目覚め
久々に服を着替えた。
ずっと何もせず横になってばかりいた気がしたけれど、そんなことはなくて、毎日湯を使って下着も替えていたらしい。
全部ティーネが手伝ってくれていたんだ。
どうりで臭わないと思った、髪だって洗ってないと思っていたけど、ベタベタしていないし、ほんのりいい匂いがする。
これはサクヤが差し入れてくれた、お気に入りの洗髪料と保湿剤らしい。
皆から想われているんだ。
そう、心から感じるよ。有難う。
長椅子に掛けてぼんやりしていたら、いきなり扉が開いてセレスが飛び込んでくる。
「ハルちゃん!」
そのまま走ってきて抱きしめられた。
ちょっと苦しい。
「よかったッ、起きられるようになったんだな、本当に、よかったッ」
「うん、ごめん」
「いいんだ、あんなことになって、君はッ」
セレス、泣いてる。
もう大丈夫だよ。
背中をさすってトントンと叩いてあげる。泣かないで、セレス。
「う、すまない」
少しして落ち着いたセレスは、私の隣に座りなおして、グショグショになった目や鼻を手で拭う。
ティーネが「仕方ありませんわね」ってハンカチを渡した。
「有難うティーネ嬢、君の献身の賜物だな」
「いいえ、ロゼがハルに誕生日の贈り物を残してくれたから、そのおかげです」
「あ、うん、師匠は仰っていらしたな―――『立ち止まらずに進みなさい、そうすれば君の願いはきっと叶う』と」
でも、すぐには難しかった。
今だってまだ乗り越えられていない、ずっと胸が痛くて苦しい。
だけど哀しくても、辛くても、兄さん達がくれた言葉を支えに、今は少しずつでも歩き出そうと思える。
あの時―――ロゼはリューを連れてどこへ行ったんだろう。
抱えられたリューの姿は眠っているみたいだった。
私の身代わりになってくれたんだよね。
静謐の塔で行われた承認の儀。
その最中、いきなり襲ってきたランペーテ様。
何故か途中で母さんが来て、助けてくれたけれど。
私はあの時呪いを受けて死んだ、と、思う。
リューは私の身代わりになってくれた。
どうやって?
死を肩代わりするなんてこと出来るんだろうか。
分からない。
でも、リューが死んだなんて思いたくない。
絶対に認めない。
それと、モコ。
あの時の姿、ロゼそっくりだった。
白くてフワフワな髪は長く伸びて、スッと立った姿と、背中から生える一対の大きな白い翼。
―――そういえばロゼの目、青かったような気がする。
少ししか見えなかったけれど、モコよりも深い蒼穹の色だった。
魔人が開いた穴にモコが飛び込んだら、ものすごい風が吹いて全部消えてしまった。
穴も、魔人も、モコも。
あれはどうなったんだろう。
穴は虚だった。
飛ばされて中に入ったものは全部消えていた。
だけど魔人が、モコが消えたとはどうしても思えない。
何かとても嫌な予感がする。
まだ何も終わっていない、もしかするとこれから始まるのかもしれない。
兄さん達やモコだって、諦めたくないよ。
確かめるまで、納得するまで、あの時のことを一つだって認めない。受け入れない。
―――そのために、私は前へ進む。
「ハルちゃん、その、君に現状の話をするのは心苦しいが」
セレスが不安そうに顔を覗き込んでくる。
ティーネもだ。
「平気だよ、聞かせて」
「分かった、だがもし辛くなったら遠慮はしないでくれ、君に無理を強いたくない」
「うん」
セレスが控えめに話し始めると、ティーネは「少々失礼いたしますわね」って部屋を出て行った。
「まず、承認の儀だが、不成立と見做された、あんな事になってしまったからな」
「うん」
「儀式の最中のことは姉上方が証言してくださった、かつてない出来事に城内はまだ混乱している」
そうだ、ランペーテ様はどうなったんだろう。
あの時魔人に体を乗っ取られていた様子だったけれど。
「宰相は反逆の罪で地位はく奪の上、サネウ兄上と共に王家の家系図より除名されることとなった」
セレスは辛そうに目を瞑る。
「だがサネウ兄上の夫人と子息に関して咎めはなしだ、しかし王家の離宮より退去を命じられた、今後は夫人方の家を頼ることになるだろう」
「シフォノは?」
「あいつは城に残るよ、私の手伝いをしたいと食い下がったんだ、こっちもこんな状況だし人手は欲しい、陛下がそう言って周りを説得してくださったんだ」
陛下はシフォノを気遣ったんだろう。
シフォノも凄いな。
きっと周りからの風当たりは厳しいのに、王族としての務めを果たそうとしているんだ。
「当面、オリーネ姉上が宰相の代理を務められることとなった、次の宰相が任じられるまでの繋ぎとして、肩書は相談役だ」
「そう」
