捕らわれた翼:リュゲル視点
スンと嗅いだ空気に、仄かに異臭が混ざる。
これは血の臭い、膿んだ傷口の臭い、そして―――怨嗟と嘆きの臭い。
独特の臭気に僅かな吐き気を覚えつつ、サフィーニャをしっかりと抱いて進んでいく。
通路の先には格子の嵌った部屋が幾つか並んでいた。
まるで牢獄だ。
そして、さっき聞こえた声と同じ声が、一番奥の部屋からまた「だれ?」と問いかけてくる。
「緑の、香りがする―――とても美しい、暖かな優しい香り」
「貴方はプレシオとレグルの母親ですか?」
「プレシオ、レグル」と繰り返した声は、間を置いて「はい」と答えた。
戸惑いと動揺の気配が伝わってくる。
奥の部屋へ向かおうとすると、急にサフィーニャが「リュー様、下ろしてください!」と俺に爪を立てながら叫んだ。
「ニャレクが、ニャレクがいます、匂いがする、ニャレク!」
奥の手前にある部屋の片方から「サフィーニャ」と呼ぶ掠れた声が聞こえた。
「ニャレク!」
サフィーニャは俺の腕から飛び降りると、声がした部屋へ夢中で駆けだしていく。
その後を俺も急ぎ追いかける。
「ニャレク!」
格子に触れた瞬間、サフィーニャの体が弾き飛ばされた。
何か仕掛けがしてあったのか。
慌てて抱き起して様子を窺うと、触れたほうの腕から半身にかけて毛が黒く焼け焦げ、手は裂けて血が滲みだしている。
「くぅううぅッ」
「パナーシア」
苦悶の表情を浮かべるサフィーニャを急いで癒す。
傷が癒えると、サフィーニャは目を大きく見開いて「リュー様」と俺をまじまじと見つめた。
「俺のことはいい、それより、この格子には何か仕掛けが施されている、恐らくは結界術の類だ」
「そうです」
奥の部屋の格子の向こうから、最初に聞いた声が答えた。
「緑の香りをまとう、美しく若きヒトよ、貴方はどうして私の息子たちの名を知っているのですか?」
「プレシオに会いました、彼からあなた達の話を聞いて、ここへ来ました」
プレシオ、と呟いた声は、密やかにすすり泣く。
あまりに痛ましく胸が苦しい。
「リュー様、ニャレクがここにいます、ニャレク、ニャレク」
サフィーニャは触れられない格子へ手を伸ばす。
その目から零れ落ちた雫が石床に黒い染みを作っていく。
「サフィーニャ、君はどうして、まさか君までここへ連れてこられたのニャ」
「ええそう、だけどこちらのリュー様のお力で貴方の元までたどり着けたニャ」
「ああ、感謝します、リュー様」
「ニャレク、生きていてくれたのね」
「まだ生きているよサフィーニャ、心配かけてすまない」
「ニャレクッ」
ニャレクの意識ははっきりしているようだが、体がどうなっているか分からない。
この血や膿の臭いはどちらのものだ、もしかしたら二人から漂っているのかもしれない。
クソ、俺じゃ格子はどうにもできない。
ロゼがいてくれたら、あいつならこんなもの簡単に壊してしまえるのに。
(アイツは今いない、それにロゼがここへ辿り着く前にどうにかしなければ)
辺りを見渡す。
何か結界を解除できそうなもの、待て―――そうだ。
懐に手を突っ込んで香炉を取り出した。
普段あまり使わないようにしているから忘れかけていた、俺にはまだ『これ』がある。
「サフィーニャ、それからニャレク」
振り返って奥の部屋へ「貴方も、聞いてください」と呼び掛ける。
「今からしっかり目を瞑って、この光は強すぎる、直接見ると目が眩みます」
「リュー様?」
「何も訊かないで欲しい、言えないことだ、でも今はこれしかない」
サフィーニャはじっと俺を見詰めると、頷いてギュッと目を瞑った。
少し待ってから香炉の熱石を取り出して魔力を込める。
―――俺が使うオーダーは多くの香りを必要としない。
発熱した熱石を戻すと、香炉の底部に染み込ませた夏に茂る青葉の香りが辺りへ漂い始める。
