決戦前夜 2
「そういえば、カイってまだベッドから起き上がれないのかな」
歩きながら不意にサクヤが言う。
「そうだな、恐らくは」
「ええ」
キョウが頷いて、ティーネも心配そうな顔をする。
「本当に酷い状態だったわ、飛んでいる間も何度も意識を失いかけて、ここへ辿り着くと同時に嘔吐して、そのまま動かなくなって」
「私も傍で歌ったよ、でも私がお仕えしているのは豊穣神だから、海神を寿ぐ歌でもあまり効果なかったみたい」
サクヤ、そんなことをしてくれたんだ。
心配だな。
明日はカイにもついてきて欲しかったけれど、無理かもしれない。
カイには大切な妹がいる。
その妹を探して、ハーヴィーなのにずっと陸を旅していた。
原因を作ってしまったメルと一緒に。
だけど商業連合でやっと妹を、ルルを取り戻して、カイは少し変わった。
前より笑うようになったし、張りつめていた雰囲気もすっかり柔らかくなった。
だからこそ、今の状態で付き合わせられない。
命の保証だってないのに、今度はルルが悲しむことになったら、そう思うと怖いよ。
家族を失くす痛みを私は知っている。
ルルには絶対同じ目に遭って欲しくない。
「食事の後に見舞いでもしてやるか」
「そうだね」
セレスも気になるみたいだ。
いつも喧嘩ばかりだけど、やっぱり二人は友達なんだね。
広間に入ると、母さんと陛下が着席して待っていた。
陛下の傍にはヴィクターが控えている。
「来たわね? さあ掛けて、今夜は晩餐会よ、料理長が腕によりをかけてくれたわ」
「ええ、ささやかな宴ですが、どうぞ明日の英気を養って」
卓には料理がたくさん並べられている。
どれも美味しそう、全部食べられるかな?
セレスとモコもいるから、案外ペロッと平らげるかもしれないね。
「ハルちゃん、ほら、リンゴのジュレがあるぞ」
本当だ。
セレスが指した綺麗なグラスに、果肉たっぷりのジュレが入ってる。
それに、こっちはアップルパイで、こっちはリンゴのサラダ。
「そうよ、ハル、貴方のためよ」
「嬉しい」
「食後のデザートはチョコレートのアイスクリームだそうですよ」
「有難うございます」
母さんと陛下はニコリと微笑む。
まだ食べ始めていないけど、気持ちだけで満たされるよ。
これが最後の食事。
―――なんて、そんなこと考えるな。
食べよう。
好物だらけの食卓。
嬉しいのに、どうしてこんなに胸が痞えるんだろう。
「あ、セレス、ほら、リンゴのムースまであるよ」
「おお、至れり尽くせりじゃないか」
「嬉しいなあ、全部美味しそう」
「ハル、こっちはリンゴのパテよ、パンに塗ったらどうかしら」
「うん」
「何だか晩餐っていうより、これはリンゴ祭って感じだね」
サクヤの言うとおりかも。
誰かに料理長へお礼を伝えてもらおう。
「モコ、リンゴのソースが掛かった肉があるよ」
「にく! やったぁ!」
「本当に君は肉が好きだね」
「うん!」
こんがり焼いた鳥の胸肉に甘酸っぱいリンゴのソースがよく合う。
リンゴが入ったクリームスープはホッとする味だ。
他もリンゴ、リンゴ、リンゴ尽くしで、リューがいたらなんて言うかな。
もう思い残すこともないよ。
―――兄さん達もここにいたらよかったのに。
きっとリューは全部の料理を一口ずつ食べて、私がまた食べたいって言ったらすぐ作ってくれる。
