4 - 初夜
時刻は午後九時。
良い子はとっくに寝る時間だというのに、私は床に就くことはおろか、本当にこのままアダムと、ひとつ屋根の下で一夜を過ごすのかどうか気が気でなかった。
なし崩し的に話だけ勝手に進んでいるが、私は至って純粋な生娘だ。付き合ってもいない男と一夜を共にするなんて、よく考えたら想像出来ない。家族以外の男を家に上げたのだって初めてなのに。
「この……電気というのはすごいの! 夜なのに昼のようじゃ。とは言え、日も落ちてきたことだし……そろそろ」
カーテンを開けてぼんやりと窓の外を眺めながら、アダムが真意を告げる前のジャブ打ってくる。語尾に言い淀みを感じたので、絶対に電気の話とは別の真意を隠している。何か良からぬことを言い出すのはわかっているので、私は黙って覚悟を決め唾を飲んだ。
勢い良く息を吸い込んだアダムは重く口を開いた。
「そろそろ、まぐわおう……」
私の元へやって来たアダムは、しなやかな手で私の顎を持ち上げた。いわゆる『あごクイ』だ。人生でそんなことをされたのは、もちろん初めてで、自分の身体が火照っていくのがわかる。
「は……犯罪ですよ⁉ 警察呼びます」
動揺を隠し切れない震えた声で私は言う。
家に入れたのだから、それはもう実質オーケー理論だろうか。そんな許可、私は断じて出さない。憐れみで家に入れてやれば、つけあがりやがって、この男は。
「ケ……イサツとはなんだ?」
「その手はもう通じないです。今から正義の執行者を呼んで、あなたを懲らしめてもらいます」
「なにが気に障ったのだ? エデンの園では毎日のように……。そうか⁉ わかったぞ! そういうことなのだな、それでは仕方ない」
警察という権力に日和ったのか、アダムはなにやら勝手に納得した。それに今までになかった、私への気遣いをみせた気がする。
「絶対、私に触れないで! 触れたらほんとに警察呼ぶから。脅しじゃないからね!」
私にその気がなくて、かつアダムにダイレクトに求められて尚、通報しない理由は、私が口だけ嫌といいつつ本当は求めているというわけでもなく、単純に警察を呼んであれやこれやと問題にするのが面倒だからだ。本当に身の危険を感じたらすぐに通報する。
「約束しよう。神に誓って、今日はお主指一本触れんと!」
「アダムさんって、神に背いてエデンの園を追放されたんじゃないの? 神に誓うって言ったって信用出来ないよ」
「そう言われると、言い返す言葉もないな。我はそんなにも信用がないか……」
出会ってその日で信用もなにもないでしょう。そう棘を向けても良かったが、アダムの落ち込んだ顔を見ると、私にそれを言う勇気はなかった。
「ここに居たいなら、この部屋で夜が明けるまでおとなしくしていてください!」
「ああ。我は先に休ませてもらう」
そう言ってアダムはその場に横になった。両手を貝のように併せて、枕の代わりにしている。一瞬で寝息を立て始め、実に満足そうな顔で寝始めた。
「さっきまではあんな欲情的に求めてきたっていうのに、出来なきゃ出来ないでいいのかよ!」
私は眠ったアダムに言い捨てて、我が家で唯一鍵がついているトイレに駆け込んだ。ペットボトル飲料水を始めとした、生活必需品を出来る限り持ち込む。普段から割と掃除は頑張っているので不快感はそこまでないが、抵抗が全くないというと嘘になる。
蓋をした便座の上に腰を据え、トイレの鍵を内側から閉めると、私は一緒に持ち込んだスマホで動画視聴を始めた。幸いトイレ内にコンセントもあるので、私はここで朝まで動画視聴を決め込むつもりだ。
これなら夜な夜なアダムに襲われることもないだろう。
