⑨
一度見ただけで空間のゆがみだとわかった。
大きさは人ひとり分くらいだが、そこだけが異空間であることが一目瞭然だ。
これは見えるタイプにしか見えないのだろう。
「じゃ、逢夢。ちょっと離れて見てて」
言われたとおり、俺はゆがみから距離を取る。
涼と廉次郎さんは鞄からヘルメットを取り出して被った。
そして涼は赤色灯を取り出して、ゆがみの前に立った。
廉次郎さんはゆがみの近くに、よくわからない壺みたいなのをセッティングしている。それが終わると涼の隣に立った。
俺はその様子を十メートルくらい離れたところで見ている。
動かない二人。何をしているのかさっぱりわからない。
ゆがみの前に並んで立っている涼と廉次郎さん。
一般人が傍から見たら、ただ並んで立っている赤と青の作業服姿の二人と、そしてそれを離れたところで見ているスーツの男、という光景だ。
なんだか恥ずかしいような気がしなくもない。
そんなことを考えていた時だった。ゆがみからぐおんぐおんと変な音がした。
「来るでござる」
「そうっすね。廉次郎さんッ!」
刀に手をかける廉次郎さん。
これはもしかしたらすごい展開になるかもしれない。覚悟しておこう。
ぐおんぐおんという音が大きくなる。
ブラックホールのようなゆがみのうごめきが一層激しくなる。
一瞬雷のような光が走った。
ゆがみの中から赤い鬼のような妖怪がゆっくりと出てきた。
「あ、だめですよ。ゆがみなのでおかえりください」
涼が赤色灯を横に向けて、通行止めです、の要領で鬼を制した。
「え? あ、あら、巻き込まれちゃった? やだ、ごめんなさいね」
そう言って、はにかみながら戻っていく鬼。
「気をつけてください」
涼が鬼に会釈して言う。
思ってんのと違った。
いや、たぶん平和的解決で一番いいのだろう。
だけど、なんか違った。
「あ、そんな感じなんですね」
仕事中に話しかけるのも申し訳ないとは思いつつ、このやるせない気持ちをどうにかしたくなったので声をかけた。
「そうでござる。あの鬼も素直に戻っていったので、これでいいのでござる」
「そそ。でもそうじゃなくて制止を無視して移動しようとする悪い奴は、廉次郎さまが一刀両断だよ」
「なるほど、そういうことですか。それじゃあその壺は何ですか?」
さっき廉次郎さんがセッティングしていたが、気になっていた。バスケットボールくらいの大きさの丸い壺は何の意味があるのだろうか。
「ゆがみを安定化させる壺じゃん」
じゃんって言われても知らんがな。
「ゆがみは妖力の不安定さからくるものでござるから、放っておけば自然に戻るでござる。しかしこの妖壺を使えば早く安定化できるでござる」
「そ。なんか壺が妖力を入れたり出したりして一定の数値にするらしいよ」
文末をらしいで終えるのが涼っぽい。実際よくわかっていないのだろう。
「しかし一番早いのは誰かが通り抜けることでござる」
廉次郎さん曰く、誰かが通り抜けると妖力が安定してゆがみは消滅するらしい。
だからと言って通らせるわけにはいかないので、こういうふうに通行止めにして、壺でゆがみの安定化を図っているとのことだ。
「じゃ、逢夢。私と代わってみる?」
涼が赤色灯を振って俺に言った。
「いいのか?」
「この調子であれば大丈夫でござる」
廉次郎さんにそう言われたら大丈夫な気がした。
ヘルメットと赤色灯を受け取ると、涼と代わった。
赤色灯を持つ俺の右横に、腕を組んで仁王立ちする涼。左横には刀の柄に手を添えて構えている廉次郎さん。
恥ずい。これは恥ずい。
「えっと、その。ゆがみに巻き込まれたことってあります?」
沈黙に耐え切れず、話をした。
「拙者はないでござる」
「私あるよ。小さい頃ね」
涼は巻き込まれ経験者だったようだ。
「どうだった?」
「あっち側には私たちみたいな人いないから、巻き込まれたら引き返せない。その時は何とか輪くぐりを見つけて帰ってきた」
「大変だったんだな」
「うん。でも優しい猫の妖怪に助けてもらったからよかった」
猫娘だから猫の妖怪に助けられたのだろう。
もしこっち側の人間が涼のような状況になったら、行ったっきりあっち側でさまようことになるのだろう。
廉次郎さんはこの話を聞いたことがあるらしく「ふむふむ」と頷きながら聞いていた。
会話がひと段落したときだった。
五月下旬の太陽が暑すぎたのか、一瞬くらっとした。
ネクタイもしっかり締めてジャケットも羽織っていたので暑さにやられてしまった。
それに昨日、不思議な世界との出会いのせいで帰ってから全然眠れていなかった。今日の朝は興奮と緊張で目が覚めていたが、やはり寝不足だったようだ。
油断した。たった一歩だけ前によろけた。
俺の右肩がゆがみに触れた気がした。
強い吸引力のようなものを感じた。
「逢夢!」
「逢夢殿!」
二人が叫んだ。
俺の体が浮いた。
河川敷にいたはずだったが、一瞬で真っ暗な空間に放り出された。
しかしスライダーをすべるような、猛スピードで移動するような感覚だ。
足に何かが絡みついているような気がする。
巻き込まれたと悟った。
俺はこれからあっち側をさまようことになるのだろう。
涼の時のように、俺も優しい妖怪に出会えるといいなと思った。