ロゼはリューの手料理の方が美味しいなんて言うかも。
それを聞いてリューが「こら」ってロゼを叱るんだ。
苦しい。
もうお腹がいっぱいだよ。
気を抜くと目の前が濁って溢れそうで、これ以上は食べられない。
「ごちそうさま」
デザートのチョコレートアイスを頑張って完食して、卓にスプーンを置く。
有難う。
幸せだよ、もう十分だ。
給仕が食後のお茶を運んで来てくれる。
いただきながら、皆となんてことない話をして過ごす。
誰も明日のことを言わない。
兄さん達にも、エノア様の花にも、触れようとしない。
ここに、戻ってこられるのかな。
テーブルの影で手を握って息を整えた。
よし。
「それじゃ私、そろそろ部屋に戻らせてもらうね」
椅子から立つと、セレスとティーネも腰を上げる。
「では私も」
「姉上方、皆、先に失礼させていただく」
モコも立ち上がった。
サクヤとキョウ、シフォノまで席を立つ。
「今宵はお招きに預かり感謝いたします、とても楽しい晩餐会でした」
「陛下、オリーネ様、サクヤ共々美食を堪能させていただきました、貴重な機会に恵まれ光栄に存じます」
サクヤとキョウの挨拶は堂に入ってる。
シフォノも陛下と母さんに会釈をして、先に失礼するって伝えた。
「陛下、母さん」
おやすみなさい。
挨拶すると母さんから「ハル」って呼び止められる。
心配そうだな。
それに、何となく悲しい雰囲気も伝わってくる。
握り過ぎて掌に食い込んだ爪が痛い。
「また明日」
「うん」
この前の誕生日で、私はもう大人になったんだ。
だから母さんを不安にさせたりしない。
広間を出ると、ティーネに話しかけられる。
「ねえハル、カイの様子を見に行くの?」
「うん」
「それなら案内するわ、こっちよ」
皆もついてきて、一緒にカイが休んでいる部屋へ向かう。
暫く歩いて辿り着くと、一呼吸して軽く扉を叩いた。
―――返事はない。
「カイ?」
扉をそっと開いて中へ呼びかける。
明かりのついていない部屋はもう日が暮れたこともあって真っ暗だ。
奥のベッドから微かな気配を感じた。
「まだ寝ているようだな」
「ええ」
「心配だけどそっとしておこう」
「そうだね」
音を立てないように気をつけて扉を閉じる。
カイ、ゆっくり休んで。
明日はここに来られないかもしれないから、誰かに後で伝えてもらおう。
私達は大丈夫だよって。
「さて、どうしようか」
「部屋に戻るよ」
「そうね、少し早いけれど、もう休んだ方がいいわ」
ティーネの言葉にセレスも頷く。
「それじゃ、私達も部屋に戻るね」
「また明日」
「おやすみなさーい!」
サクヤとキョウは泊っている部屋へ戻っていった。
シフォノも途中で「こちらで失礼させていただきます」って私達と別れて自分の部屋へ向かう。
「カイ、心配だね」
誰も何も言わなくて、ぽつりと呟く。
靴音と一緒に私の声が廊下に響いた。
「ああ、だがこの程度で音を上げるような奴じゃない、すぐ回復するさ」
「うん」
私もそう思うよ。
でも。
「直接お礼を言いたかったな」
「礼?」
「たくさんお世話になったから、迷惑もかけたし」
セレスが「それは」って言いかける。
「もう伝えられないかもしれない、だから」
「ハルちゃん」
不意に一緒に歩いていたティーネが立ち止まった。
―――どうしたの?
