反転湖 6
「片付いた、のか?」
「そうみたいだな」
彼女が消えると、泥もあっという間に白い塊に変わって脆く崩れた。
ポータルの花も一斉に花弁を舞い散らせて消える。
―――綺麗だけど、なんだか切ない。
「セレス」
「何?」と振り返ったセレスの顔に触れる。
今度はこっち。
酷い痕だ、女の子なのに、このままになんてしておけないよ。
「パナーシア」
癒しの光が溢れ出すと同時に、セレスは大きく目を見開いた。
痕が消えていく。
よし、これで元通り、白くて綺麗な肌だ。よかった、ホッとしたよ。
「ハルッ」
いきなり大声で呼ばれて驚いたら、カイが急にセレスとの間に割って入ってきた。
そしてセレスの胸の辺りを乱暴につかむ。
カイ、何するのッ?
どうしてそんな怖い顔、セレスも固まっている。
「おいお前、ここで見聞きしたこと全部、誰にも話すんじゃねえぞ」
低い声で言う。
カイは鋭い目付きでセレスを睨みつける。
「な、なにを、言って」
「いいな?」
「お前まさか、何か知って」
「知らねえ、俺にも分からねえ、だが言うな―――ハルのためだ」
「ハルちゃんの?」
「ああ」
私のため? どうして?
話が見えない。それにセレスの様子も少しおかしいような気がする。
『パナーシア』ってそんなに特別な魔法なのかな。
でも、母さんも、リューも、ロゼだって唱えられるよ。
分からない、理由が知りたい。
「ねえカイ、私のためってどういう意味?」
「ハル、いやそれは」
「パナーシアってそんなに特別な魔法なの?」
セレスから手を離したカイは頭をガリガリと掻く。
「分からねえ、パナーシアは特殊だが、俺からできる話は無い」
「どうして?」
「憶測で口にするようなことじゃねえからだよ」
知りたいなら、と言って、カイはため息を吐く。
「そうだな、お前の兄貴にでも訊くんだな」
「兄さん?」
「ああ、知っているかもしれねえ、だが、そうだとしても多分言わないとは思うが」
「どうして」
「お前の兄貴は、伝えるべきことをあえて隠すような奴なのか?」
そんなことリューもロゼもしない。
言わない時は、言えない事情があるからだ。
だけどやっぱり知りたいよ。
モヤモヤする。
カイのあの様子、よっぽどの理由があるんだろう。
―――ここを出たら兄さん達に訊いてみよう。
訊いても答えてもらえなかったら、その理由を訊こう。きっと兄さん達は教えてくれる。
「お前も物分かりのいい奴なんだな」
カイが呟いて、鼻を鳴らす。
「えっ」
「そういうの損するぜ、悪いとは言わないが、もっと好き勝手しても誰もお前を咎めたりしねえよ」
「カイ?」
「なんでもない、それよりそろそろ戻るぞ」
頭上高く揺れる青い水面を見上げて、カイはセレスへ視線を移す。
「おい、さっきの、忘れんなよ」
「ああ」
「ハッ、こっちも物分かりがよくて結構」
薄く笑うカイをセレスが睨み返した。
「ハルちゃんのためと言うのなら、それに、敬愛する師匠とリュゲルさんのご判断ならば間違いはない」
「あっそ、こいつの兄貴共は随分とご立派なんだな」
「お前はあの方々を知らないからそんな口を利くんだ、お二人とも尊敬に値する立派なお方だ」
「ハン、くだらねえ、ヒトなんてどいつもロクでもねえよ」
そっぽを向くカイの横顔がなんとなく陰って見える。
人や獣人絡みで嫌な思い出でもあるのかな。
ハーヴィーは忌避される存在だから、正体を知られて何かあったのかもしれない。
こんなに綺麗で、カイはとっても優しい人なのに。
「ハルちゃん」
振り返ると、セレスが気遣うように微笑みながら手を差し出してくる。
「有難う、君に助けられたよ」
「たいしたことしてないよ、助けられたのはこっちだよ」
その手をぎゅっと握り返す。
セレスは屈んで、掴んだままの私の手の甲にキスをした。
うひゃあッ?
「あッ、あの、セレス?」
「君が無事で本当に良かった、色々と後れを取ってしまって格好付かないが、これからも君を守らせて欲しい」
「えっと」
「頼りにしてくれ、君が望むなら、私はいくらでも君のために戦える」
「恥ずかしいよ、照れるからやめて」
フフッと笑ったセレスの顔は確信犯だ。
またからかわれたのかな?
