紅の真珠 2
レクナウはまたフラフラとサクヤの傍へ戻って、髪を撫でる。
「サクヤ、知っているかい? ハーヴィーはね、血の涙を流すそうだ」
その話は初めて聞く。
「ハーヴィーの涙には生命を活性化させる効果があるそうだよ、その涙を使えば、きっとトキワを元の姿に戻せるんだ」
だから、今度はあのハーヴィーに血の涙を流させる気でいる?
体から血を抜き、肉まで削いで。
この上まだ苦痛を与えることに躊躇いがないなんて、レクナウは心がとっくに魔物だ。
なんておぞましいんだろう。
「だがこいつときたらまるで泣かない、痛めつけても傷つけても目からただの水を垂れ流すばかりだ」
レクナウは水槽の奥にいるハーヴィーを睨みつける。
きっと、あのヒレも髪も本当はもっと色鮮やかだったに違いない。
カイは水に入ると腰から下がツヤツヤ、サラサラした流線型の魚の姿に変わる。
あれはクジラだ、図鑑に描かれていた絵と同じだった。
水槽に閉じ込められているあの子は、腰から下は紅い鱗に覆われて、所々混ざった金の鱗が光の加減でキラキラ光る。
ヒレは大きくふんわりとしてリボンみたいだ。
あのうっすらピンクが混ざった紅色は、確かサンゴ色って呼ばれていたはず。
同じハーヴィーだけど、カイと姿が全然違う。
だけど、あの子はきっとルルだ。
俯く横顔の雰囲気が、どことなくカイに似ている気がする。
「それで、別の手を使おうと思ってね」
不意にレクナウが合図みたいな仕草をした。
水槽の上に誰か現れる。
「死にかけのお仲間の姿を見たら、気が変わって泣くんじゃないか?」
ベルテナの付き人をしていた魔人カルーサ!
何か持っている?
―――うそ、うそ、そんな!
「カイッ」
叫んで手を伸ばす。
その手をセレスに掴まれた。
「格子に触れちゃダメだ、ハルちゃんッ」
「セレス、カイだよ! どうしよう、どうして? カイ、カイッ!」
「落ち着いてくれッ」
まさか、そんな、捕まっていたなんて。
一体いつから?
もしかしてライブのあの時から? でも、だけどっ!
「カイッ」
今すぐ助けに行きたいのに。
何もできない。
命を奪われたらパナーシアでも戻せないんだ!
「カイィッ!」
「へえ、知り合いだったのか」と聞こえて、思わずレクナウを睨む。
「カイをどうするつもり?」
「そいつはハーヴィーだ、お前、もしかして知っていたのか?」
「だったら何?」
「へえ! これは想定外だな、だったらアイツを使っても泣かなかったら、次はお前を使うか」
レクナウがカルーサを見上げる。
カルーサは面倒臭そうにあくびをしてから、カイを抱えたままお辞儀をした。
「どうも、劇場ぶりですなあ、あ、憶えておられます?」
「お前!」
セレスが怒鳴る。
「あの劇場での騒動、あれはお前がやったのか!」
「いやだなぁ、ズベのアバタ、おっと、故・ベルテナ様の仕業じゃありませんか、アンタも相手したでしょ、とどめまで刺して」
「だが手引きしたのはお前だろう」
「ちょいとばかり事情が変わりましてな、ま、故・ベルテナ様は元々使えないお子でいらっしゃいましたし」
「外道の術まで施してッ」
「おやおや、随分とお優しくていらっしゃる、そっちは恨みこそあれ、バカ娘に同情するよしみなんざこれっぽちもありませんでしょーが」
「だからといって見逃せる所業じゃない!」
「ほーん、正義感ですな、結構なことですなあ」
カルーサは鼻をほじって、レクナウに「もういいですかね?」と尋ねる。
レクナウも「やれ」と頷き返す。
「じゃ、そういうことで」
片腕で担いでいたカイを、カルーサは水槽へ放り込んだ。
姿がゆっくりと水底へ沈んでいく。
途中で腰から下がキラキラ光って魚の姿に変わった。
「ほう、なかなか見ごたえがある、次はこいつを飼うのもいいか」
カイはまだ目を覚まさない。
気配に気付いて見上げたハーヴィーが顔色を真っ青に染める。
「さあ泣け! お前の仲間が瀕死だぞ! 血の涙を流せ!」
レクナウの声が響く。
ハーヴィーは広げた両腕で受け止めたカイを抱きしめると、一緒に水槽の底へ降りた。
震えながらカイの胸に顔を埋めて動かなくなる。
「ほらどうした? 泣け! 泣け! お前が血の涙を出さないとそいつは死ぬぞ!」
また水槽の傍へ行って、レクナウはガラスをコンコンと叩きながら笑う。
「泣かなきゃ今度こそお払い箱だ、そいつ共々解体して売り捌いてやる、血の一滴まで無駄にせず金に換えてやるからな! なに、ハーヴィーなんかは海に行けば幾らでも獲れる!」
今、改めて理解した。
過去に酷い目に遭ったハーヴィーたちが、世代を重ねた今も自分たちを恐ろしい存在だと思わせたままでいる、その訳を。
残忍な精神はどれだけのことも犯してしまえるんだ。
後悔も、慈悲も、持ち合わせないまま。
もうやめて。
カイを、ルルを、これ以上苦しめないで。
「おっ? おお! 見ろサクヤ! とうとう泣いたぞ! 血の涙だ!」
レクナウの声に、涙で滲む視界を手で擦って水槽の奥に目を凝らす。
カイを抱きしめたまま動かない姿の周りに赤い粒がたくさん落ちている。
「よし! 早速アレを引き上げて使うぞ、おい、カルーサ!」
そう上へ呼びかけるけれど、カルーサはいつの間にかいない。
「なんだアイツ、まあいい、だったら」
レクナウは私達を閉じ込めている檻に近づいてきた。
「おい、さっき僕に生意気な口を利いたな、そっちの泣いている方、水槽へ潜って涙を拾ってこい」
「は?」
剣呑に訊き返すセレスに「一度で理解しろよ、使えないな」とレクナウは何か投げ込んできた。
小石みたいな礫からいきなりツルが生えて首に巻き付く!
