①
仕事を辞めて早一か月が経った。
辞めた当初はすがすがしい気持ちでいっぱいだったけれど、時間が経つにつれて、これでいいのかと思い始めた。
俺はもはや社会の歯車。何もしていないということが気持ちを不安にさせる。
辞めた理由は、もちろん仕事なんてしたくないと思ったからだ。
誰にでもそんな気持ちはあるだろう。俺もそのフラストレーションが溜まっていた。
普段の俺だったらそんな突発的な気持ちだけで判断しない。
でもその時はタイミングが悪かった。
会社が早期退職の募集を始めたのだ。
終身雇用が崩壊している昨今、決して大きいとは言えない会社の悲しい手段だ。リストラよりはまだましだと言える。
早期退職は大体はベテラン以上の基本給の高い人たちに向けたものだろうけれど、三十代を前にして俺は願い出た。
俺の退職届を見て、やはり上司は驚いたような顔をして、思いとどまるようにと説得してきたが、決意は固まっていた。
別に会社が嫌いになったわけでない。ただ働くことが嫌になっただけだ。
だから今さら残ってくれと言われてももう遅い、とか言うつもりもない。俺の都合だ。
趣味も少ないし、食事にもこだわりはない。部屋も住めればいい、くらいの感覚なので、お金は貯まっていた。もちろん彼女がいないというのもその理由の一つだ。
だから貯金を切り崩して悠々自適に生活をして、そろそろお金に余裕がなくなったな、と思ったところで働こうと思っていた。毎月のやりくりから計算して一年は持つと思っていた。
だがそうはいかなかった。
お金の話ではない。気持ちの問題だ。
趣味もないのに一日予定なしは、はっきり言ってきつい。
最初のうちはテレビを見たり、サブスクで映画やアニメも観ていたけれど、それだけしかやることがないとなると、時間が余り過ぎる。
贅沢だというのはわかっている。だけれど、やることがないのだ。
これはただ単に時間の無駄遣いをしているだけだ。それでいいと思って退職したのに、それじゃだめだと身体が言っている。
もうこれは我慢できない。窓から外を見ると、スーツを着た人たち。やめた当初はすがすがしい気持ちで見ていたけれど、今は劣等感や焦燥感が全身を襲う。
「就活しよう」
不意につぶやいてしまった。
でもそう結論に至ったのは自然の流れだったのかもしれない。
俺は動いていないとだめなようだ。こういうタイプが定年退職をしてから燃え尽き症候群になったりするのだろうか。
好きなことを見つけた方がいいのはわかっている。趣味があったら人生がまた別の見え方をするのも分かっている。
しかしなかなか見つからない。見つけられない。
それだったら、次に就職するところが、趣味とは言えなくても、楽しんで仕事ができるところにしたらいい。
今までの仕事はただ単に仕事をこなしていた。もちろん言われるままではなく、自ら動いて仕事も出来ていたと自負している。
でもそうじゃあなくて、もっとわくわくするような、毎日がきらきらするような仕事をしてみたい。
あるいは仕事先で出会った人に影響されて、何か趣味が見つかるかもしれない。
前の会社はそういうプライベートのかかわりを持った人はいなかった。そういう気持ちになれなかった。飲みに行こうと誘ってくれた上司や同僚もいた。だけど仕事は仕事と割り切っていた。これは自分の問題だから、相手にしてもらえなかったと他人を責めるつもりはないし、そんな権利は持ち合わせていない。
でも次はそういう誘いに乗りたいし、誘ってみたい。
一か月の休息でだいぶ価値観が変わったのかもしれない。
そう思ったら就活を早くしたくなってきた。前向きに仕事ができる気がしてきた。
就職活動といえばハローワーク。安直だけれど、間違いはない。
俺は急いで身だしなみを整えて家を出た。
□◇■◆
たいした求人はなかった。いや、あったのだろう。でもなんだかときめかなかった。
理論的じゃないことは好きじゃないけれど、一方で直感的なものも大事にしている。今日はその直感的にぐっとくるものがなく、求人票を眺めるだけになった。
季節は五月上旬。新年度が始まったばかりなので、求人も少なかったのだろう。それにいいところは大体埋まっていると言ったところか。
タイミングが悪かったのだろう。まあ仕方ない。金銭面では困っていない。どうにでもなるはずだ。
そう言い聞かせて立川の職業安定所を後にして帰路につく。