傍で見ていたカイが呆れて「いい加減にしろ」なんて言う。
「今度こそ用は済んだだろ、戻るぞ」
「あ、待ってカイ!」
上へ向かって泳ぎ始めようとしていたカイを呼び止める。
「ネイヴィにもう一度会ってからじゃダメ?」
「はあ? なんでだよ、あんなのどうだっていいだろ」
「ねえカイ、お願い」
「ッたく!」
よかった、戻ってきてくれた。
カイは面倒見がいいよね。フフ、やっぱりちょっとリューに似てるよ。
あの時。
私は『どうにかして大蛇と話をさせて欲しい』って皆に頼んだ。
とっくに理性は消えているから無駄だってカイは言ったし、セレスも危険だって渋ったけど、核にされてしまった彼女に触れたかったんだ。
言葉で伝えられないなら、別の何かで。
―――オーダーならそれができる。
香りは意識の深い場所まで届くから。
兄さん達がいてくれたら、きっともっと上手いやり方を考えてくれただろう。
たくさん怪我をして、怖い思いをすることも、きっとなかった。
でも私は自分に出来ることをやり遂げたと思う。結果論だし、カイに無茶するなって叱られたけどね。
もっと強くなりたいよ。
私も皆を守れるようになりたい。
「はる、のって」
私に背中を向けながら、モコは翼をパサパサと動かす。
改めて神秘的な姿だ。
でも、モコは相変わらずフワフワな羊のままだけど。
「そういやお前、一丁前に飛べるようになりやがって」
「うん、ぼくもうちびじゃないよ!」
「チビはチビのままだろ」
カイがモコのおでこの辺りをツンッとつつく。
ぎゅっと目を瞑ったモコが、前脚で軽く砂を蹴った。
「フン、体もデカくなってねえじゃねえか」
「おいお前、ラタミル様に不敬だぞ!」
「ぼくもこだよ、せれす、もこだよ」
「えっ、ああ、うん、えーっと」
セレスがまたたじろいでる。
私も、つけてあげた名前だから『モコ』って変わらず呼んでるけど、翼が生えてラタミルらしくなったモコには不敬なのかな。
フフ、モコに不敬って、なんだかおかしい。
モコはモコだよね、私の大切な可愛い友達。
「おい、なんでこいつだけ敬うんだ、俺はハーヴィーだぞ、海神オルトの眷属だ、俺にも様をつけろよ」
「お前に様? 嫌だね、なんでお前を敬わなきゃいけない、お断りだ」
「なんだと」
「だめだよ、せれすもかいもけんかしないよ、ぼく、もこだよ!」
三人とも賑やかだな。
さっきまで必死に戦っていたのに、切り替えが早い。私も見習わないと。
「はる!」
「ハル」
「ハルちゃん!」
言い合っていたセレスとカイ、それからモコが、同時に振り返った。
うん。
そうだね、行こう!
「―――モコ、平気?」
「うん!」
またモコの背中に乗せてもらう。
白い翼を羽ばたかせて、波紋のように青が揺らめく空間に体がふわりと浮かび上がる。
この姿のモコを見たら兄さん達どんな顔するかな。
モコも、そのうちいよいよ姿まで人に変わって、誰もが知っているラタミルになるのかな。
フワフワの毛がなくなるのはちょっと惜しい。
人の姿のモコってどんな感じだろう、全然想像つかないよ。
「おいハル」
カイが空中をスイッと泳いで隣に並ぶ。
「なに?」
「忘れてねえだろうな、説教」
「うっ」
「覚悟しておけよ」
ちゃんと覚えてます。
あの時は本当にごめんなさい。二度としません。
「うおおおおッ、おいッ、コラお前!」
下から怒鳴り声が聞こえてきた。
飛ぶことも泳ぐことも出来ないセレスは「それなら走るよ」って、砂を蹴立ながら走り続けている。
すごく足が速い、ほとんど息切れしてないし、随分体力があるんだな。
魔法は全然使えないけど、その代わりみたいに人並外れた力や体力があって感心する。
フフ、格好いい。
「ハルちゃんと何話してる!」
「うるせーッ」
カイが怒鳴り返す。
「お前に関係ねえだろ!」
「ハルちゃんを困らせるなッ」
「ヒトの心配してる場合か、そんな調子で、お前はどうやってここを出るつもりだ?」
「うるさいっ、なんとかする!」
「はッ、なんとかねえ」
カイ、顔が意地悪だよ。
「はる、だいじょぶ!」
「モコ?」
「ぼく、がんばるよ、せれすものせてとべる、だからだいじょぶ!」
