透明な影
宿の主人が話のついでに近くの美味しい店を教えてくれたから、朝食はその店でとることになった。
小ぢんまりした店内を満たす焼き立てパンのいい香り。
勧められた魚のサンドイッチを頼んだら、厚切りパンの間に塩漬けした大きな魚の切り身とざく切りのキャベツがたっぷり挟まっていて、見るからに美味しそう。
齧ると、表面をカリッと焼いたパンからバターがジュワッと染みだして、魚とキャベツの塩気もちょうどいい、何よりこの量の満足感。
んー、最高。
さっきあんな話を聞いてまた不安になったけど、ちょっと元気が出てきたよ。
美味しい食べ物って偉大だ。
森でリューも言っていたよね、踏ん張りがきかなくなるから食事はしっかりとれって。
食後に出されたエピリュームのお茶も美味しい。
飲みながら、兄さん達にカイを探しに行きたいって話を切り出した。
すぐ反対されたけど、セレスが自分も付いていくって口添えしてくれたら、リューだけ「そういうことなら」と頷いてくれる。
「リュー、君はそう言うが、僕は賛同しかねる、僕か君がハルに付き添うべきだ」
「俺達がついていったら無駄に警戒されるぞ、聞ける話も聞けなくなる」
「だが」
「こっちはこっちで例の帆船を見に行こう、状況次第ではすぐネヴィアを離れる、セレスもいいか?」
「はい」
頷くセレスに、リューは苦笑する。
「すまない、うっかりした、余計な世話ならそう言ってくれ」
「いえ、気に掛けていただいて嬉しいです、私も皆さんと一緒にここを離れます」
「そうか」
ひと月近く、セレスと一緒に旅をしてきた。
家族じゃないけど、こういうのを仲間って呼ぶのかな。
それにセレスと私は友達だもんね。
「まったく君たちは」
渋い顔のロゼが前髪をかき上げる。
あれ?
眼鏡、いつの間に外したの?
「ロゼッ」
慌てたリューの声に重なるようにして、あちこちからバタリ、バタリと何か倒れる音が聞こえてきた。
振り返ると店にいた人たちが全員ぐったりと体を投げ出している。
卓に突っ伏していたり、床に座り込んでいたり、目も当てられない惨状だ。
あ、セレスも固まった。
大きく見開いた両目をキラキラ輝かせながら、半開きになった口から涎を垂らして、ああ、美人が台無し。
「おっといけない」
そう言いながら懐から眼鏡を取り出して掛けるけど、多分もう遅い。
仕方ないなとぼやいて、今度は片手を上げてひらひら振った。
そうしたら、倒れていた人たちが緩い動作で起き上がって、それぞれ不思議そうに首を傾げる。
―――ロゼ、何したの?
「どうして眼鏡を外した?」
「汚れたのさ、油がついた、拭ってそのままかけ忘れた」
「気をつけてくれよ」
「仕方ないだろう、誰にでもうっかりすることはある」
「お前の場合は被害が出るんだ、もっと意識してくれ」
「フン、僕ごときであの体たらく、不甲斐ないあの者たちが悪いのさ」
妹の私でもたまに見惚れるほど綺麗なのに、ロゼって自分の容姿に頓着しないんだよね。
でも、さっきみたいなことになるって思うと、改めて認識阻害の重要性を感じる。
綺麗って危険さもあるんだ。
騒動のおかげでなんとなくうやむやになって、結局ロゼも渋々カイを探しに行くことを許してくれた。
期限は今日の昼まで。
空の一番高いところに太陽が昇ったら必ず戻ってくること、そう約束させられた。
「セレス、くれぐれもハルを頼む、二人とも人気のない場所とネイドア湖へは近付くなよ」
「ハル、何かあったら僕を呼びなさい、どこへでもすぐに駆け付けよう」
「有難う、リュー兄さん、ロゼ兄さん」
「リュゲルさん、師匠、ハルさんのことは私にお任せください!」
店を出て二人と別行動になる。
セレスが「それで、どこへ探しに行くんだ?」って訊いてきた。
「ネイドア湖だよ」
「あそこに? 危険だ、たった今リュゲルさんも近付くなって仰っていたじゃないか」
「だけどカイは多分ネイドア湖にいると思うんだ」
「どうして?」
「調査の仕事なら現場に行くでしょ?」
「まあ、確かにそうだけど」
あてがない以上、一番確率の高そうな場所はネイドア湖だ。
でも怖いから、少し探して見つからなければ大通りへ行こう。セレスにもそう話す。
「香炉も、オーダーのオイルも持っているし」
セレスも腰から剣を下げている。
他の荷物は宿に預けてきたけど、いざとなったら戦える最低限の備えはしてきた。
魔物が町中まで入ってくることは滅多にない。
だけどネイドア湖はすぐそこにあるから、もしもの可能性は一応考えておかないと。
「大丈夫だよ、いざとなったら全力で逃げよう」
真剣に言ったのに、何故かセレスは噴き出して、そのままおかしそうに笑う。
「セレス?」
「ごめん、だけど流石師匠とリュゲルさんの、いや、君自身が強いんだな、ハルちゃん」
「そんなことないよ、強いのはセレスだよ」
「腕っぷしだけならそうかもしれないが、君が強いのは心さ、私も見習わないと」
「そうかな、セレスも十分強いと思うけど」
「私なんかまだまだだよ」
セレスはどこか遠くを見るような目をする。
実力があるのに、向上心を忘れなくて、もっと強くなろうとする姿勢が格好いい。私こそセレスに憧れるよ。
「わかった、ハルちゃん、ネイドア湖へ行こう」
「うん」
「だけど水辺にはなるべく近づかないように、私も周囲をよく警戒しておく」
「有難うセレス」
行先は決まった。
表通りを抜けて、エピリュームの花の香りが漂ってくる方へ進むと、銀色に煌めく湖面が見えてくる。
―――ネイドア湖に着いた。
どこまでも広がる雄大な姿は、やっぱりため息が出るほど綺麗。
でも、この静かな水面の奥底に、あの黒い渦を起こした不気味な『何か』が今も潜んでいるんだ。
「カーイー!」
辺りにはカイどころか誰の姿も見えなくて、とりあえず大きな声で呼んでみる。
これで来てくれたら楽なんだけどな。
「―――おい」
思いがけず返事がした。
驚いて振り返る―――カイだ、いた!
