虚ろなる器
足元が揺れる!
モコが腰に腕を添えて支えてくれる。
「さあ、出でよ!」
魔人が両腕を広げた。
手前に大きな穴がぽっかりと口を開く。
穴から、何か出てくる。
―――あれはランペーテ様の遺体が収められていた棺!
「兄上!」
セレスが叫ぶ。
現れた棺に魔人が手をかざすと、透明な蓋をすり抜けてランペーテ様の遺体が棺の外へ出る。
でも、そんな。
遺体の姿が変わっている?
両手、両足は、まるで魚のヒレだ。
青黒い大きなヒレ、そこに血管のような筋が幾つも浮かび上がっている。
そして背中には、翼。
あちこち煤けたように黒ずんで変色した白い翼。
まるで人と、ハーヴィー、ラタミルを混ぜ合わせたような姿。
「あ、ああ、あ」
セレスが愕然と目を見開く。
カイは怒りを滲ませて遺体を見ている。
メルは顔を背けて、モコは哀れむような表情を浮かべた。
叔父様の遺体をあんな形に造り変えるなんて。
歪な姿は内から瘴気にも似た魔力を溢れさせている。
ミゼデュースで造られた繭の中で、素体として利用されたんだ。
「長らく探し求め続けた中で、これが最も可能性を感じる『受け皿』足りえた」
だからずっと目をつけていたんだと、魔人はランペーテ様の遺体を満足そうに眺める。
「この者は祖に空と海の眷属を持ち、更には女神の血を引く、そして王家に稀に生まれる特異体質リーフィリオでもある」
―――だからランペーテ様と取引をした。
私を殺そうとしたランペーテ様。
その力を与える対価として、魔人はカースを唱えることで魂を失った後の肉体を求めた。
望む神を降ろす器とするために。
ランペーテ様はどこまで分かっていたんだろう。
もしかするとレパトーラの企みも全部気付いていた上で、取引に応じたのかな。
この世界そのものを消すことさえも望まれたんだろうか。
今はもう分からない。
だけど止めないと。
リューが助けてくれたから、私は今、ここにいる。
今度は私の番だ。
―――兄さん、見守っていて。
「まさに、神を降ろす『器』の素体として申し分ない」
「ふざけるなよ」とセレスが唸る。
「貴様ぁッ、よくも、兄上をッ!」
オレンジ色の目が怒りに燃えている。
体も小刻みに震えている。
「確かに兄上は厳しい御方だった! 姉上方に行った仕打ちも、ハルルーフェを脅かし、果ては殺そうとしたことも、俺は今でも許せない!」
だが! と続ける。
「それでも俺の兄だ、こんな形で辱められて、黙っていられるかぁッ!」
叫んで剣を構え直す。
その姿をカイがじっと見つめている。
「斯様な姿に成り果てようとも、兄上のご遺体は返してもらう」
「ほう」
「貴様は邪悪そのものだ、この世にあってはならない、許されまじき存在だ」
「しかし君は、この者に長く虐げられてきただろう、ただの一度も愛されたこともなく、かつての喪失を今なお求めるか、哀れだな」
「知ったような口を利くな!」
「取り繕う必要などない、本音を語るがいい、これがこのような有様と成り果て、幾ばくか憂さが晴れたと思っているだろう?」
「見くびってくれるな、そんなわけがあるか!」
フフ、と魔人は肩を揺らす。
「いじましいものだ、しかし君達は本心を隠し、嘘を吐く」
「これも同じだ」と魔人はランペーテ様のご遺体に触れる。
「怜悧な宰相の仮面の下では、常に渇望し、どす黒い欲が渦を巻いていた」
「黙れ!」
「自分より劣る妹の王たる資格を妬んだ、お前の強靭な肉体と健全な精神を妬んだ、そして自らの元を離れ、無情に去った姉の全てを欲した」
魔人の口元に薄く笑みが浮かぶ。
「だが、その結果全てを失うこととなった―――ヒトとしての愚かさを捨てきれなかったが故に、哀れだな」
「貴様如きが兄上を語るな!」
セレスの声は、まるで悲鳴みたいだ。
聞いていると胸がズキズキ痛む。
「ほう? では君はこれの何を知っている? 何を見て、何を聞いた?」
「それはッ」
「まともに言葉を交わしたことなど無いだろう、まして、弟と認められてすらいなかった」
「う、うるさいッ!」
「これは君を心底疎んでいたよ、そう、去った姉の代わりに生まれた君、そのことさえも蔑み、恥とすら思っていた」
「違う、違うッ、そうかもしれないが、それでも兄上はッ」
セレス―――そうだね。
それでも君は、ランペーテ様やサネウ様に認めてもらおうと頑張ったんだ。
君は母さんの代わりでもない。
だって、見ていれば分かるよ。
お婆様もお爺様も、シフォノや城の方々だって、皆がセレスを愛している。
叔母様、陛下だってそうだ。母さんだって。
ランペーテ様やサネウ様の気持ちを知ることはもうできないけれど、これから変わっていく可能性はあったんだ。
それを否定することは誰にも出来ない。
セレスや、ランペーテ様の想いを、勝手に語るなんて許さない!
