城で最初の夜
「ししょー!」
モコも湯をパシャパシャと跳ね上げて喜ぶ。
「うるさい」って迷惑そうなロゼはいつものロゼだ。
ふふっ、嬉しい。
「さてハル、僕の話を覚えていたようだね」
「うん」
「だが、この場でエノアの花を咲かせるのはよろしくない、明日、別の場所で咲かせるといい」
「どうして?」
「目立ち過ぎてしまうからだよ」
そう言って、ロゼは浴槽の湯にくちばしの先を少しだけつける。
「この水は問題ない、君にはオルトの加護があるからね、そもそも水絡みの災厄は及ばないよ」
「そうなの?」
「ああ、加えて僕の加護もある、この半人前と、ハーヴィーの加護もさ」
モコが「あるよ!」って抱きついてくる。また水しぶきが飛んだ。
商業連合で別れる前に、カイも加護をくれたんだよね。
皆が守ってくれているんだ。
有難いな。
「でも、それならどこでエノア様の花を咲かせたらいいの?」
「明日にあの煩いのにでも案内をさせるといい、城内に都合のいい水場がある」
「えっ」
セレスが場所を知ってる?
それならお願いしよう。
明日にはきっと元気になっているよね。
さっきは―――落ち込んで見えた。
今どうしているんだろう。
会えるならすぐにでも行きたい。夜だから無理だろうけれど。
「君がそんな顔をする必要はないよ」
ロゼが浴槽の縁からトプンと湯に入って、傍までスイッと泳いでくる。
「あのバカ者が、覚悟もなく己の枷と対峙しようなどと、それも僕のハルを言い訳にして」
「やめて、だけどそれってどういう意味?」
「気が大きくなっていたのだろう、目を逸らし続けていた現実を改めて突きつけられ、怖気づいたといったところか」
「サネウ様のこと?」
「それだけではないよ、まあ、アレの事など僕はどうだっていいけれどね」
でも兄さん、セレスはサネウ様に怒ってくれたんだ。
色々と言われていたけれど、私にはセレスと過ごした時間がある。
だから信じられる。
過去がどうでも、私の知っているセレスが私にとっての全部で、それは覆らない。
「大丈夫だよ」
自分にも言い聞かせるように呟く。
モコとロゼにじっと見つめられる。
赤色と空色の綺麗な瞳。
ラタミルの前で嘘は吐けない、だから、この言葉が本当の気持ちだって伝わるはず。
「セレスは弱くないから、きっと大丈夫」
「うん!」
モコが嬉しそうに笑う。
「せれす、うつくしーよ! ぼく、せれすすき! だからぼくもおなじ、せれす、だいじょぶ!」
「そうだね、モコ」
「まったく君には敵わない、ならば僕も、そうあることを願うとしよう」
ロゼは羽ばたいて浴槽の縁に飛び移る。
「ではそろそろ行こう、ハル、長湯はいけないよ、風邪をひいてしまう前にあがっておやすみ」
「はい」
「君とリュゲルをいつでも見守っている、傍に僕がいることを忘れないように」
「有難う、ロゼ兄さん」
「可愛い僕のハルルーフェ、愛しているよ」
そう言って真っ白い鳥の姿は湯気に溶けるように消えてしまう。
有難う、ロゼ。
きっと心配して会いに来てくれたんだ。
兄さん達はいつだって傍で支えてくれる。
それにモコも、セレスも、ティーネだっているんだ。弱気になっていられないよね。
「モコ、そろそろ上がって寝よう」
「はーい」
「明日から大変だよ、まずはここに慣れないと」
「ぼくも、はるかくせるようになる、がんばる」
「一緒に頑張ろうね」
「おー!」
本当にモコがいてくれてよかった。
湯から上がって、髪を乾かして、寝る支度を済ませてベッドに潜り込む。
隣に潜り込んできたモコが、ポンッと小鳥の姿に変わった。
「ねえはる、あしたね、せれす、あいにくるよ」
「え?」
「いま、へやで、ねれないみたい、たぶん、かんがえごとしてる」
「見えるの?」
「うん」
ラタミルの未来さえ見通す『天眼』の力か。
すごい。
でも―――そうか、きっと落ち込んでいるんだ。
「明日になったら、セレスに会える?」
「だいじょぶ」
「有難う、それじゃ、早く寝よう」
「うん」
セレス、心配しないで。
不安に思うことなんて何もないよ。
「ねえモコ」
「なーに?」
「リュー兄さんはどうしているか見える?」
「んーん、だめ」
「えッ」
「ししょーいる、だからみえない、ししょーすごい!」
そうか、ロゼはリューに会いに行ったんだね。
だったら安心だ。
小さく息を吐いて目を瞑ると、モコが羽を摺り寄せてくる。
ふふ、くすぐったい。
「おやすみ、モコ」
「はる、おやすみ」
温かな暗闇に意識がゆっくり溶けていく。
今夜は眠れないかと思ったけれど、そうでもなさそうだ。
明日になったら、王宮の水場へ。
セレスに案内してもらおう。
―――それと、母さんのところにも。
会えるか分からないけれど、動かないと始まらない。
明日から忙しくなりそうだな。
――――――――――
―――――
―――
呼んでいる。
呼ばれている。
誰?
