シュレディンガー先輩 後編
校舎裏は日陰になっていて、じめじめとしていた。お菓子の袋や、ボロボロのプリントが落ちている程度。
人の気配はしなかった。
校舎の方からは授業を受ける生徒たちの声が、微かに聞こえる。ただここだけはそんな騒がしさと切り離されていて、まるで異世界のような感覚を覚えた。
「ここ、だよな」
俺は、ついさっきまでもう一人の俺が立っていた場所に近寄る。そこは校舎の中の鏡に光が反射し、地面付近だけがスポットライトのように照らされていた。
何かがその光に反射し、俺の目に入る。
「スマホだ……」
地面には、見覚えのあるスマホが落ちていた。間違いない、あれは猫柳先輩のスマホだ。
俺はスマホを拾い上げ、電源を入れる。ロック画面にデフォルトの壁紙が表示される。
「ロックか……」
スマホはセキュリティのためにロックがかかっていた。
しかし、俺は意地でもこのロックを解くべきだと思った。猫柳先輩という人が、ここに存在していたことを自分自身で知るために。現実であった事を裏付けるために。
「考えろ……猫柳先輩はどんな人だ」
俺は、ゆっくりと【1234】と入力した。しかし、パスワードは弾かれスマホが震えた。
「違う。もっと……四桁」
誕生日かとも思ったが、俺は猫柳先輩の誕生日を知らない。
「まさかな……」
俺はゆっくりと、四桁の番号を入力した。すると、スマホのロックが解除された。
「なんで俺の誕生日なんだよ」
笑顔になりながら、ロックが解除されたスマホの画面を見る。スマホの中には、三つしかアプリが入っていなかった。
日記、写真、カメラの三つ。電話も、メッセージアプリも、設定も何もない。三つだけ。
俺は写真アプリを開いた。中には、一昨日までの俺の写真が大量に入っていた。毎日一枚づつ猫柳先輩は俺の写真を撮っていた。毎日、毎日。
「どれだけ俺の事が好きなんだよ……」
ポツリと一言、そうこぼした。
俺は写真アプリを閉じ、ホーム画面に戻った。
そしてカメラアプリを開いた。なんの変哲もないカメラアプリだ。外カメラはなんの変哲もない。内カメラにすると、俺の顔が画面に表示された。
「……」
なんとなく一枚写真を撮る。猫柳先輩はどんな気持ちで、俺の写真を撮っていたのだろうか。
授業の終わりを告げるチャイムが鳴る。俺はカメラアプリを閉じ、最後のアプリに指を置く。他人の日記を勝手に読むのは、良い事とは言えない。だが、写真アプリに猫柳先輩の写真は一枚も無かった。俺の記憶の中の猫柳先輩は、もう既に人型すら保ってない。
俺は意を決して日記アプリを開いた。毎日毎日欠かさず日記をつけているらしい。月によってフォルダが別だ。日記の一日目を読んでみる。なんの変哲もない、ただの日記だった。俺に対する記述が多い。
日付を進めていくと、つい一ヶ月前から日記におかしな事が書いてあった。
「家がなくなっていた……?」
日記の内容は、家が無くなっていたと書いてあった。まるで昔からそうだったかのように、別の家が建っていたらしい。そこから家に帰っていないらしい。
周りの人間が自分自身を正しく認識しない症状が深刻になってきた。自分の姿が鏡を使ってもよく見えない。日記の中には日々深刻になっていく状況についての記述だけになっていった。
そして昨日。たった四文字しか書いてなかった。
『たすけて』
俺はスマホをスリープモードにして、ポケットに入れた。気づけば時間は相当経っていたのか、空は赤くなり始めていた。
俺は窓を外から開け、校舎の中に入る。放課後を迎え、帰宅したり部活動に向かう生徒達を押し退け階段を登っていく。みんな、俺の事が見えていないような気がした。
屋上へ続く階段。その前に、小暮が座って待っていた。
「小暮」
「行くのか?」
「あぁ」
「……何があっても、どんな結末が待っててもか?」
俺はうなづいた。
「そうか……」
小暮は小さくため息をついて立ち上がった。そして俺の肩を叩いた。
「ま、頑張れよ」
小暮はにっこりと笑い、階段を降りていった。
俺は階段を登り、屋上へと続く扉の前で立ち止まった。
いつも通り、鍵は存在してなかった。
「猫柳先輩」
屋上には、誰もいなかった。いや、正確には人はいなかった。
