エノア 1
誰?
「こっちよ」
呼び声に招かれて進んでいくと、草花に覆われた台座が現れた。
そこに、薄い服をまとった女の人が横たわっている。
すごく綺麗な人だ。
目の覚めるような翠の髪に、翠の瞳。
肌は真っ白で、全体的にふっくらしているけれど、太っているわけじゃない。
台座の上だけ天井が開いていて、そこから差し込む光が全身をうっすら覆っている。
でも、なんだか凄く大きいような。
「こんにちは、貴方ね、ハルルーフェ」
「は、はい」
名前を知ってる?
「尊き御方の娘、来るのをずっと待っていたの、初めまして、私はモーシェル」
モーシェル!
ということはつまり、この方が『緑の君』!
あ、背中にチョウの翅がある。
息づくようにゆっくり羽ばたいて、翅も光を受けて淡く輝いて見える。
「もっと近くへいらして」
「はい」
近付くと、モーシェルも体を起こして台座から降りる。
やっぱり大きいよね。
もしかするとロゼより大きいかもしれない、ちょっと圧倒される。
「可愛らしい方、それにとてもいい香り」
「あ、有難うございます」
「貴方から懐かしいあの方の香りもする」
わ、あ!
額にキスされた。
ど、ドキドキする、どうしよう。
ええと、そうだ、ここへ来た目的を伝えないと!
「あ、あのっ」
「大丈夫」
モーシェルが片手の指を一本だけ立てて、私の唇にそっと押しあてる。
「知っているから」
「え」
「行きましょう」
ニッコリ微笑んだモーシェルは、チョウの翅を広げてフワッと舞い上がった。
ええと?
動揺しているとモコに抱え上げられる。
「行こう」
いつの間にか大きな姿だ。
セレスも同じように抱えられて、ファルモベルへ来た時と同じように空を飛ぶ。
どこへ向かうんだろう。
モーシェルは前をゆっくり飛んでいく。
「ねえ、どこに行くの?」
「分からない、だけど、きっと最後の種子を託された竜のところだ」
「そうだね」
「しかし圧巻だな、妖精の女王、流石に理性が試された」
「セレス?」
「ハルちゃんはともかく、モコちゃんも何も感じなかったようだな、私は彼女の香りを嗅いだだけで眩暈がしたよ、危険な淑女だ」
「どういうこと?」
「いや、すまないがハルちゃん、私の頬を思いきり叩いてくれないか?」
「ええっ」
「さあ、遠慮せずやってくれ、頼む」
どうしよう。
でもセレスは覚悟を決めているみたいだし、仕方ない、えいッ!
バチンと頬を叩いた私の手も痛い。
「有難う」って笑ったセレスの頬が真っ赤に染まってる。
「ご、ごめんね?」
「いや、これは君という心に決めた人がいながら、他へうつつを抜かしかけた私への罰だ、もっと痛くてもいい」
「ねえセレス、訳が分からないよ」
「いいんだ、私は自分が情けない、だがなぜ彼女が師匠のお眼鏡に適ったか、その訳をこの身をもって知ることができた」
「どうして?」
「どうしてもさ、遍く男は彼女に抗えない、そう理解したんだ」
セレスの話が全然理解できない。
だけど私が叩いた場所が痛そうに腫れてきたからリール・エレクサを唱えようとしたら「やめてくれ」って止められた。
モコはちょっと笑ってる。
さっきから訳が分からないよ、もう。
暫く飛び続けると、不思議な形の建物が見えてきた。
何だろう?
扉が無いから洞穴みたいだ、まるで大きな生き物が伏して口を開いているみたい。
あそこに竜がいるのかな。
モーシェルはその建物の手前へゆっくり降りていく。
モコも後に続いて、フワッと着地した。
「ここよ」
モーシェルがニッコリ笑いかけてくる。
「妹が待ってる」
「はい」
「中に入れるのはハルルーフェだけ、美しい子と麗しい翼は、ここで待っていて」
私一人で行くのか。
少し不安だけど、でも、やるしかない。
モコに下ろしてもらって建物へ向かう。
入る手前で振り返って、セレスとモコに「行ってくるね」って声を掛けた。
「ああ、待っているよ、気を付けて」
「いってらっしゃい!」
頑張ろう。
―――さあ、進むぞ。
建物の中へ踏み込む。
ここはコケやシダ植物が多いな、それになんだか温かくて、足元も柔らかい。
妖精や精霊はいないみたいだ。
風も吹かなくて、辺りはひっそりと静まり返っている。
そういえば光源の類が見当たらないのにうっすら明るい。
どこから光が差し込んでいるんだろう。
暫く歩いても、何もない。
誰もいない。
ここに竜がいると思ったけれど、違うのかな。
あれ?
