反転湖 1
声が聞こえる。
―――誰?
―――誰?
誰が呼んでいるの?
「ハルちゃん! 起きてくれハルちゃん!」
「おいハルッ、目を開けろ、おいッ」
「はるぅッ」
モコまで一緒になって大騒ぎしてる。
フフ、よかった。
セレスとカイ、仲直りしてくれたんだ。
だけど一体どうしたの?
「ん、んん」
「ハルちゃん!」
「ハル!」
あれ、二人してなんだか慌ててる。
セレスの脇からモコが「はる、おはよ」と顔を覗かせた。
「おはようモコ、ってあれ?」
「え、あれ?」
「おい、なんでお前、元の姿に戻ってるんだ」
「かいもだよ」
「は?」
カイが何か確認して「うおッ」と声を上げる。
セレスはポカンとしたまま黙り込んじゃった。
起き上がって辺りを見渡すと―――綺麗、不思議な景色。空間そのものが青く染まってゆらゆらと揺らめいている。
ここ、どこだろう。
モコが膝に顎を乗せてくる。
羊の姿に戻ってるよ、いつの間に、どうしてだろう。
それにカイも。
―――腰から下が魚の足、ハーヴィーの姿だ。滑らかな曲線と深い青色がやっぱり綺麗。
そういえば髪も黒から深い青に変わっている。
魚の足の青も、髪の青も、瞳の青も、どれも私の知らない青だ。
「ま、待て、待ってくれ」
なんだか焦りながら訴えたセレスが、カイとモコを交互に見てごくりと喉を鳴らす。
「お前、その姿まさか」
いけない、セレスは知らないんだ。
驚かせないために二人のことを言わなかったから。
「あ、あのねセレス、これは」
「ハルちゃんどうして」
「え?」
「もしかして君は、知っていたのか?」
「えっ、あ、その」
どうしよう。
隠していたこと、黙っていたこと、怒らせたかもしれない。
嘘を吐かれたと思われた?
動揺しているセレスに掛ける言葉が浮かばない。
違う、騙していたわけじゃないんだよセレス。
言えなかっただけで、悪意があったわけじゃない、だけどこんな言葉じゃ勘ぐられるだけかも、どうしよう。
「セレス、あの」
「すまないがハルちゃん、説明してくれないか?」
「はい」
セレスに嫌われたくない。
不安で手が震える。
ぎゅっと握ったら、見上げるモコと目が合った。
「ウゼえな」
―――え?
言葉を吐き捨てたカイがセレスを睨む。
セレスは少し青ざめながらびくりと体を震わせた。
「説明も何もいらねえだろ、俺はハーヴィー、そっちはラタミルの雛、見たままじゃねえか」
「ラタミルの、雛?」
「おっとそれは初耳か、まあお前たちの間じゃラタミル様っていえば背に翼持つ人の姿だからな、そうなる前はそのちんちくりんなのさ」
「ぼく、ちんちくりんじゃないよ、かい、いじわるだ」
モコがむくれる。
だけどカイは取り合わず、逆に「ケッ」と舌を出す。
「羊、なのか?」
「喋る羊がいるわけないだろ、そりゃ魔物だ、そいつはラタミルの雛だよ、そういうもんだからさっさと理解しろ」
「この羊が、ラタミル様の雛」
「羊じゃねえって、はあ、ヒトってのは本当に面倒くせえな」
「あの」と私からも話を切り出す。
―――セレスにまだ言ってなかったこと、全部伝えないと。
嵐の夜にモコが空から落ちてきたこと、ラタミルの大神殿へ送り届けようとしていること、森でカイがハーヴィーの力を使って助けてくれたことも。
最後までセレスは黙って話を聞いてくれた。
そして私が話し終えると、深くため息を吐いて俯いてしまう。
やっぱり怒ってるの?
それとも呆れた?
ねえ、セレス、こっちを向いて、顔を上げてよ。
「事情は分かった」
そう言ってセレスは改めて私を見る。
「私のために黙っていたなら腹を立てるのは筋じゃない、確かに、こんなことを明かされても戸惑っただろうし、対処に困っただろうな」
「セレス」
「ラタミル様の雛、それとハーヴィー、ね」
「モコはいい子だし、カイは優しいよ」
「ああ、ハルちゃんが言うなら信じるよ」
ニッコリ笑い返してくれる姿はいつものセレスだ。
よかった。
ホッとして強ばっていた体の力が抜ける。
「だけど隠し事をされていたのはやっぱりショックだ、私ってハルちゃんに信用されてないの?」
「そんなことないよ!」
「それじゃ、胸の前で両手を組んで、首を軽く傾げながら『ごめんね』って私の目を見て言ってくれないかな」
「えっ」
「そうしたら信じるよ、さ、ハルちゃん」
う、ううーっ。
なんだか恥ずかしい気がするけど、それで信じてもらえるなら、やるしかない。
ええと、両手を胸の前で組んで、セレスを見上げながら、首を少し傾けて―――こうかな?
