ネイドア湖
リアックからネイドア湖までは街道が整備されているんだって。
そうだよね、なんたってミューエン随一の観光地だし。
クロとミドリに乗って移動する私達の他にも、大型の乗合馬車や、お金持ちが乗っていそうな豪華な馬車、隊商の荷車なんかが行き交う。騎獣に乗った人や獣人もいた。
「ここからネイドア湖まで、リアックの騎士団が治安維持にあたっているから魔物も野党も滅多に出ない」
ミドリの背中で揺られながらリューが説明してくれる。
「街道沿いに宿もあるが、今ぐらいの時期は天候が悪くない限り大抵は道脇で野宿を選ぶな」
「危なくないから?」
「ああ、食べ物や水を売りに来る奴もいるし、隊商や商人が簡易の店を開いたりもする、夜もまだ布一枚被れば寒さを凌げる」
「そっか、なんだか楽しそうだね」
「そういった道程も含めてのネイドア湖観光だそうだ」
夜になって、昼間聞いたリューの話に改めて納得した。
馬車を停めて野営の支度を始めたり、街道脇にテントを張ったり、そうして夜を過ごそうとしている人達に、見回りらしい兵士が声を掛けて回っている。
私達のところへも来て、気さくに世間話をしてから「よい夜を」と手を振りながら立ち去り、歩いて行った先にいた別の人へまた話しかけていた。
隊商や商人が開いた屋台から美味しそうな匂いが漂ってくる。
ちょっとしたお祭りみたいでワクワクする。
クロとミドリに荷物の見張りをお願いしてから、早速あちこちで買い食いをした。今日の夕飯だ。
串焼きの肉、酢漬けにした野菜、魚の燻製、砂糖漬けの果物まであったよ、これってリンゴだ!
「おいしい~ッ」
「ああ、甘くて美味しい、ハルちゃん、こっちの串焼きも美味いよ」
「本当だ、美味しそう!」
「一口どうぞ」
「有難う!」
お言葉に甘えて、セレスが持っている串焼きの肉を一口がぶり!
美味しい!
「こらハル、人の食べ物を取るな、行儀が悪い」
「セレスがくれるって言ったんだよ、それにこういうのは一緒に食べるのが美味しいんだ、ね、セレス」
「フフ、そうだねハルちゃん」
傍にいたロゼが鼻を鳴らす。
途端にハッとなったセレスは飛びつくようにしながら「師匠もいかがですか!」って目をキラキラさせて串焼きを差し出すけれど、ロゼはあっさり断った。
「いらない、僕はハルから貰う、ハル、そのリンゴを僕にも一切れ食べさせて欲しい」
「いいよ、はい、どうぞ」
「んん、甘いな、有難うハル」
「おいロゼ、お前まで」
浮かれている自覚はあります!
ため息を吐くリューにもリンゴを一切れ分けた。リューは苦笑して、でも貰って「美味いな、これ」って言ってくれた。
「甘味の中に仄かに柑橘系の果汁の風味がある」
「そういえば確かに」
「レモン、いや、少し違うな、これは」
味わうリューをちょっとワクワクしながら見つめていた。
もしかしたら、リンゴが手に入ったら再現してくれるかもしれない。期待しておこうっと。
ミューエンに来てよかった。
ネイドア湖とエピリュームがますます楽しみになったよ!
―――それから数日。
ピオスは馬より脚が速くて体力もあるから、馬や馬が引く馬車を追い越してどんどん進む。
クロとミドリは他のピオスより体が大きくて更に早い。
たまに通りすがりのピオスやドーが競ってきたりするけど、今のところ負け知らずだ。
騎獣は元が魔物だから、持ち主と主従関係をしっかり築いていないと気性の荒さが表に出てくるんだって。
クロとミドリはとっても大人しい。
リュー兄さんのことを主人として認めているんだねって言ったら、リューは「ロゼが怖いんじゃないか」なんて笑っていた。それは確かに、あるかもしれない。
天気は連日良好。
遠くに連なる山の稜線。どこまでも伸びる街道とその両側に広がる草原を、時折風がざあっと吹き抜けていく。
たまに道脇の木立や草むらから飛び出す魔物は小さくて強くもない種ばかりだ。
ダンビットとか、ガイスパローとか、脅威じゃないから放っておかれているんだって。
でも、この辺りに強い魔物はいないから、数がどんどん増える。
だから時々まとめて駆除しているらしい。
ちなみに、ダンビットは前歯と後ろ足が発達したウサギみたいな魔物で、ガイスパローは嘴から微弱な衝撃波を発生させるスズメのような魔物。
どっちも数が多いとそれなりに厄介だけど、それでも危険って程のことはない。
捕まって小さな子供のおもちゃにされているのを見かけたりもした。
紐で縛られたり、耳を掴んで引きずられたりして、むしろ少し可哀想というか、魔物も大変だよね。
眺めのいい景色が緩く上ったり下ったりしながら続き、やがて―――丘の向こうで何かがキラキラと輝き始めた。
「ハル、あれだ」
リューが指す先、想像よりもずっと大きい。
山裾に広がる大きな、とても大きな湖。
―――あれがネイドア湖!
