メビウス後輩 中編
文芸部といえば聞こえはいいが、実態は円谷環の私物だった。合宿という名の苦行を強行し、俺をそんな苦行に連行した張本人。
そいつは今俺の隣で、目の前の古い旅館にテンションを上げている。
「先輩、漫画に出てくるような古い旅館ですよ」
黒髪に紫のグラデーションがかかったメガネの文学少女。まるで未来を知っているかのように動くその少女は、案外その日は何もしてこなかった。ただ、荷物を置いて、部屋で眠った。
二日目。
やけに眩しい朝日で目を覚ます。窓際の椅子で眠ったかせいだ。早々に部屋を抜け出し、旅館を出る。
「おぉ」
朝日が水平線から顔を覗かせ、宝石のような砂浜を照らしている。写真でもと思いスマホを取り出した時、その手を誰かが押さえた。
「先輩これ、しおりです」
「円谷?」
振り返ると、目の前には旅の【しおり】を持った円谷が立っていた。
「わざわざこんな朝早くから?」
「はい。先輩にもこの旅行を楽しんでもらいたくて」
「俺は来たくなかったんだがな」
「ごめんなさい、無理矢理連れてきてしまって……」
円谷は悲しそうな顔をして、頭を深々と下げた。
俺の胸は罪悪感でいっぱいになりつつも、携帯を取り出した。
「まぁ、綺麗な景色が見れたから来た甲斐はあったかもな」
俺は朝日と砂浜をパシャリと、一枚撮った。
円谷は嬉しそうな顔をして、俺の手を取って旅館の方向に足を向ける。
「なら先輩、せっかく来たんですから旅館の朝ごはん食べましょう」
「いや、やめておくよ。他の奴らも来るんだろう。なら俺は邪魔者だ」
円谷の手を振り解き、来る途中に見つけたコンビニに行こうとする。
「でも先輩……なら。ならこれだけでも持っていってください」
そう言って円谷は、旅のしおりを渡してくる。俺はそれを受け取り、中身を確認する。朝食の後に、短い自由時間と砂浜でのオリエンテーションが予定されている。
「オリエンテーション、濡れてもいい格好で来てくださいね」
「……まぁ、善処するよ」
俺はそう言って、しおりを畳んでポケットに入れた。
「次は朝食に来てもらわなきゃ……」
円谷が何かを言っていたが、何を言っていたのかは分からなかった。
近くのコンビニで朝食を購入し、旅館の部屋で一人で食べようとする。しかし、コンビニの袋を探っても買ってきたメロンパンが見当たらなかった。幸い他にも色々食べる物を買っておいたので、朝食には困らなかった。
窓際の椅子で携帯をいじりながら時間を潰していると、誰かが部屋に戻ってきた。同室の、文芸部の男達だ。
せっせと水着を着用しタオルを巻き、次々に部屋を飛び出していく。時間を見てみると、オリエンテーションの時間になろうとしていた。
「俺も行くか……」
そう思い立ち、皆が部屋を出ていった後。濡れてもいい服に着替え、部屋を出た。
旅館を出てすぐに広がっている砂浜では、文芸部の奴らがちらほらと遊んでいるのが見える。
砂浜に降りると、暑すぎる太陽に嫌気が差した。俺は近くのパラソルの下に避難し、腰を下ろした。
暑すぎる。こんな事なら来なければ良かったと後悔した。そんな時、俺の頬の横からアイスが差し出された。オレンジ色、ミカン味だろうか。
「先輩、差し入れです」
振り返ると、そこにはアイスを差し出す円谷がいた。
「いいのか?」
「はい。オレンジ味が苦手ならいいですけど……」
「いや、大好きだ。ありがとうな」
俺はアイスを受け取り、溶か開けている部分から食べ始める。円谷は上機嫌で、何かをメモしている。
「先輩、遊びましょ」
円谷は俺の隣で、大きく伸びをしてパーカーの前を開けた。パーカーの中には色白の素肌と、紫の水着が見えた。
「何やるんだ?」
「え、えっと……とりあえず水に入りましょ」
「まぁ、せっかく海に来たんだしな」
俺はゆっくりと立ち上がり、海に向かって歩き出す。焼けた砂浜が、足裏を刺激する。
水際では、荒めの砂つぶが波に揺られて蠢いている。一歩水に入ると、生ぬるい海水が俺の足を包み込んだ。
「先輩」
俺が円谷の方を向くと、顔に海水をかけられた。顔にかかった海水を拭い、円谷を見る。笑顔で、俺の事をじっと見ている。
「何するんだ」
「海で遊ぶといえば、こうでしょう?」
そう言う円谷の顔に海水をかける。円谷はメガネ越しに目を瞑る。
「先輩、結構楽しい人ですよね」
メガネに付いた海水を拭き取り、円谷は海水を掬い上げようとした。その隙を逃さず、俺は水をかける。
終わりのゴングは、俺の腹の音だった。
「ふふ、先輩お腹空いたんですか?」
「それなりに? 俺達どれくらい遊んでたんだ?」
「お互いがお風呂上りと勘違いするくらいに、ビシャビシャになる程度?」
円谷と俺は大きく笑いながら、旅館に戻っていった。
昼食を食べた後、女将さんの案内で旅館内を見て回った。様々な歴史ある物品やエピソードが語られたが、どれもこれもどこかで聞いたことがあるように感じた。
しかし他の部員達は真剣に聞いていたので、俺は一人静かにその場を離れた。
旅館内を適当に練り歩いていると、小暮がゲームコーナーでピンボールをやっていた。
「よぉ小暮、サボりか?」
