番外編:明けの空をいつか君と
吐く息が白く染まる。
暗い森の中を、暖かな手に手を引かれて進みながらふと見上げれば、木々の葉の間から覗く空にも星が白く瞬いている。
「リュー、大丈夫かい?」
振り返って背中越しに尋ねるロゼに頷き返した。
まだ俺とそれほど背丈の変わらない、子供の姿だ。
―――俺の兄さんになったロゼは、俺に合わせた姿に変わった。
そして俺と一緒にゆっくり成長している。
元の姿に戻っていくことを成長と呼ぶのは少し違うかもしれない。
今にして思えば器用な真似をするものだ。
俺のためだってことは理解している。
あいつはいつもそうだ。
誰かのため、何かのため、自分を捧げることがロゼをロゼたらしめる『美しさ』なんだろう。
「寒くはないかな?」
「平気」
「そうか、寒かったらこの僕に、お兄ちゃんに言いなさい、いいね?」
「うん、ありがとうロゼ」
ロゼは嬉しそうに笑う。
「なんの、僕は君の『お兄ちゃん』だからね、当然さ」
この笑顔を守りたい。
それは出会って、ロゼが初めて笑ってくれた時からずっと胸の深い場所にある願いだ。
二度とロゼのあんな姿を、あんな想いをさせたくはない。
こうして俺の手を握って『兄』として傍にいてくれる、それがどれほど意味を持つことか、いつだって噛みしめている。
「ねえロゼ」
「なんだい、リュー」
「ロゼは寒くないの?」
また振り返ったロゼが、驚いたように「寒くないよ」と返してくる。
「この程度、僕にはどうということもない」
「そっか、よかった」
不意に足を止めて、改めて俺と向かい合うと、ロゼは「君は」と何か言いかけて、微笑みながら俺を抱きしめた。
暖かくて居心地のいい腕の中。
ロゼの匂いを胸に吸い込む。
大らかで、優しくて、なにより頼もしい匂い。
この匂いに包まれていると安心する。夜の寒さもどこかへ行ってしまった。
「君は不思議なヒトだね、リュゲル」
俺を覗き込みながら、そんなことをロゼは呟く。
「出会った時からそうだ、僕なんかを気にかけて、こんな姿をしているのに」
「ロゼは綺麗だよ」
偽らざる本音だ。
今も変わらずロゼは綺麗だ。
闇にも映える金の髪、赤く輝く鮮烈な瞳、容姿に留まらない内面の美しさ、気高さも、全て。
―――けれど今のロゼは自分に真逆の印象を抱いている。
それが歯がゆくて、だからこそ何度でも伝えるんだ。
お前は綺麗だって。
「有難う、リュー」
俺が褒めると、ロゼはいつも本当に嬉しそうに笑う。
こいつの傷ついたままの心を、いつか癒してやることができるんだろうか。
「君の言葉はいつも僕を喜ばせてくれる、もっと僕を褒めてくれないか」
「ロゼの目が好きだよ、赤くて、イチイの実みたいだ」
「ふふ、イチイの実か、あれは悪くない味だった」
「たくさん食べると腹を下すんだって」
「そうなのか? なら君は気をつけた方がいい、僕は腹など下さないからね」
ラタミルはそもそも食事をとる必要がない。
ロゼにとって食べるという行為そのものが単なる道楽だ。
だから美味いものを食べさせてくれと俺にいつも料理をねだる。
おかげで必然的に腕が上がった。今の俺があるのは、ある意味ロゼに鍛えられたからだ。
「さあ、もう少しだけ歩こう、間もなく着くよ」
「うん」
この場所で暮らすようになって、俺達二人で始めた毎年の恒例行事。
母さんは知っているけれど何も言わない。
まだ小さなハルは気付いてすらいないだろう。
それに、あいつには教えられない。
―――怖がらせてしまうかもしれないとロゼが呟いたから、いつかその時が来るまで秘密にしておこうと決めたんだ。
開けた場所に出た。
今日、こんな時間にここへ来る人間はまずいない。
それでも一応周囲に人の気配がないか確認しておいた。
少し離れた場所から、夜行性の動物が、精霊が、俺達を静かに見守っているだけだ。
「着いたね」
星明りを受けながら振り返ったロゼの背に大きな翼が広がる。
「わぁ」
何度見ても目を奪われてしまう。
羽の先だけ鮮やかな赤に染まった白く美しい翼。
本当に綺麗だ。
手を伸ばすと羽の先を向けてくれる。
滑らかで柔らかく、顔を埋めると仄かに暖かい。ほうっと息が漏れる。
「綺麗だね」
「ふふ、有難う」
「俺、ロゼの羽、好きだよ」
「そうかい」
「うん、すごくいい匂いがする」
ロゼは笑って「翼だけかい?」なんて訊いてくる。
顔を上げた俺は、はたとロゼを見て「全部好きだよ」と無邪気に答えた。
嬉しそうなロゼに、俺まで嬉しくなる。
「有難う、僕も君が好きだ、リュゲル」
「うん」
「さて、そろそろ行こうか」
「そうだね」
伸ばされた腕の中へ、俺からもロゼの首に腕を回して、抱えられてフワリと浮かび上がった。
地上が見る間に遠ざかっていく。
