2 - 伊吹雫とイブ
なぜこうなった。
私はどうすればよかったのだろう。
「こんな場所に住居を構えたのか……何というか、慎ましやかなところだな」
アダムが当たり前のことのように、私のマンションの部屋の中にいる。ジロジロと室内を眺める彼は、どこか不満気だ。
豪風雨により都会の脆弱な交通網は完全に麻痺。自宅まで走って帰ったのが、諸悪の根源だった。
雷の如き迅速で駆けるアダムに、普通のヒト科ヒト属である私が、かけっこ勝負で敵うはずもなく。体力がない私が悶絶しながら走る隣を、嘲笑うかのような涼しい顔をしてついてきたのだ。
マンションに到着した後も、部屋に入れないように精一杯努力したものの、努力の甲斐なくいとも容易く部屋に侵入された。
アダムは変質者の域を超え、最早ストーカーだ。
対抗策がないわけではない。今すぐ警察を呼ぶことだって出来る。それでも、一旦は話し合いの場を設けようと思ったのは、彼が私の命の恩人だからだ。それと、彼が変質者ではあるが、とびっきりの美少年だからというのも、少しはあるのかも知れない。
とりあえず、私はビショビショに濡れた全身を拭くために、バスタオルを用意する。浴室からバスタオルを二枚持ってリビングに戻る。先ずは全身を乾かそう、話はそれからだ。
……そう思っていたのに。
「——何、やっているんですか⁉」
私は濡れたままの体でいけしゃあしゃあと、ベッドでくつろいでいるアダムに絶句した。
「急に大きな声を出すでない、イブよ」
「いいから、どいてください」
用意したバスタオルをアダムに投げつけて、ベッドから引っ張り起こす。アダムが裸だったということもあり、マットレスまでは染み込んでいなかったのは、せめてもの救いだ。
「タオルを腰に巻いてください! 話はそれからです!」
渋々といった様子で、アダムはバスタオルを腰に巻いてくれた。どういう原理で股間についているのかわからないイチジクの葉は、どうやら取り外し可能なようだ。私は視線を一気に違う方向に変える。
自分用に用意したもう一枚のバスタオルを、アダムの肩に掛ける。目のやり場には、終始困りっぱなしだったが、密室に二人きりという状況が、純粋な私に余計な考えを与えてくる。
「出来ました?」
「ああ」
視線を元に戻すと、腰にバスタオルを巻き、背中にバスタオルを被った変体がいた。無残にイチジクの葉が床に放置されている。
ローテーブルを挟んで床の上に腰を下ろすと、真似をしてアダムもその場に座った。
「アダムさん! 最初に言っておきますが、私は伊吹雫と言って、あなたの言う『イブ』さんではありません!」
「イブッ……キ……シズ……ク?」
アダムが言い慣れない呪文を呟く。
「そうです、伊吹雫です! 顔が似ているのかも知れませんが、私の創造主は神ではなく、父『たかし』と、母『みさと』です」
確かアダムとイブの創造主は神であると、いつしかのテレビで観た記憶がある。
「たかし? みさと? では、お主……本当にイブではないと申すか?」
「はい!」
「信じんぞ……我は信じんぞ!」
地底の底から這い上がってくるようなトーンでアダムが言う。
「信じないもなにも、イブじゃないんだから、どうしろっていうんですか?」
戦いはヒートアップしていき、私の語気もだんだん荒くなっていく。
「証明してみせろ!」
——証明。
なんで私が、と思いつつ、唾を飲み込む。アダムの迫力に気圧され、返す言葉が見当たらない。
「……どうすれば……?」
「お主がイブでないと言うなら、本物のイブを連れてきたまえ」
泰然とするアダムは、さすが神に創られし存在。自分至上主義者だ。なぜ私が、アダムの言うことを聞かなければならないのだろう。伝説上のアダムは、間接的に私の父なのかも知れない。しかし、目の前の彼はどうだろう。ただ偉そうな、金髪美少年だ。仮に彼が本物のアダムというのなら、タイムパラドックス的なものが生じて、間接的に子である私はこの世に存在しないはずなのだ。
「そんな……無茶言われても……」
「我はお主がイブを連れてくるまでは信じん。我の目に狂いはない、お主はまごうことなきイブじゃ」
「まごうことなき……って言われてもな……」
尻すぼみで不満を述べても、アダムは一向に取り合う気なし。何を言っても意味はなさそうだ。彼を動かすには、それこそ本物のイブを連れて来るほかないのかも知れない。
グダグダ悩んでも仕方がない。相手はかの有名なアダムだ。私の常識は彼には通用しない。それに、何だか彼が可哀想になってきた。神に追放され、身寄りのないこの地でたった独り。私をイブに仕立てて、縋りたくなるのも無理はない。そう思うと、少しだけ彼に同情した。
私は決意する。
「わかりました! 私が本物のイブさんを見つけ出します!」
「そんなことより、イブよ! 我は腹が減ったぞ、何か食い物はないか?」
——アダムって無自覚系、亭主関白なんだ。
私の宣言など、つゆ知らず。何処吹く風と食料をねだってくるアダム。旦那に嫌気をさして、出ていく熟年主婦をここに垣間見る。
「っていうか……アダムさん、もしかして……ずっと家に居座る気ですか?」
「イブあるところに我ありだ」
一旦返事はせずに、私は逃げるようにキッチンに向かった。
「ヤバい。あの人ガチだ……」
一人になった恩恵か、本音がぽろっと零れる。
慣れ親しんだキッチンの光景が、私の心に安寧を与えてくれる。
選択はもう間違えられない。当面の目標は、アダムを自宅から追い出すことだ。イケメン男子をオブジェクトとして、自宅に置いておきたいという想いがないわけではない。しかし、アダムをこのまま住まわせるという考えは、私には全くなかった。なぜなら、面倒くさそうだから。
「食べ物くらいあげてもいいかな」
冷蔵庫を開けて中身を確認する。自炊は余りする方ではないので、見るも無残に何もなかった。
そこで、私ははたと思いつく。思いつくというより思い出した。
「確かアダムとイブってリンゴが好きなんだっけ」
実家の青森から送られてきた大量のリンゴが、段ボール箱一杯分あった。
箱からなるべく綺麗で大きなリンゴを、三つ取り出してかごに入れる。
私はリンゴの入ったかごを提げて、リビングに戻った。
「アダムさん? 食べ物これで、いいですか?」
常に泰然としていたアダムが、露骨に嫌な顔をする。
「そ、それは……禁断の果実⁉ お主、それをどこで……」
「どこって、私、実家がリンゴ農家なんです」
「農家? イブ、お主、あれほど痛い目をみて、尚も禁断の果実を求めるか!」
「はい? 自慢じゃないですけど、家のリンゴ人気でデパートなんかにも卸してるんですよ」
小腹が減ってきたので、久々に私も一つ齧る。
「ああ、イブよ……。甘美に囚われ、神に見捨てられた、哀れなイブよ……。何があっても、我は決してお主を見捨てんぞ!」
勢い良くかごからリンゴを取り出したアダムは、そのまま大きな口でかぶりついた。頼んでもないのに無理矢理、食べさせられているかのような苦悶の表情。それも長くは続かず一口食べると、頬は緩み間抜けな顔をしていた。
「ああだこうだ言っても、リンゴ好きなんじゃないですか」
「我は屈さない。禁断の甘美に決して身を委ねんぞ!」
そう言って、アダムはもう一つリンゴを取り出して食べた。言っていることと、やっていることがちぐはぐで笑える。
私が微笑すると、アダムは恥ずかしそうにリンゴを二つ完食した。