「わぁ」
すごい。
こんなに大きいなんて。
あれ全部水なんだ。
関所の街リアックが丸ごと入りそう、対岸に連なる山三つ分くらい跨り広がっている。
この水はどこから来たのかな。
雨が降って溜まったの? それとも山から流れ込んでいるの?
水が溢れたりしないのかな? 干上がることってないのかな?
とにかく湖ってすごい。
森に流れていた川よりずっと大きい。
カイなら自由に泳げるんだろう。
いいな。
私も禁止されていなかったら泳ぎを教わりたかった。あーあ、残念。
「そうだ、お風呂」
「ん?」
「ねえ兄さん、あれだけ水があるってことは、ネイドア湖の湖畔にある町の宿には、お風呂に浴槽があるのかな、またお湯に浸かれるのかな?」
「ハル、お前」
リューは何故か呆れた顔をして、溜息まで吐いた。
どうして? 重要なことだよ?
肩でモコもピイピイ鳴いている。
暫く私を見てから「多分な」なんて投げやりに答えたリューは、ミドリの手綱を軽く揺らした。
――――――――――
―――――
―――
ネイドア湖畔の町、ネヴィア。
輝く湖を背景に、色や形を統一した街並みは、うっかり瞬きを忘れるくらい綺麗だ。
でも、大通り沿いに並ぶ飲食店や土産物屋の軒先には『ようこそネヴィアへ!』とか『名物ネイドア湖まんじゅう』なんて書かれたのぼりがたくさん立ってる。
路上に客引きも大勢いるし、なんていうか、賑やかな町だね!
あちこちから美味しそうな匂いが漂ってくる。
これは魚かなあ、甘い匂いはもしかして『ネイドア湖まんじゅう』?
嗅ぎ続けていたら気になってきた、ネイドア湖まんじゅう、ちょっと食べてみたい。
「景色は美しいのに、ここはあけすけなほど観光地だな」
「そうだな、随分賑わっているな」
「色気の欠片もない」
人も獣人も大勢いる。
町の入り口でクロとミドリから降りて歩いているから、気を付けないと誰かや何かにぶつかりそう。
でも、色々なものがあってつい目移りするよ。
「やあ可愛いお嬢さん、ネイドア湖まんじゅうはいかがかな?」
「えっ」
手綱を持った兄さん達の少し前を歩いていた私に、土産物屋の店員が笑顔で声を掛けてくる。
いきなりで驚いていたら、セレスが間にさっと入ってくれた。
「それはどうも、味見なら喜んでいただくよ」
「おっと、こりゃまいった、それならお出しするしかないね、はい、どうぞ」
店先で湯気を立てるせいろの蓋を開けて、中から取り出したまんじゅうを私とセレスにほいほいっと渡してくる。
あちち、蒸したてで熱い! でも甘くて美味しい!
「気に入ったらどうぞご贔屓に~」
愛想のいい店員にお礼を言ってまた歩き出した。
「儲けたね、んむ、美味い!」
「セレスってばちゃっかりしてる」
「こういう場所は厚かましいくらいが丁度いいんだ、でないと客引きに捕まって色々売りつけられる」
「そうなの?」
「そうそう」
あれ、リューとロゼもまんじゅうを食べてる。
しかもロゼはいつの間にか魚の串焼きまで持ってる。
肩で小鳥のモコがピイピイ鳴いて欲しがるから、まんじゅうを半分こした。
はい、モコの分だよ。
嘴の使い方が上手になったな、一生懸命食べる姿が可愛い。
後で魚の串焼きも買ってもらおうね、私も食べてみたいよ。
「しまった、モコちゃんの分も貰えばよかったな」
「それは流石に悪いよ」
でも気にかけてくれて嬉しい、有難うセレス。
町にはあちこちに案内板が立てられている。
表示に従うとネイドア湖はこっち、同じ場所にエピリュームの花畑もあるみたい。
ふっと風に乗って届いた花の香りを感じた。
嗅いだことのない、とってもいい匂い。
今のがきっとエピリュームだ、いよいよ実物が見られる! ネイドア湖もすぐそこ!