「また伝えたらいいでしょう?」
「え?」
「カイが元気になって、そうしたら伝えればいいのよ、幾らだって機会はあるのだから」
俯いたティーネの赤い目から溢れた雫が零れ落ちる。
「だからお願いよ、ハル」
「ティーネ」
「そんなことを言わないで」
「ごめん」
「いいの、だけど私、貴方をここで待っているわ」
「うん」
「ずっとずっと待っている、貴方が戻るまで、だから」
必ず帰ってきて。
ティーネが抱きついてくる。
「お願い」
「うん」
「私にまた貴方の世話を焼かせて」
「分かったよ、有難う」
小さく震える背中をトントンと叩く。
泣かないで。
ポケットを探って取り出したハンカチを差し出すと、気付いたティーネがちょっと笑ってくれる。
「ちゃんと身嗜みしているわね、偉いわ」
「それ、褒められても微妙だよ」
「いいじゃない、ふふっ、有難う」
受け取ったハンカチで涙を拭って、ティーネは私から離れる。
そして短い溜息を落とす。
「ごめんなさい、取り乱したりして」
「いいよ」
「こんな調子じゃダメね、私はハルよりお姉さんなのに」
「今は同い年でしょ」
「だけど、やっぱり私の方がちょっとだけ年上よ」
ティーネは姿勢を正すと、セレスの方を向いて頭を下げた。
「王子、どうか殿下をよろしくお願いします」
「ああ」
今度はモコの方を向く。
「偉大なる『護国の翼』、どうか我らの貴き御方をお守りください」
「うん」
渡したハンカチでまた目元を吹いて、ティーネは「洗って返すわね」って私に笑いかける。
「では殿下、セレス様、『護国の翼』、私はこちらで失礼させていただきます」
「うん」
「おやすみティーネ嬢、また明日」
「おやすみ」
「ええ、おやすみなさい」
もう一度礼をして、歩いていくティーネを見送る。
追いかけて背中を抱きしめたいような気持ちが湧くけど、代わりに手をぐっと握った。
必ず戻るよ。
だけど、約束はできない。
「ハルちゃん、モコちゃん、行こう」
セレスに促されて歩き出す。
足も気持ちも重くて、一歩踏み出すたび沈んでいくみたいだ。
部屋の前に着いた。
「じゃあ、私もこれで」
ニッコリ笑ったセレスが私の肩にポンと手を置く。
「今夜は眠れないかもしれないが、それでもしっかり休んでおくんだぞ」
「うん」
「私も体をよく休めておく、明日だけは絶対に格好悪い姿を見せられないからな」
「セレスはいつも格好いいよ」
「ハハッ、有難う」
だけど、セレスは行こうとしない。
「ハルちゃん」
不意に泣き出しそうな顔になって、私を引き寄せて胸に抱いた。
「ハル」
「セレス」
「ハルルーフェッ」
苦しい。
セレス、大丈夫だよ。
簡単に諦めたりしないから。
君のこともきっと守ってみせる。
「私は、君を失いたくない」
「うん」
「どうして君なんだッ、どうしてッ」
思わず言葉に詰まる。
それは―――
「君は私を救ってくれた、それこそ数えきれないほど、私に勇気と自信を与えてくれた」
「セレス」
「そんな君を失って、この先どうやって生きて行けばいい? 想像したくもない、君がいない世界なんて」
「大丈夫だよ」
「ハルルーフェ」
「セレス」
「君を愛している、叶うならこのままどこかへ連れ去ってしまいたい」
それは出来ないよ。
だって、エノア様の花を咲かせられるのは私だけだから。
必ず虚を眠らせる。
大切な人達がいるこの世界を消させたりしない。
「なあ、ハルちゃん」
「何?」
「さっき作ったオーダーのオイル、あれで代用できるんだよな? 君が犠牲になる必要なんてないんだよな?」
「うん」
「君は私と一緒にここへ帰ってくる、そうだろ?」
「そうだよ、勿論」
顔を上げて、セレスは「君が言うなら間違いないな」って笑う。
そのオレンジ色の瞳から涙が溢れて頬を伝った。
「だったら私も、覚悟が決まった」
「うん」
「すまない」
「いいよ、だけどまた泣いちゃったね、セレスって本当にすぐ泣くんだから」
「そ、それは言ってくれるなよ」
「でも可愛い」
「やめろって、もう」
信じて欲しい。
だけど―――ごめん。
「有難う」
私を抱いている腕を解いて、セレスは手で涙を拭う。
「それじゃ、今度こそ部屋に戻るよ」
「うん」
「おやすみハルちゃん、モコちゃんも、また明日」
「おやすみなさい」
「おやすみ、せれす」
名残惜しそうに見詰める目をふっと伏せて、セレスは背中を向けて歩き出す。
その姿が廊下の奥に見えなくなるまで見送った。
きっと君には―――直接言えるね。
「はる」
モコに呼ばれて「うん」って答える。
ずっと胸が苦しい。
どうしようもなく寂しいこの気持ちは、明日になれば消えるかな。