「ヴィーラセルクブレ、応えよ、我が助けとなれ」
香炉を揺らして唱える。
間もなく、強く大きな輝きが現れた。
四つ足の獣だ。
ここが霊峰サマダスノームだからだろうか。
「牢の仕掛けを破壊しろ、できるか?」
獣は低い声で唸り、まずニャレクが囚われている牢の格子を爪で破壊する。
バチリと火花が散って獣は悲鳴を上げた。同時に姿が一回りほど小さくなってしまう。
すまない。
胸で詫びると、獣は気にするなと言うように鼻を鳴らしてから、次に母親のラタミルが囚われている奥の格子に爪を振り下ろした。
さっきより大きな火花が散ると同時に光の獣は弾けて消える。
よく頑張ってくれた、有難う。
目を瞑っているサフィーニャに「もういいぞ」と声を掛けて、ニャレクの方の破壊された格子の先へ踏み込んだ。
「ニャレクッ」
俺に続いて入ってきたサフィーニャは、俺を追い越し、部屋の奥でうずくまる影の元へまっすぐ駆け寄る。
「ニャレク!」
「サフィーニャ」
近付いて、その酷い有様に息を呑んだ。
ニャレクは満身創痍だ、耳の付け根と尻尾の付け根が裂けて千切れかけている。
目もよく見えていないらしい。
縋りついたサフィーニャをそっと抱く腕は、片方が見当たらなかった。
「ニャレク、どうしてこんな姿に、どうして」
「俺はまだ生きているからマシだニャ、だが、他は皆、食われてしまった」
「そんな」
「―――食われた?」
「教団は魔物を使って強化実験を行っているニャ」
さっきプレシオも話していたことだ。
彼はもう幾度となく、あの奥の部屋に捕らわれているプレシオたちの母親の体の一部を移植された魔獣と、その性能を見るために戦わされたのだろう。
だが何のために、どうしてそんなものを作って運用可能か試す必要があるんだ。
まさか山頂にいるとかいう『竜』もその成果なのか?
「恐れ多くもラタミル様を穢し、お力をみだりに利用して、この地に災厄をもたらそうとしているニャ」
「そんな、どうして、どうしてニャ」
「俺にも分らないニャ、ああ泣かないでくれサフィーニャ、今はハンカチを持っていないんだ」
「ニャレクッ」
この状態では喋ることさえ辛いだろう。
迷ったが、腹を決めて、ニャレクに触れながら「パナーシア」と唱えた。
直後に目の前がぐらつく。
―――流石に欠損部位再生は対価が大きい。
「腕が」
ニャレクは元に戻った自分の腕を驚きと共に見つめると、ハッと辺りを見渡し、そしてサフィーニャを見る。
「サフィーニャ、君の顔が見えるニャ、この手で触れることも出来るニャ」
「ニャレク」
「サフィーニャッ」
抱き合う二人にホッと息を吐いてから、立ち上がって部屋を出た。
もう少しニャレクから事情を聞きたいが、その前にラタミルの方を見に行かないと。
鉄格子に軽く触れてみると仕掛けだけは解除されている。
これだけやり遂げてくれたんだ、充分過ぎる。
息を吸い込み、格子を握って、グッと引いた。
暫く引き続けると、バキッとどこかが壊れる音がして、格子が開く。
「失礼する」
踏み込んで奥へ進むと―――そこに、無残な姿のラタミルが体を横たえていた。
散々羽をむしり取られた翼は見る影もなく、体も、両足の膝から下が無い。
更に体のあちこちを少しずつ切り取られ、髪も切られたのだろう、不揃いな短髪はあまりに痛ましい。
「醜い、と思われたでしょう?」
力なく微笑んだラタミルの傍へ膝をつき、細くやせ衰えた腕に触れる。
「今の貴方の全てを癒すことはできない、でも、せめて翼と髪と、肌を癒します」
「貴方はどうしてパナーシアを唱えられるのですか?」
「言えません」
誰にも、ハルにだって語ることはできない―――今は、まだ。
「分かりました」
頷いたラタミルに「パナーシア」と唱える。
さっきよりひどい眩暈と倦怠感に襲われた。