「姉上には窺いたいことがたくさんある、だが、まずは君に話すと言って、今は黙秘を貫いておられる」
母さん。
私も訊きたいことがたくさんある。
「とにかく、こんなことになってしまって、その、私もどうすればいいか分からない」
「うん」
「君に無理をさせたくないと言ったが、正直なところ、多少の無理は甘んじて受け入れなければならない状況だ」
「そうだね」
「ハルちゃん、本当に大丈夫か?」
「うん」
セレスにそっと抱き寄せられる。
柔らかくて、温かくて、いい匂いだ。
こうしているとなんだか落ち着くよ。
「痩せたな」
「え?」
「もう何日もまともに食べていないからだな、今朝は多少は食べられたのか?」
「リンゴのケーキをいただいたよ」
「そうか、もっと食べないとな、こんなに痩せてしまったら、師匠もリュゲルさんも、モコちゃんだってきっと心配する」
またセレスの目が潤む。
泣かないで。
「ねえセレス、今日って何日?」
「ああ、今日は」
―――承認の儀からそんなに経っていたんだ。
私の十六歳の誕生日。
今年はまだ兄さん達からおめでとうを言ってもらっていない。
リューのケーキだってまだ食べていないよ。
「君の誕生祝いに振舞われるはずだったとんでもなく大きなケーキの話、憶えているか?」
「うん」
「あの日の騒動で壊れたらしい、でも料理長が来年はもっと大きなケーキを作るって意気込んでいたよ」
「そうか、楽しみだね」
「ああ、次は絶対に皆で食べよう、全部食べられるか分からないけどな」
思わず笑ったら、セレスも微笑んでから「あ、そうだ」と呟いてポケットを探る。
何か取り出して見せてくれた。
指輪?
「君に、誕生日プレゼントだ」
「有難う、綺麗だね」
「気に入ってもらえてよかった、この石は君の誕生石だよ」
細かい葉が連なった意匠の金環に、キラキラ輝く石が一つ嵌っている。
素敵な指輪だな。
セレスは私の手を取って、左の薬指に指輪を嵌める。
「セレス?」
「君との婚約は今も仮初めのままだ、だからこの指輪に特別な意味はない、安心してくれ」
「でも」
「私は、君の気持ちを何よりも優先したい、それに」
言葉を切って、セレスは呟く。
「君と結ばれるためには、師匠とリュゲルさんからお許しをいただかないとな」
「セレス」
「ハルちゃん」
オレンジ色の瞳が私を真っ直ぐ見詰める。
「君の目は諦めていない、まだ悲しみに暮れているけれど、光を失ってはいない」
そう語るセレスの目こそ輝いている。
―――君も同じなんだね。
今のこの状況を受け容れていないんだ、納得せずに抗おうとしている。
「君はやっぱり凄いな、だから私も腹を括る」
手をギュッと握られる。
「前へ進もう、君の隣で君を支える、それが私の生きる意義だ」
「うん」
「傍にいさせてくれ、君を護らせて欲しい、ハルルーフェ」
「有難う、セレス」
君はいつも色々なものをくれる。
あの時のバラも、この指輪も、私を支えてくれる宝物だ。
大切にするよ。
想いを噛みしめていると、部屋にまた誰か入ってくる。
「ハル!」
母さん!
ティーネも一緒だ、呼びに行っていたのかな。
私の傍に来た母さんは、セレスと反対側の隣に座って顔を覗き込んでくる。
「起き上がれるようになったのね、体調は?」
「平気」
「そう、強い子ね、偉いわ」
髪を撫でてくれる母さんに体を寄せる。
「まだ辛いと思うけれど、前を向くのよ、ハル、貴方にはやらなければならないことがあるの」
見上げると、母さんは真剣に私を見詰めた。
「今からとても大切なことを話すわ、ハルルーフェ、よく聞いて」
「うん」
「これは、貴方にしか出来ないことで、貴方が必ず果たさなければならないことよ」
私に言い聞かせるようにしながら、母さんはどこか迷っている雰囲気だ。
本当は話したくないことなのかな。
私にしか出来なくて、必ず果たさなければならないことって、一体なんだろう。
「貴方には生まれた時から役目がある」
「はい」
「だけどそれは、このエルグラートの王になることではない」
「え?」
母さんは一呼吸置いて、言う。
「貴方は、虚を封じるの」
思いがけず言葉を失う。
言われた内容をすぐ理解できない。
虚を封じる?
どういうこと?
「この事はエルグラートの成り立ちにも関わっています」
唖然とする私をそのままにして、母さんは話を続ける。
「エノアがこの国を興したこと、そしてハル、貴方が生まれたこと、全ては繋がっているの」
「母さん?」
「聞いて、ハル、エルグラートと統治者である王の真の役割、それは」
虚を封じ続けること。
そう語って母さんは、不意に少し切なく微笑んだ。