気付けば早歩きになって、我慢できない、足が勝手に走り出す。
「ハルちゃん?」
驚いて呼びながら、セレスも後から駆けてくる。
「こっちだよセレス、早く行こう!」
「ハハッ、ハルちゃん足速いなあ」
大通りから脇へ延びる道を駆け抜けると、目の前が急にパッと開けた。
「わあ、ネイドア湖だーっ!」
改めて―――広い。
これ全部水なんだ。
空の色を映してきらめく水面。その上をすいすいと泳ぐ水鳥たち。
対岸の木は小指の先ほどの大きさしかない。
仄かに冷たくて気持ちのいい風が湖を渡って吹いてくる。
さっき歩いていた大通りの賑わいも、ここまでは殆ど伝わってこない。
静かだ。
さわさわと音を立てて緑が揺れる。
そして慎ましやかに、けれど色鮮やかに咲き乱れる紫の花。
エピリューム。
初代女王エノア様が咲かせたという伝説を持つ花。
「すごい」
立ち尽くす私の隣で、セレスが頭の後ろで一つに結ったオレンジ色の長い髪を風に揺らす。
「ああ、綺麗だ」
「うん」
「君とこの景色を見ることができて良かった」
振り返ったら、セレスと目が合う。
不意に微笑みかけられて、なんだか顔が熱くなった。
そんな風に言われるとなんだか照れるよ。
「私も、セレスと一緒にこの景色が見られて良かった」
「本当に?」
「本当に!」
眩しそうに眼を細くしたセレスは、小さく笑って「有難う」と言う。
綺麗だな。
この景色にも、セレスにも、見惚れるよ。
後から追いついたリューとロゼが、さっきの私みたいに―――私よりは控えめに歓声を上げて、ネイドア湖を眺めながら感想を言い合っている。
「これが本物のエピリューム」
「おいハル、湖に近付き過ぎるなよ、落ちるぞ」
「はーい」
リューはやっぱり心配性だ。
でも本当に落ちたら怖いから、足元を確かめながら岸へ近づいて、エピリュームの花に触れてみる。
品のある紫色の花、香りは優しく穏やか、図鑑の通りだ。でも、実物は図鑑と比較にならない。
蝶や蜂が花の間を忙しなく飛び回り蜜を採っている。
その蝶の一羽がセレスの髪にとまった。
わあ、髪飾りみたい。
「ってうわぁ、蜂!」
「ハルちゃん大丈夫?」
「い、いきなり出てきた、驚いたよ」
「刺されなかった?」
「うん、平気、えへへ」
えーっと、どうだろう、セレスとのこの落差。
私の髪にも蝶が止まってくれないかなあ。
「ここのエピリュームって勝手に摘んでもいいのかな?」
「ほら、ハルちゃん、あれ」
少し離れた場所で、女の子達がエピリュームを摘んで冠を作り遊んでいる。
そっか、いいのか。
ならば遠慮なく摘ませていただこう!
「ハル、セレス、俺は今日の宿を決めて、こいつらを預けてくる」
後ろから私達に声を掛けて、リューは向こうで待たせていたクロとミドリの手綱を引きながら町の方へ戻っていく。
残ったロゼがこっちへ来て、セレスと一緒に、エピリュームを摘む手伝いをしてくれる。
「さてハル、どれだけ欲しい?」
「たくさん欲しいけど、そこまでたくさんじゃなくていいよ、あ、蕾はなるべく摘まないでね」
「心得た」
「ハルちゃん、花だけ摘めばいいの?」
「葉や茎も欲しい、場所によって香りが違うから、茎の途中から摘んで」
「分かった、任せてくれ」
不意に視線を感じて振り返ると、向こうで遊んでいた女の子たちがチラチラとこっちを見ている。
ロゼは―――認識阻害の眼鏡をかけているから、気になるのはセレスかな。
大きな剣を下げているけど、姫君みたいに綺麗だもんね。
「ハル、これくらいでどうかな」
「有難う、十分だよ兄さん」
「ハルちゃん、こっちもたくさん摘めたよ、ハルちゃんが摘んだ分も持とうか」
「有難う」
「師匠もどうぞ、お預かりいたします」
「結構だ」
持っている花ごと認識阻害で目立たなくなっているのかな。
エピリュームの束を持つロゼの姿って、文字通り絵になる。凄くよく似合っている。
見惚れたセレスがほうっと溜息を吐いた。
「しかし妙だな」
「妙?」
「いや、場所のせいかもしれないが、ハル」
「なに? 兄さん」
「ここへは一人で来ないように、僕かリューに必ず声を掛けるんだ、いいね?」
「分かった」
一体なにが気になったんだろう。
首を傾げていたら、リューが戻ってきた。
さっきの女の子たちが今度はリューを見ながらそわそわしている。リュー兄さんも格好いいもんね。
「結構摘んだな、それだけあれば足りそうか?」
「うん!」
「それじゃ行くぞ」
リューに案内されて、また町へ戻る。
途中で振り返るとエピリュームが風に揺れていた。
よーし!
宿に着いたら早速エピリュームから芳香成分を取り出して、オーダーのオイルを調合するぞ!