今の俺は周りの人たちにはどう見られているのだろうか。やはりプータローのように映っているのか。
少し身をかがめながら歩く。視線が自然に下を向く。
風に飛ばされてきた一枚のチラシが、俺の足に絡みついた。
普段だったら、足ではらって何事もなかったかのように通り過ぎるだけだけれど、今日はなぜだか手に取ってしまった。
立ち止まってチラシを広げる。
「ゆう……げん……会社不思議?」
よく見ると求人のチラシのようだった。
仕事内容を見てみると、どうやら便利屋みたいな会社のようだ。
住所はここらへんのようだが、青い「F」と赤い「?」が並んだロゴマークの見たことも聞いたこともない会社だ。
それに「有限」の字が誤植している。そんなんで人が集まるわけがない。
でもなぜだか、捨てる気にはなれなかった。
もちろん周りに人がいたから、このまま捨てればポイ捨てと見られて肩身が狭くなるというのもあったが、それとはまた違う、捨ててはいけないという、なんとも言えない気持ちになった。
チラシを四つ折りにすると、お尻のポケットにしまい、再び家に向かった。
□◇■◆
「ふむふむ、寒葉逢夢というんじゃな」
結局俺は家には帰らず、拾った求人チラシを頼りに、この何とも言えない薄暗い事務所の扉をノックしてしまった。
「はい、よろしくお願いいたします」
もしかしたら必要になるかもしれないと思い、ハローワークで履歴書を作っていたので、それをそのまま提出した。
応接セットのテーブルをはさんで目の前に座る椚田と名乗った、体格のいい年配の女性社長が、履歴書を顔の近くに持って読んでいる。
「この世はムゲンでユウゲンだ」
「はあ」
何を言っているのだろうか。なぞなぞだろうか。無限で有限というのは矛盾している。
「ムゲンは際限が無いという意味の無限だ」
「はい」
ええ、そうだと思っていました。
「ユウゲンは限度が有るという意味ではない」
「はい?」
その意味じゃない? だとしたらなんだ?
「幽霊の幽に、玄武の玄で幽玄だ。意味は計り知れない奥深さじゃ」
「幽玄……」
「そう。無限で幽玄というのは、この世はどこまでも果てしないという意味じゃ」
「もしかしてチラシの幽玄会社って」
「ああそうじゃ。誤植ではない」
そう言うと椚田社長は「そうか、見えておったか」と妙に納得したような笑顔を見せた。
「寒葉君、いつからここで働けるかね?」
椚田社長が俺の履歴書をテーブルに置いて言った。
「は、はい。今日からでも働けるつもりで来ています」
俺は何にも縛られていない。いつでも動けるのがプータローの良さだ。
これくらい言っておけば、やる気があると思われるだろう。
「そうか。それじゃあ……」
目をつむって社長は右手を挙げた。
そしてパチンと指を鳴らした。
「うわぁあ!」
後ろから声が聞こえたので振り返ると、俺の入ってきたドアが開いており、女性がうつ伏せで倒れていた。
ドアの開いた拍子に倒れ込んだようだ。
ずいぶん変わった格好をしている。
「盗み聞きをしていたのはわかっておった」
「痛てて……。さっすが社長。ばれてたかぁ」
床にうつ伏せになりながら、頭だけこちらを向けて言った。
「ふん、当たり前じゃ。そんなことより涼よ、寒葉君を連れて、あっちで買い物をしてくるんじゃ」
「お、依頼っすか?」
ぴょんと跳ねるように飛び起き、涼と呼ばれた女性は俺の座っているソファの背もたれに凭れた。
「違う。ただのお使いじゃ」
「ちぇ。まあいいっすよ。何を買えばいいんすか?」
「リストはある。今用意するから待っておれ」
椚田社長はのっそりと立ち上がると、奥の部屋へ恐らくリストを取りに消えていった。
「えっと、名前なんて言ったっけ?」
涼さんという女性が俺の肩をトントンと叩いた。
「は、はい。寒葉逢夢です」
「おっけー。じゃあ逢夢って呼ぶね。私は狭霧涼。涼って呼んでいいから」
「いえ、でも先輩ですし」
「何歳?」
「え、二十八です」
「そか。私は二十四。だから気にせず涼でおっけー」
「は、はあ」
「それじゃあよろしくな」
涼さん改め涼の勢いに圧倒されてしまった。
なかなか不思議な子だ。
「ほれ、これがリストじゃ。なんじゃもう仲良くなったのか?」
奥の部屋から出てきた椚田社長は、呆れたような顔をしている。
無理もない。
豊満なバストを押し付けるように、涼が俺に肩を組んできていたのだから。