クソ、気張れ、ここで俺まで動けなくなるわけにはいかない。また香炉を取り出し「ヴィーラセルクブレ、応えよ」と唱える。
青葉の香りに包まれて、抱えられるほどの大きさの光が二つ現れた。
「この精霊を貴方の脚代わりに、ニャモニャの里へお連れします」
「いけません」
「何故ですか?」
ラタミルは「私の一部から生まれたものが、彼らを屠ってしまったから」と顔を伏せる。
害される前の状態に戻ったんだろう、長く美しい髪の影で幾筋も涙を流す。
彼女の片方の目は肌の傷が癒えてもまだ開かない。
眼球を失っているのか。
「それにここを離れることはできません、夫を、息子たちを残してなど、行けない」
「では取り返しにいきましょう」
「え?」
もう一度「パナーシア」と唱える。
閉じていた片眼が開いた。
同時に抗いがたい脱力感に襲われ、倒れかけた俺を細い腕が支えてくれる。
その腕から温もりが体の中へ流れ込んできた。
今もほとんど消えかかっている、僅かな命の光を俺に分けてくれるのか。
「もう、いい、いいです、やめてください、貴方が消えてしまう」
「いいえ、美しいヒトの子、貴方へ感謝を」
ふと母さんを思い出した。
強く、優しく、美しい人。
これほど酷い目に遭い、踏みにじられても、彼女の美しさは、尊厳は、汚れていない。
だからこそ平然とこんな真似ができる奴らに激しく憤る。
―――よくも、外道共め。
「貴方のお顔がよく見えます、とても精悍な面立ちをしていらっしゃる、瞳は青葉の色ですね、なんて綺麗」
「有難う、貴方も美しいです、青空の色の瞳だ」
「貴方のおかげです、ヒトの子、有難う」
おかげでどうにか立てる程度回復できた。
一息ついてから、改めてラタミルの状態を確認させてもらう。
流石に足までは戻せそうにない。
―――ハルなら可能だろうが。
だけどそれ以外はおおむね癒せた、翼も、これならどうにか飛べるだろう。
「さあ、行きましょう」
「本当に、あの人を助けに?」
「勿論です、プレシオにもレグルと逃げるように言ってきました、きっと大丈夫です」
不安げな表情を浮かべるラタミルの欠けた膝下へ、精霊の光が触れて繋がり、足を形作る。
ラタミルは翼を羽ばたかせながらゆっくり立ち上がった。
「具合はどうですか、歩けそうですか?」
「ええ、大丈夫、とても暖かいわ、貴方にどれだけ感謝すればいいか」
「それはここを脱出してからで構いません、俺の手に捉まって」
細い手を引き部屋を出ると、格子の外でサフィーニャとニャレクが待っていた。
「ラタミル様!」
「ラタミル様ッ」
二人はラタミルの前で傅き、その姿に当の彼女は戸惑った様子で俺を見る。
「お傍におりましたのに、貴方様をお救いすること叶わず、お許しくださいニャ」
「いいえ、私こそ、連れていかれるたび傷だらけで戻る貴方を見ていることしかできませんでした、詫びても済まない醜い行いです」
「ラタミル様は何も悪くありませんニャ、あれほど苦しまれておられたというのに、俺はッ」
「ニャモニャの戦士、どうか顔をあげてください、そちらの美しい方も」
ゆっくりと顔をあげて、サフィーニャは「私は、ニャモニャの里の里長です」と自ら名乗る。
「ラタミル様、どうか我らの里にて養生なさってください、皆で貴方様のお体とお心を癒すお手伝いをさせていただきますニャ」
「いけません、里長ならば尚更、私を罰してくださらなくては」
「それはラタミル様のご意志ではありませんニャ!」
思いがけず大声を上げたサフィーニャに、俺も、ニャレクまで驚いて彼女を見る。
「ニャレクへの非道な行い、ラタミル様をこのように辱めて、あの者たちはラタミル様の信徒などではありませんニャ、今ハッキリと分かりました、私は、彼らを許しませんニャ!」
「サフィーニャ」
「悔しい、私が迷ったばかりに、見抜けなかったばかりに、私は愚か者ですニャレク、う、ううッ」