今、何か見えたような、幻?
―――女の子だ。
どことなく見覚えがあるような気がする。
誰?
金の髪をなびかせて振り返ったその子がニッコリ笑う。
そしてまた向きを変えて走り出した!
待って!
急かされるような気持ちで後を追うと、周りの景色がどんどん変わっていく!
ここ、どこ?
いつの間にか知らない場所にいた。
空が青くて、風が吹いて、ここは―――外?
「誰もいないんだ」
「えっ」
振り返るとさっきの女の子がいる。
「私、独りぼっちなんだよ」
「貴方は誰?」
女の子は少し寂しそうに笑う。
「私の父さんと母さん、それぞれラタミルとハーヴィーがヒトと愛し合って生まれたんだ、私はその二人から生まれた」
不思議な雰囲気の子だ。
「だからね、私にはラタミルとハーヴィーの血が流れている」
そんなことってあるのか。
空と海の眷属の血を引いているなんて、なんだか凄い。
「でも、だから、私はどこにも居場所がない」
「どうして?」
「空のものでも、海のものでもないから、だけど私には空と海の要素がある、だからこの大地にも居場所がない」
「そんな」
「どこにも属さないんだ、だからずっと独りぼっち」
半妖精と同じなのかな。
妖精として生きることは出来ないけれど、人として生きても苦労が付きまとう。
そんな運命を望んだわけじゃないのに。
「でもね、私には、私しか持たない特別な力があるんだ」
女の子は両手を伸ばす。
そこへたくさんの精霊たちが集まってくる。
「皆が私の声を聞いてくれるの」
オーダーを使わずに?
だけど、あれ、この子から不思議な香りがする。
甘くて優しい、まるで花みたいな香りだ。
「それからね、とっておきもあるんだよ」
女の子は精霊と一緒にクルクル回る。
まるで踊っているみたいだ。
長い金の髪が揺れて、深い青色の瞳に精霊の光が映る。
―――そうだ、この子、写真で見た昔の母さんに似ているんだ。
「私は失われたものを再び創ることができる」
「えっ」
「私の命を分けて、傷を癒して、失くした手や足を元に戻すことができるんだ、とっておきの治癒の力だよ」
それって、まさか。
回るのをやめた女の子が、こっちを向いてニコッと微笑む。
惹き込まれそうな笑顔だ。
それに全身が淡く輝いて見える。
きっと特別な存在なんだって思わせる強い何かを持っている。
「初めまして、ハルルーフェ、ずっと君に会いたかった」
「貴方は誰?」
「私はエノア」
思わず息を呑む。
エノア。
エルグラート王家の祖、連合王国を守護する女神。
そして、私に種子と世界の命運を託された方。
「君へ最後の贈り物をするために残った、記憶の欠片だよ」
「欠片?」
「そう、いつか会いに来る君へ、今日までこの子に守ってもらっていたんだ」
「この子?」
エノア様は辺りをぐるっと見渡してから、傍へ来て私の手を取る。
あ、温かい。
触れるんだ、幻みたいなものかと思っていた。
「さあ、行こう」
「どこへ?」
「君に知って欲しいこと、花を咲かせて、今度こそ虚を眠らせるために、君が知らなくちゃならないこと、それを教えるよ」
そのまま私の手を引いてエノア様が駆け出す。
体が羽根みたいに軽い。
このままどこまでも走っていけそうだ。
「どこに行くの?」
「すぐ分かるよ」
嬉しそうに答えたエノア様が笑う。
「ねえハル! 君が来たから、とうとう花が咲くんだ!」




