1 - アダム降臨
2022年の夏の終わり。観測史上最大規模の台風が東京に直撃した。
渋谷スクランブル交差点は、強風により大荒れしていた。滝のような水圧で横殴る雨。街路樹はなぎ倒され、電光掲示板にはひびが入り、突風で飛ばされた看板が、視界のあちこちに落ちている。観測史上最大規模というのをひっくり返った車が物語っている。
こんな悪天候、いや災害ともいえる台風がやって来ているにもかかわらず、渋谷スクランブル交差点に来る理由が私、伊吹雫にはあった。
「予想以上だな……」
私が所属する大学の写真サークルが、来月のコンクールに出場する。サークル代表の熱烈な推薦もあり、私も作品を発表することになった。期限はすぐそこまで迫っているというのに、肝心の写真が撮れない。テーマすら決めあぐねていた私は、今朝のニュースで見た「史上最大」という言葉に閃きのようなものを感じた。
百円ショップで購入したレインコートは最早、意味をなしてはいない。全身をびしょびしょに濡らした私は、首から提げたカメラを構える。
いつもは溢れんばかりの人が行きかう渋谷スクランブル交差点も、今は全くの無人だ。それだけで、非日常感のある優れた一枚が撮影出来る。しかし、何かもう一つアクセントが欲しいと考えた私は、獲物を狙う獅子のように、今か今かとシャッターチャンスを待ちわびる。
刹那。
一筋の光が天から落ちてくる。耳を破壊するほどの轟音を伴い、私の視界はホワイトアウトした。目の前に落ちる雷を目の当たりにしたのだ。
ぼやけた視界が徐々に色彩を取り戻す。真っ暗な曇天の中で輝くその男は、太陽のようだった。金色に光る髪、沖縄の海を思わせるエメラルドグリーンの瞳、一糸纏わぬ肉体は程よく肉付き引き締まっている、申し訳程度にイチジクの葉で隠された股間、遠目でもわかるほど美しい黄金比。西洋風の面持ちで詳しくは見極めることは出来ないが、年齢は私よりも少し若い。例えるなら高校生くらい。
——神だ。
潜在的に私はそう思った。
シャッターを切る。
きっと、神の降臨をフィルムに収めることに成功したはずだ。
人類初の快挙に私は完全に浮かれていた。一瞬、気を抜いたのが運の尽きだった。
風に舞った看板が、私の眼前まで飛んできていたのだ。鉄製の看板は、私に向かって一直線。このまま、看板に体を貫かれて私は死ぬのだ。そう悟った。本能で死を直感した。
「はあああああぁぁぁぁぁ!」
聞き覚えのない声。透き通るような青年の声だった。
私の前に立った黄金の神は、向かってくる刃の如き看板を蹴り上げた。疾風の如き速度で移動し、全身から眩い光を放つ、その男は金髪も相俟って、私に『超サイヤ人』なんて馬鹿な連想をさせた。他に形容するというなら『神』。それ程、男は異彩を放っていた。
まさに、間一髪。
私の命は、この目の前に立つ神によって救われた。
「怪我はないか?」
近くで見た神は切れ長の目に、すっと通った鼻筋、紫外線の存在など知らない無垢な肌。有名絵画で描かれるような色男だった。彼が眩しすぎて、私は直視することが出来ない。
「はい……。ありがとうございます」
俯いたまま感謝の意を伝える。俯いたままでは失礼に当たるかも、と考えたが神はそんな小さいこと気にしないだろうし、むしろ自分の顔をみせる方が失礼に当たる可能性だってある。「おもてをあげよ」的なね。
「お主、もしや……。良く顔を見せてはくれまいか?」
言いながら神は、私の顎を手に取りくいっと持ち上げる。俗に言う『あごクイ』と呼ばれる行為だ。まさか、自分が『あごクイ』される日が来るとは思いもしなかった。しかも、こんな美男子に。
もう何が何だか、あたふたした私の視線は右へ、左へ、大忙し。顔が熱を帯びていき、紅潮していくのがわかる。
「やはり……」
私は一瞬だけ神のご尊顔に焦点を合わせる。深く考え事をしているような渋い顔をしていた。息をのんで続きを待つ。
「……イブ……やはり、イブか!」
「え……イブ? ……イブ……まあ、伊吹ですけど……」
「エデンの園で別れ、こんなにすぐに再開出来るとは思わなかったぞ」
あいにく、私がエデンの園なる場所で生活していた経験はない。イブ、エデンの園から連想するに、彼は人類の始祖、名は。
「あなたは……アダムさん?」
「如何にも! しかし、『さん』とはどうした、水くさいではないか。我とお主の中であろう」
何の因果か、地元での私のあだ名は苗字の伊吹から二文字取って『イブ』だった。それに加えて、母方のおじいちゃんがアメリカ人の私は、いわゆるクォーターだ。顔立ちはいくらか西洋風ではあるけれど、それも所詮は面影がぽいな、というくらいの微々たるものだ。
恐らく、アダムは壮大な勘違いをしている。彼の言うイブと、地元でだけイブと呼ばれる私は全くの別人だ。
「すみません。多分、人違いです。多分……っていうか絶対……」
「何を言う、どこからどう見てもイブではないか。例えば、小麦のようなこの髪」
言いながら、アダムは私の髪に指を通す。
「これは、ブリーチしているだけで、地毛は黒です」
確かに大学に入ってから髪色はブリーチで抜いている。けれど、私の地毛は日本人の大多数を占める黒なのだ。
「ブリーチ……? とやらはよくわからんが、顔立ちだってイブそのものではないか」
「確かにクォーターですけど……。とにかく、私は違うんです。私は伊吹雫! あなたの言う、イブさんとは縁もゆかりもありません」
「とは言われてもな……」
アダムが顔をしかめて、首を捻る。
私も内心「困ったのはこっちの方だ」と叫んではいても、目の前の美男子に直接、不満をぶつけることは出来ない。
一層強まる雨粒が私の顔を叩いてくる。風もさらに強まってきている。このまま、この場所に居続けるのは危険だ。
しかし、どうしたものか。彼をこの場所に放置していくのは流石に気が引ける。仮にも彼は命の恩人だ。彼が台風の日に裸で渋谷の街を闊歩する変体だとはいえ、無責任に置いて行っていいものか。カラオケやカフェ等々の時間を潰せそうな施設は軒並み臨時休業しているし、そもそも、いくら美形だといえ、全裸の変体が入れる施設など存在しない。
「すみません。人違いですので、私はこれで失礼します!」
良心の呵責に苛まれながら、私は走った。よくよく考えれば、これ以上変体と一緒にいるのは私の身だって危うい。彼だって家くらいあるだろうし、小さな子供でもないのだから、引き際になればおとなしく帰るだろう。
私はそのまま足を止めることなく、轟轟と吹き荒れる風を切り裂いて、自宅までの道のりを無我夢中で走り続けた。
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この時の私はまだ知らなかった。
私のアダムを放置して自宅に戻るという判断が、のちにとんでもない事態を巻き起こすことを。