「ごめんねセレス」
「はうッ、ハルちゃん!」
「お前らいい加減にしろ」
今度は腕組みしたカイが溜息を吐く。
眉間にしわまで寄せて、こっちは完全に呆れ顔だ。
「じゃれてる場合か、それより、ここはネイドア湖の裏側だぜ」
「うん、そうだよ、ぼくたちねいどあこのうらがわにつれてこられたんだ、はるだけもっていこうとしたから、ぼくもついてきた!」
「俺らもオマケでな」
裏、って、どういう意味だろう。
そういえば不思議だ、水の中にいるみたいなのに、普通に呼吸ができる。
体も重くないし、そもそも濡れていない。
「どういうこと?」
「さあな、とりあえず辺りを見てくる、お前らそこを動くんじゃねえぞ」
だけどカイ、と呼び止めようとしたら、カイは魚の足を動かしてスイッと宙へ浮かび上がった。
そのまま空中を泳ぐように行ってしまう。
「な、なんで」
「ここ、みずのなかだから、ハーヴィーならおよげるよ」
「ぼくもとべたらとべるけど」ってモコは俯き気味に呟く。
「ラタミル様は飛べないのですか?」
「ぼくもこだよ、らたみるさまじゃないよ、もこだよ」
「ええと、モコ、様?」
「もこだよ!」
前足をとんっと鳴らして訴えるモコに、セレスは困惑顔で言葉を詰まらせている。
ルーミル教の信徒じゃなくても、世間ではその眷属であるラタミルも信仰の対象として敬うのが一般的だ。
私は村がエノア様をお祭りしていたから、そこまでラタミルを信仰してないけど。
それに、モコを見ているとラタミルが身近に感じられて、親しみが湧いてくる。
ハーヴィーだって、カイのおかげですっかり印象が変わった。
「セレス、いいんだよ、この子はモコで」
「いやでも」
「いつもみたいにモコちゃんって呼んであげてよ、ね?」
「う」
セレスが恐る恐る「モコちゃん」って呼ぶと、モコは「はーい!」と元気に返事する。
可愛いなあ、ふふ。
「こう言ったら不敬にわたるかもしれないが、可愛いな」
「うん、可愛いよね、セレスも触ってみて、フワフワだよ」
「え、いいのか?」
「いいよ!」
モコにも言われて、セレスはモコの毛をそっと撫でる。
柔らかな毛に手がフカッと沈み込むと、一瞬驚いたようにその手を離すけど、また優しく撫で始めた。
「本当にフワフワだ」
「嗅いでもいいよ、いい匂いだよ」
「ハルちゃん、君、結構大胆なんだな」
「そうかな?」
「いいよ、せれすもいいよ」
「う、ううっ」
私もモコをフワフワしよう。
二人で可愛がっていたら、いつの間にか戻っていたカイが「おい」と声を掛けてきた。
「何してるんだアホども、呑気かよ、ったく」
「カイ、お帰りなさい!」
「その辺見てきたぞ」
「ありがとう」
私の傍へスイッと泳いで降りてくる。
まだセレスは身構えているけど、さっき程あからさまじゃなくなった。
気付いたらしいカイもフンと鼻を鳴らす。
「やっぱりここはネイドア湖の『裏側』だ、上見てみろ」
見上げると何か揺らめいている、なんだろうあれ、水面かな?
「あっちが『表側』、抜けたらここを出られるが、手前に障壁があって通れない」
「障壁?」
「触れても問題ないが破壊は無理だろうな、つまり俺達は閉じ込められたってわけだ」
「そんな」
今になって急に不安が湧きだす。
兄さん、リュー兄さんとロゼ兄さん。
何かあったら呼べって言われたけど、流石にこんなところまで来てくれないよ。
また落ちて、離れ離れになった。
森の時と同じだ、兄さん、どうしよう、怖いよ。
「ハルちゃん」
振り返ると、セレスが私の手をぎゅっと握る。
「大丈夫、私が君を必ず守る」
「セレス」
「不安かもしれないが信じて欲しい、君を無事に師匠とリュゲルさんの元へ連れて帰るよ」
「うん」
そうだ、あの時と同じで、私は一人じゃないんだ。
カイとモコ、それにセレスもいる。
「ぼくもいるよ、だいじょぶだよ、はる」
「また落ちちゃったね、一緒に頑張ろうね、モコ」
「うん!」
「―――もういいか?」
カイは冷静だ、やっぱり頼りになるな。
よし。
怖がっている場合じゃない、また皆で協力してここを抜け出すんだ。
「それじゃ取り合えずどうするか決めるぞ、まず」
「ちょっと待て」
「どうしてお前が仕切るんだ」とセレスがカイを睨む。
「はぁ?」
「私はハルちゃんのことは信用している、モコちゃんも、ラタミル様なら信じよう、だがお前は別だ」
「ハーヴィーなんか信用できないってか?」
「それもあるが、それ以上に私はお前自身を信用できない」
「ハハッ、正直だな、そういうところは悪くないぜ」
「お前のその態度が鼻につくんだ!」
また喧嘩なの?
今は仲良くしようよ、ここで二人が争ってもいいことなんて何もないよ。
「別に構わないさ、ハーヴィーは嫌われ者だ、俺が気に食わないってなら好きにすればいい、だがな」
「ここは水の中だ」
そう言いながらカイは魚の足を動かしてすいっと浮かび上がる。
「つまり俺の領分、言ってる意味分かるか?」
急にセレスがぐっと顔を顰めた。
何の話をしているの?
「ハルは分かってないようだが、俺を味方につけときゃ便利だって話さ、水中でハーヴィーに勝てる奴はそういないからな」