「ん? お前こそサボりだろうが」
小暮は顔だけをこちらに向け、にこりと笑って見せた。俺はピンボールの機械にもたれかかる。
「何やってるんだ?」
「ピンボール。これ右上のバネだけ壊れてるんだよ」
そういう事を聞きたい訳ではなかったが、俺は周囲を見てみる
。卓球台にジャンケンゲーム。ミニパチンコにガチャトイサイズのクレーンゲーム。普通の生活をしていれば、なかなかお目にかかれないような物ばかりだ。
「こう言うのは風情というかノスタルジーじゃないのか?」
小暮からの返答は無い。ピンボールの機械からゲームオーバーを告げる音が聞こえる。
小暮の顔を見れば、その顔はどこか遠くを見ていた。
「ノスタルジー……行平はこの光景に懐かしさを感じるのか?」
「……いや、こういう光景には多少なりとも感じないか?」
「俺は感じない」
小暮は自分の手元を眺め、そして静かに窓際に寄る。窓からは夕陽が差し込み、小暮の姿を照らしている。
「俺は夕陽にしか感じない」
「まぁ、それは人それぞれじゃ無いのか?」
「あぁ。そうだな」
小暮は小さく笑い、卓球台に手をついた。
「卓球やろうぜ、受付からラケット借りてくる」
「負けたらどうする?」
「ん〜……風呂上がりにいちごオレ」
「俺はコーヒー牛乳な」
俺と小暮は並び立って旅館の受付に歩いていった。
小一時間ほど小暮と卓球を楽しみ、小暮は用事があるからと自ら試合を終えた。
結果的には俺の辛勝。十六対十四と言うギリギリの戦いだった。
やる事をなくした俺は、しおりを取り出し中を見る。もう、夕食の時間に差し掛かろうとしていた。
旅館を出て砂浜を見てみると、もうバーベキューは始まっていた。
「先輩〜!」
円谷が紙皿を持ってやってくる。その紙皿の上には焼けた肉や野菜が乗っていた。
「どこいってたんですか?」
「いや、サボって卓球やってた」
「もう……あ、これ先輩のです」
円谷は俺にその紙皿と割り箸を渡してくる。別に、乗っている肉や野菜は生焼けという訳では無い。シンプルな親切だろう。俺はその紙皿を受け取り、割り箸を口で割る。
「ありがとうな」
「いえ。私も自分のやつ取ってきますね」
近くの岩の上に座り、他の部員達の喧騒を眺める。少し冷めた肉を口に入れつつ、新しい皿を持ってこっちに走ってくる円谷を見る。
「隣失礼しますね」
円谷は俺の隣に座り、焼き玉ねぎを食べ始める。
紫がかった髪の毛が、遠くのバーベキューの火に照らされてぼんやりと暗闇に浮かぶ。
「美味しいですね」
円谷は俺の方を向いて、にっこりと笑った。
「あぁ、本当にな」
俺は真っ直ぐ視線を向けたまま、胸の鼓動に耳を傾けた。
ひとしきりバーベキューを堪能した時、円谷は花火セットをいくつか持ってきた。部員達に花火セットと点火棒を配ると、各々花火を始めた。
「先輩、私達も花火しましょう」
円谷は無邪気に両手に花火を携え、そう言った。
「子供みたいにはしゃぐんだな」
「だって、何事も楽しくなきゃ意味ないじゃないですか」
驚いた。俺と同じ考えをしている人を、初めてみた。
俺は、円谷を勘違いしていたのかもしれない。今までの不気味だ、怖いと感じていたのは、自分とよく似ているからだったのかもしれない。
「どうしたんですか先輩。鳩が豆鉄砲喰らったような顔して」
「いや……俺にも一本くれよ」
「先輩がぼーっとしているうちに全部使っちゃいました」
「マジかよ……」
「でも、これならありますよ?」
円谷は花火セットの中から線香花火を取り出した。
「どっちが長く持つか勝負しましょう」
「負けた方はどうする」
「勝った人の言う事を一つだけ聞くと言うのでどうですか?」
「何でも?」
「はい」
円谷は強く頷き、俺に火のつけた線香花火を渡してくる。
「おい、円谷のはまだ火がついてないじゃないか」
「こんな数秒のハンデ、大した違いにはならないでしょう?」
円谷は意地悪そうに笑い、ゆったりと自分の線香花火に火をつけた。
パチパチと、細枝のような火の粉が宙を舞う。それは勢いをつけ、心地よい音と閃光を放つ。この世界が外界と隔離されたかと勘違いするほど、その線香花火以外の音は聞こえなかった。
俺と円谷は、いつの間にか肩が触れるほどの距離にいた。二人して顔前に線香花火を垂らし、息を潜めてその火が落ちるのを観察していた。
俺の視線に気付いたのか、円谷と目が合う。円谷が小さく笑って俺の方に顔を近づけた時。
「あ」
「あ」
線香花火の火は落ちていた。
二人が見ていない間に、両方とも。
「これじゃどっちが勝ったか分からないな」
「私の方が勝ちです!」
「そ」
俺はそう言って、手をヒラヒラさせながら旅館へと戻っていく。
もう既に、他の部員達はどこにもいなかった。
「先輩!」
「なんだ?」
円谷の方を振り返る。
「好きです。付き合ってください」
「俺もお前の事は嫌いじゃないよ」
「じゃあ!」
「だがそこまでじゃない俺の気持ちはライクだ」
俺は冷たくそう言って、また旅館へと歩いていく。
「……三十回、フラれた程度じゃ諦めませんから」
どこかで聞いた事があるな。
そんな事を考えながら、俺は砂浜を抜け出した。