空から眺めると改めて広大な森の、向こうに俺達が暮らす村が小さな陰になっていて、もっと遠くに大きな川や、彼方に山の影も見えた。
寒くてくしゃみをしたら、ロゼはすぐ「イグニ・パレクスム」とエレメントを唱えて温めてくれる。
「ねえ、いいの?」
「君は毎年同じことを訊くね、構わないさ、今の僕らを見つけることができるのは神くらいだよ」
「そっか」
「不安かい?」
ううん、と返してロゼの胸に顔を埋める。
お前が大丈夫だと言うなら、きっと大丈夫だ。
あの頃から変わらず俺はいつだってお前を頼りにしている。
「そんなことよりリュー、もうすぐ東の空が明るくなるよ、ほら、ごらん」
言われて振り返ると、東の果てがうっすら白み始めていた。
こうしてロゼと一緒に空で今年最初の日の出を待つ。
新たな年を迎える瞬間を、かけがえのない存在と寄り添い過ごすひと時。
出会えてよかった。
傍にいてくれてよかった。
そんな想いがいつでも俺の胸を焼くんだ。
こっそり横顔を見詰めていると、気付いたロゼの赤い瞳が柔らかく眇められる。
「リュー、僕なんかより日の出を見ろよ、ほら、今年最初の朝日だ」
世界に光が差した。
眩い黄金の祝福を全身で浴びる。
新しい年の始まり、ここからまた一年。
朝はいつだって変わらず朝だけど、今この目に焼き付ける朝は二度と訪れない。
「新しい年だね、また一つ歳を重ねるのか」
感慨深く呟くロゼに「そうだね」と返す。
いつかの訪れはゆっくりと、けれど確実に近づいている。
「なあリュゲル」
「なに、ロゼ?」
「ハルにも、この景色を見せてあげたい」
今頃はまだ温かなベッドで眠っているだろう、俺達の可愛い妹。
全てを知って、それでもハルはロゼを兄と呼ぶのか。
「そうだね」
お前が何を怖がっているか知っているよ。
だけどロゼ、その心配はいらない、だってあいつは俺達の妹だ。
まだ過去に囚われているなら、その認識を早く改めてくれ。
俺も、ハルも、お前の傍を離れたりしない。
俺達は三人で兄妹で、家族なんだ。
あの頃は二人きりで明けていく空を見ていた。
得難く、忘れ難い思い出だ。
「―――兄さん?」
目を開くと、ハルが覗き込んでいる。
「よかった、おはよう兄さん」
「ああ、おはようハル―――どのくらい寝ていた?」
起き上がろうとしたら、ハルが上から圧し掛かってきた。
なんだ?
年頃になってすっかりこういうことをしなくなったのに。
「もう昼過ぎだよ」
「そうか」
「お腹空いたね」
確かにそうだな。
ハルの髪を撫でる。滑らかで柔らかく心地いい。
こいつもまだ寝起きなのか、高めの体温に眠気が戻りそうだ。
「お前は平気なのか?」
「うん、怪我もしてないし、元気だよ、お腹は空いてるけど」
「そうか」
「兄さんは?」
「俺も、大丈夫だ、もう何ともない」
意識を失う前、ニャモニャたちの里へ戻ってきて―――ああ、記憶が曖昧だ。
色々なことがあって酷く疲れていた。
それに、ロゼがいてくれる。
だから俺は安心してストンと眠りに落ちたんだ。
ハルも夜通し動き回って疲れていたに違いない。
本当に大変な夜だった。
思い返すと後悔が幾つもあるが、割り切って進まなければ。
「そっか」
起き上がったハルが俺の腿の上に座る。
俺も半身起こして、久々に距離の近いハルと顔を見合わせると、つい笑い合った。
「兄さん、おかえりなさい」
「ああ、迎えに来てくれて有難う、ハル」
「ロゼ兄さんにも言ってあげてよ」
「そういやあいつはどこだ?」
この部屋にはいない。
ハルはクスクス笑って「探しに行こう?」と立ち上がり俺に手を差し伸べてくる。
ああ、大きくなったな。
その手を取りながら、夢で見たいつかの朝日を思い出していた。
―――ようやくお前の願いが叶うかもしれないぞ、ロゼ。
「あっ」
「ん、今の音、お前の腹の虫か?」
「えへへ」
「ロゼより先にサフィーニャに頼んで台所を借りよう、匂いにつられてアイツも来るかもしれないしな」
「うんッ」
サマダスノームでの悲惨な出来事から少しずつ気分が晴れていく。
もう夜は明けたんだ。
急かすハルと一緒に部屋を出た。
来年の始まりに迎える日の出を、今度こそ俺と、お前と、ハルも一緒に見よう。
また思い出を刻むんだ。
これからはハルも一緒に、三人でかけがえのない時を紡いでいこう。
なあ、楽しみだなロゼ。
やっぱりお前の心配なんて必要なかっただろう?
俺もずっとこの日が来るのを待っていたよ。
お前の傷が少しでも癒えてくれたら―――それが俺の、お前と出会ってから変わることのない願いだ。
皆様、明けましておめでとうございます。
番外編でした。
本編再開は近日中を予定しております。
今年も本作を、作者共々よろしくお願いいたします。