「本当に? だけどモコ、飛べるようになったばかりで無理しない方が」
「だいじょぶ、がんばる!」
「おい待てお前ら、俺がそこまで冷血漢だと思ってるのか」
半目になって唸ったカイは「奴のことはどうにかしてやる」って言ってくれた。
ありがとう、やっぱり優しい人だ。
「ふふッ」
「かい、ありがと!」
「うるせーバカ、お前らは俺に対する認識を改めろ」
「はーい」
「はーい!」
「こらぁッ! 何話してるんだって訊いてるだろ、ズルいぞ、くっそーッ」
―――向かう先に大きな柱が見えてきた。
その下でネイヴィが待っている。
透明だった姿は鮮やかな緑に変化して、体のあちこちに浮かんでいた黒い染みも消えている。
砂の上にゆったりと横たわりながら、首だけスッと伸ばして私達を見詰めていた。
『おかえり、ハルルーフェ、そしてハルルーフェの輩たち』
「ただいまネイヴィ!」
細くなった目が、また笑ったように見える。
『ありがとう、彼女が解き放たれたこと、私にも伝わりました』
「うん」
『モコ、貴方は翼を得られたのですね』
「そうだよ!」
『なんともお懐かしい姿だ、あの子と共にあった、かつての日々が蘇るよう』
ネイヴィが繰り返し口にする『あの子』
私にポータルの種を渡すようネイヴィに頼み、約束した『あの子』っていったい誰なんだろう。
それに今、モコを見て懐かしいって、ネイヴィはこの姿のラタミルを知っているの?
『ハルルーフェ』
「なに、ネイヴィ?」
『次の種子を受け取りなさい』
―――次?
ネイヴィは長い首をゆっくりと揺らす。
『南方、海に咲く花、貴方と私が巡り会ったということは、深き眠りが妨げられているということ』
「えっと、それって何の話?」
『久遠の彼方、近しき貴方へ、エノアが贈る花は五輪』
エノア?
エノアって、エルグラート建国の祖、巫女王エノア様のこと?
私に花を贈ってくださるって、もしかしてポータスはエノア様の花なの?
分からない、具体的なところが見えてこない。
五輪の花?
深き眠りって、誰の、なんの眠りが妨げられているの。それはエノア様が私に花を贈ってくださることと関係があるの?
どうして私なの?
考えるほど混乱する。とにかくネイヴィに訊かないと。
「ネイヴィ、それって」
『エノアが貴方へ贈る花の意味は、貴方だけが知る、もたらすものも貴方にしか分からない』
「知らない、分からないよ、どうしてエノア様が出てくるの、ポータスって何?」
『ポータスは愛の花』
私の夢の中でも咲いていた花。
エピリュームに似ているけれど違う花、私だけが咲かせることのできる特別な花。
―――理由も意味も知らないけれど、それだけは分かる。でも、分かること自体の理由は分からない。
『あと一つ約束がある、その約束を果たすまで、今しばらくここで待ちましょう』
「ねえ、ネイヴィ教えて」
『私に語るすべはない』
ネイヴィの姿が少しずつ透けて見えなくなっていく。
どうして、ねえ教えて、このままなんて落ち着かないよ。
待ってネイヴィ、答えて。
『ハルルーフェ、貴方と、貴方の愛する全てに、とこしえの祝福を捧ぐ』
「ネイヴィ!」
『また会いましょう、ハルルーフェ』
とうとう見えなくなってしまった。
目の前に巨大な柱だけが今も聳え立っている。
―――ネイヴィ。
「消えちまったな」
「うん」
カイがカリカリと頭を掻いてから、水面を見上げた。
「さて、これでようやく片が付いた、いい加減戻ろうぜ」
「そうだね」
「しょげてんなよ、やることはやった、用も済んだ、ならここに長居は無用だろ」
「うん」
「はる、だいじょぶ?」
まだ整理がつかないけれど、今考えることじゃない。
とにかく帰ろう。
この空間を出て、今もきっと私とセレスを探している兄さん達のところへ。
「さっき南方の海って言ってたな」
「え?」
多分、と前置いてから、カイは言う。
「それはベティアスの海だ、ノイクスにも海はあるが、南方の海ならベティアスだろう、具体的な場所までは流石に分からねえが」
「そうなの?」
「まあ、それなりに綺麗なところだぜ、元は俺もあの辺りにいたからな」
