シュレディンガー先輩 前編
同じ学生服を纏った学生集団を車道を挟んで見ながら、学校への通学路を進む。
「くぁ……」
あくびを一つ。すると、誰かに背後から肩を叩かれた。
振り向いても、そこには誰もいなかった。周囲を確認するも、車道を挟んでしか人はいない。
「……?」
俺は勢いよく振り向いた。すると、さっきまでいなかったはずの人がいた。
銀のセミロングを揺らしながら、今日は女子制服を着てガードレールの上に座っている。キョロキョロとしていた俺の様子を思い出しているのか、ニヤニヤと笑みを浮かべている。
「猫柳先輩、声かけるなら普通に声かけてくださいよ」
「え〜? だって僕を探す山嵐くんの様子が、あんまりにも面白かったから〜」
先輩は少しハスキーな声でそう言って、体を大きく反らした。そこに大型のトラックが走ってきて。
先輩は消えた。
「あのトラック速度違反だよね〜。ここ一応高校近くだってのに危ないな〜」
そう文句を言いながら、先輩は俺の背後に立っていた。
「本当に神出鬼没っすね」
猫柳先輩は不思議な人だ。本名は猫柳 静音。神出鬼没で正体不明。急に消えたり現れたりする。日によって性別も違うし、みんなからの認識も違う。だが、俺だけは何故か正しく覚えている。猫柳先輩が男の時も女の時も、消えた時も現れた時も全部認識できる。そのせいで俺は、猫柳先輩からは気に入られている。というかもはや付き纏われている。
「まぁね〜。さ、学校行こ行こ」
そう言いながら猫柳先輩は俺の腕を引っ張った。
学校に着き、猫柳先輩は階段を登っていく。
「それじゃ、またお昼にね〜」
手を振って、雑多の中に猫柳先輩は消えた。
「お前本当にあの先輩と仲良いなぁ」
「小暮、いたのか」
「まぁな」
俺の隣で、階段を見上げている男。小暮は俺の幼馴染だ。茶髪に高身長、顔は上の中というモテそうな要素を詰め込んだような男だ。普通に黒髪で中肉中背、顔は頑張って上の下な俺とは正反対だ。
「人嫌いな癖に、よく許してるな」
「うるせぇ」
「はは。学校一の人嫌い、山嵐 行平。学校一の美人と熱愛発覚!?」
小暮は茶化しながら、俺が窓際を歩けるように移動した。こういう小さな気遣いができるのも、いい男の秘訣というものだろう。
「にしても難儀だよな。人が嫌いすぎて近くにいるだけでも気分が悪くなるなんてよ」
「一人も案外悪くない」
「あ、俺といる時も気分悪かったりする……?」
「お前は慣れたよ。何年一緒にいると思ってるんだ」
小暮は俺の言葉を聞くと、嬉しそうな顔をして肩を組んできた。冷静にみぞおちに掌底を叩き込み、引き離す。しかし小暮はそれでも嬉しそうだ。実際赤ん坊の頃から一緒にいるから、今の行動が照れ隠しだとバレているようだ。
俺はため息をついて、小暮と一緒に教室へ向かった。
午前の授業が終わって、昼休み。チャイムが鳴ると同時に先輩はやってきた。
「やっほ〜山嵐くん。お昼食べに行こ」
「猫柳先輩、窓から入ってくるのやめてください」
俺は窓から入ってきた猫柳先輩を受け止め、教室内に着地させる。いつの間にかズボンに履き替えている。
「ここ三階ですよ? 落ちたらどうするんですか」
猫柳先輩は不満げな表情をしながら、俺の椅子に座っている。
「あれ猫柳先輩いつ来たんですか?」
「やぁ小暮クン」
猫柳先輩は目を細めて、笑顔で小暮に挨拶した。
「おっと……俺は食堂で食べてくるかな〜っと」
小暮は俺に手を振りながら、教室を出て行った。猫柳先輩は俺の机からパンの入った紙袋を取り出した。
「いつ入れたんですか」
「ん? あぁ、まぁね」
猫柳先輩は悪戯っぽく笑い、俺の腕を引っ張った。
「さぁ屋上に行こう。僕はお腹ぺこぺこだよ?」
屋上と階段を隔てる扉には、鍵がかかっている。
普段は人が入らないように施錠されているが、猫柳先輩が屋上を訪れる時には必ず開いている。誰かが開けているとか、猫柳先輩が鍵を持っているなどではない。猫柳先輩が訪れる時だけ、まるで最初から鍵なんてかかっていなかったようにすんなりと開くのだ。
屋上に出ると、強風が猫柳先輩の髪を暴れさせる。俺の視界は一瞬髪の毛に塞がれた。
「わぷ」
「あぁ、ごめんよ?」
猫柳先輩はいつの間にかスカートを履いていた。マジシャンの早着替えを見せられている感覚だ。
「大丈夫です。今日は風が強いですね」
「そうだねぇ。あ、スカートの中覗こうとか考えちゃダメだぞ〜」
猫柳先輩はまた、悪戯っぽく笑う。俺は一度目を手で塞ぎ、もう一度開けた。すると、不機嫌そうに頬を膨らませた、ズボンの猫柳先輩になっていた。俺は気にせず、なるべく風の影響が少ない場所に座った。屋上に出る扉の影。少し暗いが、まだ昼なので問題はない。
「お、今日もお弁当?」
