エピリュームのオイル
ネヴィアの宿のお風呂には浴槽が―――無かった。がっくり。
「あれはシェフルの名物だからな」
どうしてシェフルだけ? ここも傍に山があって、木がたくさん生えているのに?
水だってネイドア湖があるよ?
もしかして、イグニを呼ぶオーダーのオイルがないの?
他の宿にも浴槽はないらしい。こうなったら私がイグニのオイルを伝授して、ここにも浴槽を置いてもらうようにするしか。
「おかしなことを考えるんじゃない」
「だって」
「お前、あの風呂がそこまで気に入ったのか」
「お湯に浸かるの、すごく気持ちよかったから」
「ならば僕が作ろう!」
「お前もやめろロゼ」
「流石師匠、素晴らしいお考えです!」
「こら、セレスも煽るな」
期待していた浴槽も無い、湖で泳ぎの練習もできない。
うーっ、このもどかしさを調合にぶつけてやる!
今回も私とセレス、モコ、そしてリューとロゼで、二部屋に分かれた。
窓からネイドア湖が見える。綺麗だなあ、土産物屋で絵ハガキ売ってないかな。
母さんとティーネにもこの景色を届けたいよ。
「風が気持ちいいな、仄かにあのエピリュームの香りがする」
「そうだね」
「通りの喧騒もあまり聞こえてこないし、いい部屋だな、流石リュゲルさん」
「ふふッ、兄さんが聞いたらきっと喜ぶよ」
さて、早速摘んだばかりのエピリュームから芳香成分を取り出そう。
まず花と葉と茎に仕分ける。セレスが手伝ってくれた。モコは傍で面白そうに眺めている。
次は、ロゼ製の抽出器を使って芳香成分を抽出。空の瓶に移して、と。
「そうだ、リアックで買ってもらったオイルを使ってみよう」
「あの効果が分からないとか言っていた試作品?」
「そう、何となく呼べそうな精霊の目星はつくんだけど、組み合わせでどう変わるか試してみたい」
最初にエピリュームだけ使って、次に調合したオイルを試そう。
部屋で効果の分からないオーダーを使うと危ないから、用意ができたら外へ出て場所を探さないと。
セレスはまた「付き合うよ」って言ってくれる。優しいな、有難う。
「兄さん達にも一声掛けておこう」
「師匠とリュゲルさんはハルちゃんのことを本当に大切に想っているな」
「うん、私も兄さん達が凄く大切だよ」
「そうか」
どことなく寂しそうな笑顔を浮かべるセレスに「セレスも大切だよ」って伝える。
「えっ」
「友達だもん、モコも大切だよ、皆のことが好きだから、皆大切だよ」
「ハルちゃん」
へへ、こういうこと面と向かって口にすると恥ずかしいね。
セレスは「私もだよ」って、今度はちゃんと嬉しそうに笑ってくれた。よかった、セレスが元気ないのは嫌だよ。
「よし、抽出完了、これが花で、こっちが葉、こっちが茎で、こっちが全草、それからリアックで買ったオイル」
「早速外へ行こうか?」
「うん、兄さん達に声を掛けてこないと」
モコおいで、一緒にオーダーを試そう。
肩に乗せると、フワフワの体を摺り寄せてくる。ふふ、話せないのが残念だよ。
夜に兄さん達のところへ行って、少しだけ羊に戻してもらおうか?
隣の部屋の戸を叩いて声を掛けたら、ロゼがついてきてくれることになった。
リューは疲れたから休みたいって、ゆっくりしてね、兄さん。
「さて、この辺りでいいか」
人が多い場所を避けて、ネイドア湖沿いに開けた場所を見つけた。
周りに建物も少ないし丁度いい、ここで試させてもらおう。
早速香炉を取り出す。
まずはエピリュームのオイル。花だけ、葉だけ、茎だけは、何も起こらない。
全草のオイルも同じ、ほんの少しだけ精霊の気配がしたけど、やっぱり姿は現れない。
「湖の岸に生えているから、何となく水の精霊アクエと相性が良さそうなんだよね、あとは風の精霊ヴェンティ」
「ふむ、甘く豊かな香りだな、緑の精霊も呼べそうだ」
「ラーバ?」
植物を守護する力を持っている精霊だ。例えば、成長を早めたり、実りを多くしたり。
田畑や果樹園ではラーバを呼ぶオーダーを使っているところもあるらしい。
ミューエンにもそういう場所があるかもしれない。農業が盛んだってリューが話していたよね。
「リアックで買ったオイルは、多分だけど、これがイグニ、これがソロウ、そしてこれがアクエを呼べそう」
「ソロウは何の精霊なんだ?」
「土だよ、土の精霊ソロウ」
セレスに訊かれて答える。
土の精霊ソロウは、土壌を豊かにしてくれる。同属の石の精霊ルッビス、毒の精霊ミュネスの力を増幅することも出来る。
ラーバと合わせて呼ぶと、どんな場所でも植物を育てることができるらしい。
それだけ強力な精霊だからなのか、呼んでも応えてくれることはあまりないんだよね。
「なるほど、呼べるようになったら重宝しそうだな」
「うん、とにかく試してみるよ」
ロゼとセレスに見守られながら即席で調合を色々と試す。
万一に備えて、ロゼに周囲を結界で覆ってもらった。
「ええと、イグニが呼べそうなオイルは変な効果だね、甘い香り、これってもしかして」
「煽情だな、君にはまだ早い」
ロゼはさらっと言うけど、煽情って、つまり誘惑効果ってことだよね。
うーん、使う場面はなさそう。そういうことに興味も無いし。
もう少し手を加えたら魅了効果に性能向上させられるかな。とにかくこれは当分保留、と。
「はぁッ、し、師匠ッ、なにやらこう、むっムラムラしますッ」
「大人しくしていろ」
ロゼがパチンと指を鳴らすと、セレスの頭上から桶をひっくり返したように水が降り注いで、ずぶ濡れになった。
うわっ、流石にやり過ぎだよ。
「うおおッ」
「多少は頭が冷えたか」
「有難うございます!」
「うるさい」
ええと、次はソロウが呼べそうなオイルだね。
エピリュームと相性良さそうだけど、どうかな、来てくれるかな。
「あっ」
今度は来てくれた、これは、緑の精霊ラーバだ!