「カイの故郷?」
「そんなもんじゃねえ、ハーヴィーにとっちゃ他所よりまだマシって程度の理由だよ」
ベティアスは人より獣人の人口比率が高いから、種族も姿も違う人や獣人が多いおかげで他者に対して寛容だって、本に書いてあったな。
どうしてハーヴィーは恐れられているんだろう。
神の眷属として同じ立場のラタミルは、大きな神殿が建立されるほど敬われているのに。
「そんなことより、ハル、ちょっと待ってろ」
「どうしたの?」
「下見ろ下、うるせえのが睨んでやがる、ったく仕方ねえ」
カイはスイッとひと泳ぎで、私達を見上げていたセレスの傍までたどり着く。
「おい手ぇ貸せ、連れていってやるよ」
「くッ、一番借りを作りたくない奴に助けられるなんて」
「ふは! そうだぜオイ、精々恩に着ろよ、後で盛大に利子付けて請求してやるからな?」
「言ってろッ、その時はこっちも色付けてお返ししてやる!」
「じゃ、期待しておこうか、ほらよッ」
「無理やり引っ張るな! もっと気を遣え!」
「うるせえなぁ、やっぱり放っておくか」
相変わらず言い合ってばかりだけど、ずいぶん仲良くなったように見えるな、あの二人。
セレスがカイをハーヴィーだからって嫌わないでくれてよかった。
カイも色々言ってもセレスのことを気に掛けてくれるし。
頭上の水面を目指してぐんぐん昇っていく二人を眺めていたら、モコも「はる、いこう」って翼を羽ばたかせて、上へ向かって飛び始めた。
モコの背中から遠ざかっていく砂地を見下ろす。
―――ネイヴィ、またね。
いつかここへ来たら、また君に会えるかな。
顔を上げると煌めく水面はすぐそこ、モコはまっすぐ飛んでいく。
兄さん達にたくさん心配をかけた。
会ったら、謝って、何があったか全部話そう。
相談したいし、訊きたいこともある。
答えてくれるかな、分からないけれど、何があっても私は兄さん達を信じるよ。
盛大に飛沫を上げながら、飛び出した先は夜だった。
ネイドア湖へ引きずり込まれた時はまだ昼過ぎだったけど、あれからどれくらい経っているんだろう。
冷たい風にくしゃみをする。
ようやく戻ってこられたんだ!
「はる、だいじょぶ?」
「平気だよ、それよりモコ、岸へ急ごう、暗いけど今のモコの姿を誰かが見つけたら大騒ぎになる」
「そうだね」
近くに浮かんでいるセレスの姿も見える。
あれ、カイは?
「ハル」
少し離れた場所にカイがいた。
暗くて表情がよく見えない。
「俺はここまでだ」
「えッ」
「もう行く、精々お前の兄貴をねぎらってやれ」
「どうして」
「じゃあな」
バシャッと水音を立てて姿は水に潜り、それきりだった。
カイ、もう行ってしまった。
私に説教がまだだよ、兄さん達にも紹介したかったのに。
話したいことだってたくさんあった。
また会えるかな。
少し寂しくなっていたら、モコとセレスが同時にくしゃみをする。
「ハルちゃん、私はこのまま岸まで泳ぐ、君は先に行ってくれ」
「大丈夫?」
「平気だよ、動けば体も温まるさ、よーし行くぞ!」
うわっ、セレス、泳ぐのも早い!
あんな大きな剣を下げているのに、まるで魚みたいにどんどん岸へ近づいていく。
モコも水面すれすれをゆっくり飛び始めた。
「むつかしい、ちょっとあしがぬれるよ、つめたい」
「モコ、大丈夫?」
「がんばる、でもぼく、おりるのまだうまくないから、またころぶかもしれない」
「平気、怪我したら私が全部治すよ」
「ありがと、はる、ぼくもはるにけがさせないように、がんばる!」
ネイドア湖の岸で、影になったエピリュームが穏やかに揺れている。
もう被害は起こらない、ネイドア湖は元のネイドア湖に戻ったんだ。
空には満天の煌めく星々。
―――今、ネイドア湖を覗き込んでも、運命の人の姿なんて見えないよね。
向かう先の岸に佇む人影を見つけた。
暗くても誰かすぐに分かる。
夜目にも鮮やかな金の髪、大きく手を振るロゼと、隣にいるのはリュー、大好きな二人の姿だ。
「はる、あれ!」
「うんっ」
嬉しくて私からも手を振り返した。
会いたかったよ、兄さん達。
ただいま!




