」
先に私が見本をみせる。まじまじと券売機を眺めるアダムはとても集中している。私が手渡した小銭を受け取ると、早速言われた通りに券売機と格闘する。
「先ずはここにコインを入れるんじゃな?」
「そう」
「それで……それから……。この記号を押していたか?」
「そっか……アダムさん、字が読めないんだ? それで、あってるよ」
「よし」
切符が券売機から排出される。アダムは初めて買った切符を感慨深げに眺めていた。
「うおぉぉぉぉぉっ! 我の切符じゃ!」
券売機の前を独占したアダムが雄叫びを上げる。幸い比較的人が少ない時間帯だったので、邪魔にはならなかったけれど、利用客からは露骨に避けられていた。アダムの前以外の券売機に列が形成され始めてそうな雰囲気を感じとった私は、彼を構内の端の方に引っ張った。
「さあ、行くよ」
私はアダムを駅の自動改札機レーンに並ばせる。
「そこにさっき買った切符を入れて」
「なぜじゃ……。これは我の……」
——ピコンッ!
けたたましい音が構内に鳴り響き、アダムの走路を塞ぐ二対のストッパーに、足止めされる。
「ほら、切符入れないから。他の人の迷惑になるから早く!」
言いながら私が先に切符を通して、自動改札機を潜り抜ける。
穴が開いて帰ってくる切符をアダムに見せつける。
「ちゃんと帰ってくるから切符入れて、こっち来て! じゃないと私、先に行っちゃうよ?」
「待ってくれー」
アダムも渋々、切符を通して改札を抜けて、こちら側にやってきた。
「迷子にならないように、ちゃんとついてきてね」
後ろにアダムがついてきているか随時確認しつつ、私は乗り場に続く階段を降りていく。
細く下へ続く階段を抜けると、視界の両側がパッと晴れた。電車は一台も停車しておらず、長い線路が見渡せる。
電光掲示板に記された時刻は、午前十時五十分。停車予定時刻が縦に三つ並んでいて、次の電車がやってくるのは五分後と表示されている。
「電車がくるまで少し時間があるし、混み合ってもないから、座って待ってようか?」
そう言って、私は構内に設置された一人掛けベンチに腰掛ける。アダムも私の隣に腰掛けた。
もうすぐ十月だというのに、今日のような晴れの日はまだまだ暑く、座っているだけでもじんわりと背中が汗ばんでくる。
特急列車が目の前を凄まじい速度で通過していく。
「何だ今のは⁉」
アダムが大袈裟に音を立てて、椅子から崩れ落ちる。
「あれが電車だよ。今から私達もあれに乗っていくんだよ……」
動揺するアダムに、にんまりと笑んだ私は衝撃の事実を優しく教えてあげる。
「あれに乗るだと⁉ お主、正気か?」
「正気だよ。この時代の人達はみんな毎日乗ってるよ?」
「エデンの園にいた、どんな獣よりも恐ろしい……」
「ほら、来たよ」
私達が乗車予定の快速電車が目の前に停車する。プシューという空気が加圧される音が耳に飛び込んできた。
「行くよ」
ドアが自動で開かれるのを合図に、私は電車に乗り込む。
「我は絶対に乗らんぞ!」
両腕を組んだアダムは、自動ドアの前で仁王立ちしている。絶対に電車に乗らないという強い意志をその瞳から感じる。
「いいけど私、行っちゃうよ?」
「どこ……へでも……行くがいい」
歯切れの悪くアダムが言う。
発車メロディーが構内に鳴り響く。
「ご乗車になられないお客様は、黄色いブロックの内側までお下がりください」
アダムが落下防止レーンの中にいるものだから、電車を発車させることが出来ず、アナウンスで注意される。
「迷惑でしょ! 恥ずかしいから早く乗って!」
乗客からの冷たい視線を背中で受け、私は全体重を込めてアダムを電車内に引きずり込んだ。