サフィーニャの失意が、後悔が、伝わってくる。
たおやかな彼女がここまで毛を逆立てて怒り狂うほどの状況を、誰もが被害者に貶められた元凶を、断ち切らなければ。
これはもう同情なんかじゃない。
俺自身が腹を立てている。
それに―――山頂にいるとかいう『竜』
絶対にどうにかしなければ。
出来るのか、なんて今考えることじゃない。
「サフィーニャ、ニャレク」
二人に呼び掛けると、サフィーニャと、彼女を慰めていたニャレクは同時に俺を見上げた。
「こちらのラタミルを連れて、今すぐ逃げて欲しい」
「ニャッ、リュー様?」
「ヒトの子、私は」
振り返ってラタミルに「貴方の伴侶は、俺が必ず助け出してみせます」と告げる。
「だから彼らと逃げてください、これ以上貴方が傷つく必要はない」
「でも、でも私は」
「お願いです、俺を信じてください」
「リュー様、お一人でなど無茶です、山頂には『竜』がおりますニャ!」
そうだ、『竜』がいる。
だからこそ行かなくては。
ここへ辿り着くまでに襲ってきた奴らは全員殴って伸してきた。
当分は動けないだろう―――もしかしたら永久に動かなくなってしまったかもしれないが、とにかく危険は少ないはずだ。
それに、ロゼがいる。
あいつは俺をまっすぐ追ってくる、だから来た道を戻れば必ず会える。そうなれば安全は保障されたようなものだ。
ニャレクの傷は癒したし、ラタミルならエレメントが唱えられる。
「これを使うといい」
さっき精霊が破壊した格子の一部を拾い上げてニャレクに差し出す。
丁度いい具合に折れて先端が尖った形状をしているから、槍として使えるだろう。
「ろくに武器も無くてすまない、だがニャレク、お前を見込んで頼む、二人を守り連れ帰ってくれ」
「リュー様」
「ダメですリュー様、どうか」
「分かりましたニャ」
「ニャレク?」
ニャレクは、今度は俺の前で膝を折って「承りましょう」と格子の一部を受け取った。
「必ずや、里まで長とラタミル様をお連れいたしますニャ」
「頼む」
「この命に代えても」
「ダメよニャレク、お願い、リュー様もいけませんニャ、だって竜が、そんな、だって」
「サフィーニャ、君もリュー様の意を酌むんだ、俺達がついていっても足手まといになってしまうニャ」
「ニャア」
そうとは、言わないが。
でも無事では済まないかもしれない。流石に三人を守り抜く自信はない。
ロゼならできただろうが、俺には無理だ。
そして―――そのロゼのためにも、一刻も早く俺は上へ向かわなければならない。
「お願いです、どうか御身を、お命を損なわれぬよう、必ずや我らが里へお戻りくださいニャ、皆でお待ちしておりますニャ」
「ああ」
「リュー様」
瞳を潤ませたサフィーニャが近付いてきて、俺の手に何かを握らせてくれる。
「こちらをお持ちくださいニャ、代々我が家に伝わる守りの石ですニャ」
紐がついた小さな革袋の中には、とても綺麗な青い石が入っていた。
馴染みのある気配がする。
握ると仄かに暖かくて心強い。
―――ああそうか、そういうことか。
「有難う、サフィーニャ」
「私も里にてお帰りをお待ちしておりますニャ、どうか無事にお戻りください、きっとロゼ様もご一緒に」
「分かった」
「ラタミル様、まいりましょう」
立ち上がったニャレクがラタミルへ手を差し出す。
ラタミルは少し迷って、けれどその手を取ろうとして、ふと動きを止めた。
彼女がハッと見詰めた先、俺達も同じ方を見て―――わずかに息を呑む。
「母さんをどこへ連れていくつもりだ」
金の巻き毛、青く暗い瞳、背に翼を持つ少年が、怒りの形相でそこに立っていた。
「レグル」
「どこへ連れていくつもりだ―――許さないぞ!」
辺りにゴウッと風が吹き荒れる。
少年の全身からは、幼い姿に見合わない強い殺気が俺達へ向けて放たれていた。