手だ。
私の髪に触れて、顔に触れて、唇に触れる。
嫌だ、やめて。
逃げ出そうとすると、背中から抱きしめられた。
首筋に息が吹きかかる。
いやッ、離して!
締め付けられて苦しい、誰なの?
誰?
怖いッ。
「何故だ」
耳元で囁かれる。
ゾッと肌が逆立つ。
「何故」
哀しい、苦しいような声。
でも怒ってる。
どうしようもないほど許せないって、誰を? 私を?
「お前は、何故」
すぐ傍で声がする。
耳から頭の中へひびいてくる。
手が体を触っている。
怖い。
私は違うよ、違うのに。
離して。
やめて。
嫌だ、触らないで、離して、やめて、入ってこようとしないで!
「許さない」
手が。
「欲しい」
お腹の下へ、伸びて。
「欲しい」
やっ、やだ!
いやだぁッ! 助けて!
――――――――――
―――――
―――
起きた。
息が切れてる、なんだろう、すごく怖い夢を見た。
だけど、どんな夢だったか思い出せない。
気持ち悪い。
まだ感触が残っているみたいだ、誰かに触られていたような。
「はる?」
モコがパタパタ飛んできた膝の上にとまる。
空色の綺麗な瞳で心配そうにじっと見つめられる。
「だいじょぶ?」
「うん」
酷い寝汗だ。
額を拭って息を吐く。
不意にコンコンと扉を叩く音がして、振り返ると「ハルルーフェ様」って外からティーネの声が聞こえた。
「入りますわよ」
扉を開いて、ティーネが部屋に入ってくる。
「おはよう、ハル」
「おはよう」
「あら嫌だ、酷い顔よ、もしかして眠れなかったの?」
「えっ」
ベッドの傍へ来て覗き込んでくるティーネに「平気だよ」って笑い返す。
だけど余計心配そうな顔をされた。ちゃんと笑えなかったみたいだ。
「相変わらずねえ、誤魔化してもダメよ」
「してないよ」
「いいえ、私にはバレるんだから、無理しないの」
うっ、額を弾かれた。
ティーネは窓の方へ歩いていってカーテンを引く。
外はいい天気だ。
「ハル、怖い夢でも見た?」
「うん」
「そう、だけどほら、今日もよく晴れてる、夢の事は忘れて、支度しましょう」
そうだね。
ベッドから降りる。
モコが私の頭の上に乗って、ティーネに「おはよー!」って挨拶した。
「おはよう、ふふッ、モコは今朝も元気ね」
「うん!」
「そう、よかったわ」
今何時だろう。
それにしても随分早くきてくれたな。
もしかして、私のために早起きしてくれたのかな。
「そうよ」
訊くとティーネはあっさりそう言う。
「私は貴方のお付きですもの、当然だわ」
「大変じゃない?」
「村にいた時と変わらないでしょう、相変わらず世話が焼けるのだから」
「そんなことないよ、支度くらい自分でできる」
「いいえ、今の貴方には平服と外出着の違いだって分からないわ、私の手伝いは必要よ」
そう言われると反論できない。
ティーネは相変わらずだ。
でもそれが嬉しい、ホッとする。
有難うティーネ。
「なあに?」
「なんでもない」
隣の部屋へ洗面台を使いに行く。
今日の予定、ティーネに話しておこう。
セレスはいつごろ来るかな。
水場へ案内してもらって、母さんに会いに行く。リューにも声を掛けるべきだよね。
だけど昨日ロゼが会いに行ったなら、もう知っているかもしれない。
顔を洗って戻ったら早速着替えだ。
ティーネは衣裳部屋にあるたくさんの服の中から「これがいいわね」って一着選んでくれた。
違いがよく分からない。
勿論、色や形、素材や装飾の違いくらいは分かる。だけどどういう場面で着る服かなんて見当もつかないよ。
「少しずつ覚えていけばいいわ、ひと月もあれば感覚程度は掴めるようになるわよ」
「そうかなあ」
「ハルってお洒落は嫌いじゃないけど、元々あまり興味がないものね、まあ貴方は素材に恵まれているから」
「えへへ、褒めてくれて有難う」
「どういたしまして」
だけどティーネもすごく可愛いよね。
朝から目の保養だ。
「ねえティーネ、あのね、今日はやることがあるんだ」
「何かしら」
話をしようとしたら、その前にティーネから「ごめんなさい、先にいいかしら」って言われる。
なんだろう?
「今日から貴方に家庭教師がつくわ」
「えっ」
「王家のしきたり、礼儀作法、帝王学なども学ばなくては、忙しいわよ」
「そんな」
「今日のところは顔合わせと挨拶程度だけれど、私も付き添うから、頑張りましょうね」
「ティーネも一緒?」
「ええ、お付きですもの、ハルのお世話は私の役目よ、だから学びの場もお供するわ」
嬉しいけど、嬉しくない。
しないといけないことがたくさんあるし、昨日見た庭へ行って植物の採取や、オーダーのオイルの調香もしたいのに。
時間、足りるかな。
想像していたよりずっと大変な状況かもしれない。