「返して!」
叫ぶ。
皆の視線が私に集まる。
「ランペーテ叔父様のご遺体を返して!」
「ハルちゃん」
「はる」
私も取り返したいよ。
だって、母さんは泣いていた。
叔母様も辛そうだった。
お婆様、お爺様だってきっとそうだ。
サネウ様は遺体さえ残らなかった、中身のない棺の埋葬なんてもうたくさんだ!
「分からないな」
魔人の昏い目が私の心を探るように細くなる。
「これは君を二度も害し、更には殺そうとしたものだ」
「関係ない」
だから何?
とっくに過ぎたことだ。
被害には遭わなかった、こうして私は今も生きている。
「しかし、君の兄が犠牲となった」
「リュー兄さんは生きてる!」
「ほう?」
「ロゼ兄さんが言ったんだ、兄さん達は私に嘘なんて吐かない!」
信じてる。
―――結局、会えなかったけれど。
でもリューもどこかで私を想って、一緒に戦ってくれているはずだ。
「あの、砂漠で」
魔人は太い尻尾をゆらりと揺らす。
ランペーテ様の遺体が宙へゆっくり浮かび上がっていく。
「君を見た時から、ずっと感じていた」
なに? ゾワゾワする。
足元から嫌な感じが這いあがってくる。
「気味が悪いと」
セレスとカイ、メル、モコも。
何かを感じたようにそれぞれ身構えている。
「その気配、何より目だ、己が生命を謳歌する輝く瞳」
傍で何かがパンッと弾けた。
オーダーで集まってくれた精霊の気配が一つ消える。
パンッ、パンッと、私の周りを飛び回る光が、見えない力で潰されるように次々と弾けていく。
「しかし、君が大地神の娘と聞いて合点が入ったよ」
最後の精霊まで弾けて消えた。
酷い、なんてことを。
それにエレメントを唱えても、精霊達は怯えて私の呼びかけにもう応えてくれないかもしれない。どうしよう。
「君は我らの敵だ」
宙に浮かんだランペーテ様のご遺体の背後で、空間に穴が開く。
あの時と―――静謐の塔の前で虚が現れた時と同じ!
でもまだエノア様の封印は解けてない。
あの穴は魔人が自分の魔力を使ってこじ開け、固定しているんだ。
「だがいくら神の娘といえども、真の神には太刀打ちできまい」
穴から何かが湧き出す。
それはランペーテ様の遺体へ流れ込んでいく。
「貴様ッ、何をする!」
セレスが叫ぶけど、魔人はニヤリと笑うだけだ。
あの穴の向こうにあるのは虚。
それが『器』とされたランペーテ様を満たす。
世界を消滅させる力。
―――破滅の神。
「やめろ!」
体が震える。
今すぐここから逃げだしたい。
だけど、たとえ独りになったって、私だけは立ち向かわないと。
不意に遺体が身じろぎする。
その目がゆっくりと開いた。
瞼の奥にあるはずのものが、無い。
あの暗い色の瞳が消えて、そこには窪んだ虚だけが覗いている。
「ふふ、ふふふ」
魔人が笑う。
「ふふふ、ふははは! ははははははは!」
ランペーテ様の亡骸は最早生命とさえ呼べない何かに置き換えられてしまった。
あれはもう、ご遺体ですらない。
あれは―――呼んではならないものを降ろした器。
「遂に出でませり! 我らが神よ!」
ああ、やっぱりそうだ。
魔人が自分達の神として求めたものは、創造神ヤクサと対の存在。
全てを無に帰す―――虚。
狭間から生じると言われている自分たちの根源を、破滅の力そのものに見出してしまった、それは間違いなのに。