「おお、ラーバを呼び寄せたか」
「うん!」
「へえ、あれが緑の精霊」
何かお願いしなくちゃ、何がいいだろう―――そうだ。
振り返って「セレスに花をあげて」と頼む。
ラーバはキラキラ輝くと、セレスの上を緩やかに飛び回って、色とりどりの花を降らせてくれた。
「わあ、綺麗だな、有難うハルちゃん!」
「どういたしまして」
「何故だ」
「えっ」
ロゼが「何故僕ではない? どうしてだ、ハル」って、私を見詰めたまま呆然と呟く。
しまった。
セレスが慌てて受け止めた花を渡そうとするけど「そんなものはいらない」とそっぽを向いてしまう。
これは、拗ねたな。
いつもなら宥めてくれるリューも今はいないし、どうしよう。
「えっと、最後はこのオイル、アクエが呼べそうなんだけどなぁ」
あえて口に出しながら調合を試す。
セレスもロゼの隣で心持ちハラハラしている。モコは私の肩の上で羽を膨らませて縮こまっているし、辺りの空気が重い。
後でロゼの機嫌を取らないと。
もう、世話が焼けるよ。
たくさん花を降らせてくれたラーバはキラッと煌めいて消える。
有難うラーバ。
さて、次も精霊を呼べるかな、それとも最初のオイルみたいに別の効果が現れるのかな。
「あ、これ」
精霊の気配と同時にひやりと冷気が肌に触れる。
氷の精霊ガラシエ?
やった、高位精霊だ!
「ねえッ、兄さんッ」
「なんだいハル、僕はまだ立ち直れそうにないよ」
「見て、ガラシエだよ!」
「そうだね、そして僕は君のお兄ちゃんだ」
「それは知ってるよ!」
もう、ちゃんと見てってば!
ロゼはのろのろとこっちを向いて、暫くガラシエを眺めてから、傍に来た。
急に抱きしめられる。
ど、どうしたの、ロゼ?
「流石僕の妹だ、ガラシエを呼ぶとは、素晴らしい」
「うん」
「先ほどのラーバも見事だった、あの花の雨はとても美しかった」
「そうだね」
「僕は君のお兄ちゃんだよ」
「分かってるよ」
「僕には花が似合うと思わないか、ハル」
仕方ないなあ。
リューが「ロゼは面倒な奴だ」なんて言うけど、その気持ち、今みたいな時はよく分かるよ。
ゆったりと私とロゼの周りを飛ぶガラシエに「ここに少しだけ雪を降らせて」ってお願いする。
白いものがふわりと舞い降りてきた。
雪だ、綺麗。
触れるとすぐ消えてしまう様子が儚くて、目を奪われてしまう。
「ほら見て兄さん、ガラシエに雪を降らせてもらったよ」
「雪」
「花じゃないけど綺麗でしょ、兄さんのために降らせてもらったんだよ」
「僕のため?」
「そうだよ」
「ハルが僕のために降らせてくれた雪か」
「うん」
降る雪を眺めていたロゼは、私をさっき以上に強く抱きしめる。
くっ苦しい、苦しいってば、ロゼ!
「ハルッ、ああ可愛いハル! 君はなんて愛らしいのだろう、僕は感激のあまりどうにかなりそうだよ!」
「わ、分かったから、苦しいッ」
「おっとすまない」
やっと解放された、窒息するかと思ったよ、はあ。
だけど今度は私に頬ずりしてくる。
もうやめてってば、セレスが見てる、恥ずかしいよ!
「んーっ、君はつくづく可愛いなあ、僕の妹は最高だ、素晴らしい、そして僕は世界中のどの兄よりも幸せな兄だ、ふっ、フフフッ」
「よかったですね師匠」
「余計なお世話だ、お前は黙っていろ」
羨ましそうにしていたセレスは、そのままシュンと項垂れる。
ますます収拾がつかなくなってきた。
リューにもついてきてもらえばよかったなあ、こんなことになるなんて。
ひとしきり雪を降らせてくれたガラシエは、キラキラと輝きながら消えていった。
有難うガラシエ。
新しく二種類も精霊を呼べるオーダーのオイルができて、成果は上々、大満足だ。
―――でも、この状況はだけは、そろそろ勘弁して。