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結局私は午後の十時から朝の六時まで、ぶっ通しで映画を四本観た。最近はゆっくり映画を観る時間も余りなかったので、観だすと止まらなくなって、朝まで一瞬だった。さすがに、座りっぱなしで腰が痛い。
腰を摩りながらトイレを出ると、閉塞感から解放され清々しい気持ちになった。
アダムのことなんてすっかり忘れた私は、そのまま玄関の外に出る。
「清々しい朝だ……」
玄関扉の向こうは、どこまでも澄み渡った青空が広がっていた。昨夜の嵐はどこへやら、全く後を残さずに台風は消え去っている。
背中を一杯に伸ばして深呼吸する。一晩中トイレに閉じこもった私に、朝の新鮮な空気が満ちていく。
嫌なことも一生目を背け続けるわけにもいかず、私はアダムの様子を見るためにリビングに戻った。
アダムは未だ就寝中。スヤスヤと可愛らしい寝息を立てている。
「黙ってると、可愛いんだけどな……」
眠ったままのアダムは穢れを知らない赤子のようだ。普通に生きていては、こんな美少年なかなかお目にかかれない。有名な博物館に展示されていそうなほど、顔、体、全てが整っている。
「今日、アダムさん用の服を買いに行くとして……アダムさん本人どうしよう。今さら感あるけど、家主として私のいない家に置いていくのもあれだし……。裸で買い物に付き合わせるわけにもいかないしな……」
さて、どうしたものかと思考を巡らせていても、視線はやはり目下の美少年に吸い込まれる。
「本当にイケメンだな~」
顔を近づけて間近で見ると、より一層美しい。きめ細かい肌に、ぴんと逆立った長いまつ毛。気付けば私は見とれていた。
「先に起きていたのか?」
「うわっ⁉」
あまりに唐突にアダムがパッと瞼を開くものだから、驚きでたじろいでしまう。
「ど、どうしたの……。起きてたんだアダムさん」
「いや、今しがた起床した」
危なかった。もう少し見惚れ続けていると、思わず頬をツンツンとかしていただろう。
「そう。それならいいのだけど」
体を起こしたアダムは首を傾げる。
「あ、そうだ。私、この後、アダムさんの服を買いに行こうと思うのだけど、アダムさんはどうする?」
アダムが不信感を抱く前に話題を切り替える。
「無論、イブが行くなら、我も行く」
「だよね……」
「うむ」
「じゃあ、ちょっと待ってて」
アダムが着れそうな服はあっただろうか。とりあえず急をしのげるような。
私の身長は百四十七センチでどちらかといえば小柄な方だ。アダムの身長は目測で百七十から八十はある。
クローゼットを開いて、目ぼしいものを探し出す。
「これなら」
クローゼットの奥深くに眠っていた、高校時代の体操服——ジャージ。「これからまだ成長するかも」とか言われて、少し大き目を買ったのだ。それでも、大きなアダムの体にはとても合いそうにない。
「これ着てみて!」
「何だコレは?」
「先ずはその二股に分かれたものを、広い穴側から足を通して」
ジャージのズボンを手渡して、身振り手振りで指南する。一旦、腰に巻いたバスタオルを外したので、私は反射的に視線を背ける。
「わかった……こうか?」
苦戦しながらも何とかズボンを履いたアダムは、どこか落ち着かない様子だ。
腰元に『伊吹』と刺繡の入ったズボンは、太股の部分がパンパンで、丈は膝下すぐまでしか届いていない。
「今度はこれに袖を通して」
続けてジャージの上を渡す。上は大した説明をせずとも、感覚で上手く着用出来ている。前チャックが全開なのはご愛嬌だ。
「これでいいのか?」
「まあ、とりあえずはオッケーですね」
全体的に見てちんちくりんで、ちぐはぐだけれど、何も着ないよりはマシだ。
これで問題なく買い物も行けそうだ。一難乗り切ると、強烈な睡魔に襲われる。しかし、このまま寝るわけにはいかない。
私は眠気を堪えるために手を動かそうと、朝食の準備を始めることにした。