猫柳先輩は俺の持っている弁当箱を指差す。猫柳先輩の隣に座り、弁当箱を開けて見せる。
猫柳先輩はまるで宝石箱を見るかのように目を輝かせ、俺の弁当箱を見ている。
「今日のも手作りかい!?」
「えぇ、まぁ。親いないんで、家事だけは得意ですよ」
「そうだったね。山嵐くんも大変だな」
そう言いながら卵焼きを指で摘もうとする猫柳先輩から、弁当箱を遠ざける。
猫柳先輩は涙目でこっちを見ている。俺はポケットからおしぼりを取り出し、猫柳先輩に手渡した。
「ちゃんと手、拭いてからならいいですよ」
猫柳先輩の顔がみるみる明るくなっていく。猫柳先輩はおしぼりで念入りに手を拭くと、俺の弁当箱から卵焼きを摘んで食べた。
「ん〜〜〜美味しい〜〜〜!」
幸せそうにそう言う猫柳先輩を見て、俺もなんだかほっこりした気分になった。
すると猫柳先輩は紙袋からクロワッサンを一つ取り出した。
「はい!」
「くれるんですか?」
「いつものお返しだ!」
猫柳先輩はそう言い切ると、俺の口の中にクロワッサンを無理やり押し込んだ。俺はえずきながらも、クロワッサンをなんとか飲み込む。
「ゲホ。ねじ込むのやめてください」
「きゃ。照れてるんだ〜」
「生命の危機を感じたって言ってるんですよ」
俺は持ってきた水筒からお茶を飲む。
「美味しそうだな、僕にもおくれよ」
猫柳先輩は無遠慮にそう言った。猫柳先輩はメロンパンを持っている手とは逆の手を突き出してくる。
俺はやれやれと肩をすくめながら、水筒を手渡す。
猫柳先輩はメロンパンの空袋目掛けて水筒を傾けた。水筒の中からはトクトクとオレンジジュースが流れ出した。
「どうなってるんですか……」
「ま、不思議な力も使い様ってことさ」
俺に水筒を返し、猫柳先輩はメロンパンの空袋に入ったオレンジジュースを飲む。俺は水筒の中身を飲むが、水だった。
「その力って本当になんなんですか?」
俺は弁当のソーセージを齧りながら猫柳先輩に問う。
猫柳先輩はメロンパンを完食し、チョココロネの袋を開けながら首を捻った。
「さぁ」
「さぁ。じゃないですよ」
「でも困ったことなんてないしなぁ……」
「男になったり女になったりしてて人間関係のトラブルとか無いんですか?」
「……無いね。みんな都合よく解釈してくれるもん」
猫柳先輩はチョココロネの細い方をちぎって、中身のチョコレートをつけて食べ始める。
「あ、でも甘い物が欲しくなるのは難点かな? まぁ太らないけどね」
「いっつもお昼は菓子パンですもんね」
猫柳先輩はチョココロネの甘さに舌鼓を打っている。こんな光景を見ていると、俺も甘い物が食べたくなってくる。
「先輩、その袋の中にまだパンって残ってますか?」
「ん? ……あるぞ?」
「俺も食べたくなったんで一つもらってもいいですか?」
猫柳先輩は露骨に嫌な顔をする。しかしコロリと表情を変え、紙袋の中からジャムが少しはみ出たイチゴジャムパンを取り出した。
「これならまぁいいぞ」
「ありがとうございます」
礼を言い、俺はパンを口に運ぶ。イチゴジャムの味はしつこいくらいに甘く、渋いお茶が欲しくなる。
ジャムがパンからはみ出て、口の端に付く。拭おうとするが、片手にパン。片手に水筒を持っているため手が使えない。水筒を持っている手でパンを持とうにも、ジャムが溢れてしまうのでできない。
「ふふふふ」
猫柳先輩は、そんな俺の様子を見て笑っている。笑いながら、俺にスマホを向けている。
「……また動画撮ってるんですか?」
「うん。山嵐くんが慌てふためく姿は見てて飽きないからね〜。これもまた一種の思い出作りさ」
「ったく……」
猫柳先輩はこうして俺を困らせては動画を撮る。別に拡散するわけでもなく、個人で楽しむ程度なので一応黙認している。
しかしやられっぱなしでは俺も癪に触る。なので、俺は反撃の手段を思いついたのだ。猫柳先輩は、俺が困り慌てふためく姿を見て楽しんでいる。ならば、困り慌てふためなければいいのだ。
「ん」
パンを持った方の手首を使って口の端についたジャムを拭う。そしてそれを口元に持っていき、手で口を隠しながらジャムを舐めとる。その間視線はスマホの方を見ておく。
作戦名:めちゃくちゃカッコつけて、猫柳先輩の思惑から逃れる作戦 だ。
俺は猫柳先輩の顔をチラリと見る。狙い通り、猫柳先輩は顔を真っ赤にしてスマホから顔を逸らしている。あれだけ思い切ってカッコつけたんだ、さぞまともに見れないくらい恥ずかしい物が撮れただろう。
「……本末転倒では?」
しかし猫柳先輩を共感性羞恥心で怯ませることができた。今日はそれで良い。
猫柳先輩は俺を睨みながら、紙袋を頭から被った。そして、その紙袋を深く深く被り、紙袋だけを残して消えてしまった。
俺は、空っぽになった自分の弁当箱とパンの紙袋を持って屋上を去った。