確かに誰もいないはずだった。でも、誰かが、誰かと目が合っている。
「いるんですよね、猫柳先輩」
俺の目の前に、人影が見える。表情も、背丈も、何も分からない。だが、俺の中でその人は猫柳先輩だという確信があった。
「猫柳先輩。これ、猫柳先輩のスマホですよね」
「あ……」
声が聞こえた。猫柳先輩の声だ。俺の記憶の中の猫柳先輩も、声をとり戻す。
「中、勝手に見させてもらいました。俺の写真しかない写真フォルダも、俺の事ばっかり書いてある日記も見せてもらいました」
「う……」
人影は恥ずかしそうな顔をする。その表情を、俺は認識できた。
「先輩、どうして相談してくれなかったんですか」
「どうせ……みんな僕の事を正しく認識できないから……」
「俺ならちゃんと覚えてます。ちゃんと認識できます」
「迷惑……かけられない……」
俺は猫柳先輩のスマホのロックを解除し、写真アプリを開いて見せた。
中には、ほとんどが俺が困り果てた写真や動画が入っていた。
「こんな写真を撮りまくってるくせに?」
「……言い返せない」
猫柳先輩は申し訳なさそうな顔をする。
「僕、自分の力を理解したよ」
「どういう力なんですか」
「観測だよ。観測を歪めて、そこに存在していない物を取り出したり、自分を別の場所に移動させたり。そんな事ができるんだ」
なるほど。だから猫柳先輩は神出鬼没だったのだ。
「でも、最近力が強くなってるんだ。強くなって、制御できない。自分自身の認識が勝手に歪む、僕の存在が勝手に消える、昔からの友達も、帰るべき家も無くなった。そして遂にはz自分の存在も認識できなくなった」
「でも、猫柳先輩は目の前にいます」
猫柳先輩は、屋上に座り込んだ。
「自分の意識も時々なくなる。自分を観測できなくなって、自分と無が一体化する。その怖さ、分かる?」
「わかりません」
「……その方がいいよ」
猫柳先輩は、屋上の扉を指差した。
「帰った方がいいよ。僕に関わると、山嵐くんも消えるかもしれない。だから、帰って。僕を、忘れて」
「嫌です」
俺は真っ直ぐ猫柳先輩に近づく。近づくにつれて、猫柳先輩の姿がはっきりとしていく。
「帰って!」
「嫌です!」
俺は猫柳先輩の手を掴む。生暖かな感触と脈拍が、俺の中に流れ込んでくる。猛烈な存在感に、吐き気が湧いてくる。だが、その吐き気が増す度に、猫柳先輩の輪郭がくっきりとしていく。
俺は息を荒げながら、猫柳先輩の手を握り続ける。
顔を上げると、涙目の猫柳先輩が存在していた。
「猫柳先輩が自分を認識できないのなら、俺が観測します」
「猫柳先輩がその無と一体化しないように、ずっと見ています」
「それでダメなら、俺が抱きしめてでも観測します。その存在を、ずっと証明して見せます」
猫柳先輩は、俺に抱きついてくる。
「それで、いいですか」
「……」
「それで、勝手に消えたりしませんか」
「本当に……?」
俺は猫柳先輩を抱きしめ返す。
「約束します。絶対に」
「ごめんね……ダメな僕で」
「猫柳先輩だからいいんですよ。唯一無二な先輩が」
猫柳先輩は、俺の腕の中で泣いた。俺は、ただそんな先輩を黙って撫でた。
空が暗くなり始めた頃。猫柳先輩は泣き止んだ。
「本当にいいの?」
猫柳先輩は俺の顔を見上げる。
「猫柳先輩以外に大した交友関係ないですし、大丈夫です」
「……悲しいやつだね」
「ひどいこと言わないでください」
「山嵐くんだってひどい事言ったじゃん」
心当たりがない。そんな俺の表情を読み取ったのか、猫柳先輩は俺の胸をポカンと叩いた。
「シュレディンガーの猫。じゃないよ!」
「……そんなこと言いました?」
「昨日、心の声漏れてたよ」
「……まぁ、間違ってないでしょ」
「なんで開き直るのさ! というか僕のスマホ返してよ!」
猫柳先輩はそう言って、俺からスマホを取り上げようとする。しかし、俺はスマホを頭上に持ち上げて、猫柳先輩が届かないようにする。
俺は頭上で猫柳先輩のスマホを操作し、カメラアプリを起動する。
「ほら猫柳先輩、笑って笑って」
俺と猫柳先輩のツーショットが、画面に表示される。猫柳先輩は渋々ピースを作る。
星が瞬き始めた頃、学校の屋上にカメラのシャッター音が響いた。この世界は今日も、続いていく。