「カイ!」
こんなに都合よく現れてくれるなんて。
やっぱりネイドア湖に来ていたんだ。
「お前ら、昨日ここには近付くなって言っただろ、話聞いてなかったのかよ」
「カイのことを探しに来たんだよ!」
「はぁ?」
駆け寄ろうとしたら、カイは立ち止まって少し身構える。
もしかして警戒してる?
話の前にいなくなられたら困る、こっちも慎重に距離を取ろう。
「あのね、カイ、訊きたいことがあるんだ」
「なんだよ、一応聞いてやる」
「カイはネイドア湖の調査に来たの?」
間があって、「だったらなんだ」と訊き返された。
やっぱりそうだったのか。
それなら、今ネイドア湖で起きていることについて、私達より情報を持っているかもしれない。
「あの」
「待て、野次馬根性出してるだけならやめろ、首突っ込んでもろくなことにならねえぞ」
そう言われると身も蓋もない上に、ほぼその通りだから言葉に困る。
だけどそれだけじゃない。
興味や好奇心とは違う、うまく説明のできない何かが私を突き動かしているんだ。このまま放っておくなんてできないよ。
「カイ、聞いて、昨日の夕方ごろ、湖の中央が黒く渦を巻くのを見たんだ」
カイの顔色がサッと変わる。
急に近づいてきて、まじまじと顔を覗き込まれた。
綺麗な青い目、私の知らない青。近過ぎて少し緊張するよ。
「それで?」
「あ、えっと、凄く嫌な感じがして、気持ちの悪い臭いも漂ってきて、それから、渦の奥に何かいるような気配がしたんだ」
「何かってなんだ」
「分からない、でも良くないものだと思う」
ロゼも言っていた。
あれは外来生物でも魔物でもないけど、関わらない方がいいものだって。
「他には?」
「怖くてすぐ逃げたから、それだけだよ」
何か考え込むカイに、今度はこっちから「ねえ」って話しかける。
「カイは? カイは今ネイドア湖で何が起きているか、あの渦は何なのか、知ってるの?」
「起こった以上のことはまだだ、調べてる最中なんだから知らねえよ」
「そっか」
もしかしたら守秘義務があるのかもしれないけど、そういう事情ならカイはきっと説明してくれる。
お互いに打つ手なしで黙り込むと、急に肩を抱かれて引き寄せられた。
セレスがカイを睨んでる。
「もういいだろう、ハルちゃん、そろそろ行こう」
「でも」
「リュゲルさんからもここへ近づくなって言われているじゃないか、目的も果たしたことだし、宿に戻ろう」
「何イラついてんだ、妙な勘繰りしてるんじゃねえよ」
「なんだと」
また険悪な雰囲気だ。
二人って、もしかして気が合わないのかな。
セレスはなんだかあたりが強くなるし、カイも突っかかるし、仲良くして欲しいのに。
私の髪の影から顔を覗かせたモコがピッと鳴くと、カイはモコを見て鼻を鳴らす。
「どいつもこいつもめんどくせえ、お前らはなんだってそう鬱陶しいんだ」
「そういうお前の方がよっぽど面倒な奴に見えるけどな」
「あ? 会ったばかりでもう訳知り顔かよ、ヒト風情が何様のつもりだ」
「随分と上からものを言うじゃないか」
「実際上だからな、お前如き俺の相手じゃねえ」
「だったら試してみるか?」
「上等だこの色ボケ野郎」
私から離れてセレスが剣を抜く。
カイも、片手に持っていた長い布の包みを解くと、中からあの時失くした槍が現れた。
よかった、ちゃんと見つかったんだ。
穂先が三つに分かれた不思議な形の槍、それを見たセレスが「へえ」と意外そうな顔をする。
「三叉槍なんて珍しい得物を使うんだな」
「どうも、そっちは細腕に見合わないデカさの剣だが、まともに振れるのか?」
「心配ご無用!」
言いながらセレスは剣を振りかぶり、カイは槍を構えて突き出す。
「やめッ」
止めようとして声を上げかけた私の頭の中に、突然声が響いた。
『おいで』
―――誰?
足元がふらつく。
『おいで』
呼ばれている。
誰が呼んでいるの?
『おいで』
その声に引き寄せられるように歩いて、歩いて―――肩でモコがピイッと鋭く鳴いた。
あれ?
いつの間にかネイドア湖の前に立っている。
今は昼前なのに、湖は黒く染まって、揺らめく波の奥でたくさんの光がチカチカと瞬きを繰り返す。
まるで星空みたい。
水面に何かの姿が映し出されていく。
よく見ようとして身を乗り出したら、いきなり水を割くように現れた鉤爪の透明な腕が伸びてきて―――
「ッつ! ハルちゃんッ!」
「ハルッ!」
その手と、後ろから伸ばされた二つの手と、肩で爪を立てる小鳥の小さな足。
四本の手に掴まれながら、私は暗いネイドア湖の奥へ真っ逆さまに落ちていった。