「ハルちゃん!」
くるっ、し!
金属、みたいに、硬いツル、だっ。
喉がっ、いき、がっ!
「おい、何をするッ、やめろ!」
「だったらお前が代わりに潜って取ってこい、ああ、裸で潜れよ! その方が見ごたえがある」
「こッ、のぉッ!」
「早くしろ、ほら、檻は開けてやる」
格子が開く。
息が、苦しくて、目の前がだんだん、ぼや、けて。
パッとピンク色の欠片が散った。
男の人に姿を変えたセレスの手が私の首に巻き付くツルを掴む。
「は? はぁッ!?」
驚いたレクナウの声がする。
「ぬおおおおおおおおッ、うおおおおおおおおおッ!」
セレスが力むのに合わせて息が楽になって、バキバキと何か砕ける音がした。
手をパンパンと払ったセレスは、振り返って今度は格子を掴む。
「お、おい、お前、それはッ」
何か言いかけたレクナウはすぐ言葉を失う。
ロゼから貰ったシュシュが弾けて、セレスはものすごい力で格子を曲げると、外へ出てレクナウを見下ろした。
「咎人よ、最期に聞かせてやる、俺はエルグラート王家第三王子、セレス」
「は、は?」
「此度の貴様の行い、最早目に余る、よってこの場で直々に引導を渡してくれる」
「なっ、何を言って、王子?」
「ああそうだ」
「馬鹿な!」
叫んだレクナウが急に膝をつく。
「え?」
その床についた膝が見る間に赤く染まりだした。
「ぎッ、ぎゃあああああああ! いだいッ! いだいいいぃッ!」
セレスが何かしたんだろうか。
私にも見えなかった。
振り返ったセレスが手を伸ばしてくる。
「掴まって、ハルちゃん」
「うん」
「具合はどうだ? ああ、喉が痣になっている、なんてことをするんだ」
檻から出ると、体が少し楽になった。
「セレスは大丈夫?」
「何ともないよ」
そう答えるセレスの手に「パナーシア」と唱える。
きっと格子を握った時だ、呪いで掌が爛れていた。
「あ、すまない、その、君の手が汚れたな」
「いいよ、謝るなら無茶はしないで」
「分かった」
改めてセレスと、レクナウを見る。
血まみれの両脚を引き摺りながらヒイヒイと逃げ出そうとしている。
「どうしてだ? 何故ここに王子が? いや、だが、バカな、あの第三王子なのか、本当に」
「―――どうやら俺のことを知っていたようだな」
セレスが冷ややかに呟く。
「セレス、カイが、それにあの水槽にいるハーヴィーの子は」
「その前にまずサクヤちゃんを正気に戻そう」
這いずるレクナウの向かう先にはサクヤがいる。
いけない!
「火の、精霊よッ、我が希う声に応じて、来たれッ、汝の力をもって、我が欲する望みを叶えよッ」
きっとあの脚につけられた鎖だ。
あの鎖から嫌な気配がする、呪いを付与した魔法道具に違いない。
「イグニ・エリュ・スティンゲイムッ」
火の精霊イグニの炎が床を走って、サクヤの脚に巻き付いている鎖を焼いて溶かした。
「あ、れ?」
虚ろだった瞳にすうっと光が戻る。
小さく声を漏らして、サクヤは周りを見回す。
「どこ、ここ?」
そして、手に持っている鈴に気付くと、両目を大きく見開いた。
「トキワ姉さん?」
「さくやあああああああっ」
傍まで迫っていたレクナウが手を伸ばす。
気付いたサクヤは悲鳴を上げて飛び退くと、今度は私達を見て「ハル! セレス!」と叫んだ。
「ここはどこ? どうして私ッ、それに、それにッ、姉さんが!」
「サクヤちゃん、こっちへ来るんだ!」
「行かせないいいい、お前は僕のものだ、サクヤあああああッ」
レクナウはまだサクヤの方へ這いずっていく。
「僕の、コレクションだ! ヒヒッ! やっと手に入れた、お前のためにどれだけ骨を折ったと思っているッ!」
「知らない! 頼んでいないよ!」
サクヤがこっちへ駆けて来ようとする。
だけど足元がふらついて、呪いの影響が残っているみたいだ。
「貴方がトキワ姉さんを隠していたの? 酷いよ!」
「お前たちは所詮道具じゃないか、僕のコレクションだ!」
「違う!」
「お前も、トキワも、僕のものだ、僕の、僕のッ、ふふッ、ハハハッ、ハハハハハッ!」
「来ないで!」
「道具ならなぁッ、道具らしく大人しくしろぉッ! 所詮は物だろ!」
「いやッ」
「僕に所有されて光栄に思えよ! なあ、おい! 道具の分際で調子に乗るな! サクヤぁッ!」
鈴を抱えたままサクヤが転んだ。
一緒に床にぶつかった鈴がシャンッと澄んだ音を立てる。
「サクヤちゃん!」
セレスが駆け寄ろうとして―――今、何か聞こえた?
歌だ。
全身がゾワッとして水槽を見る。
水の中で紅い髪が炎のように揺らめいている。
激しくうねる魔力の圧がここまで伝わってきた。
―――渦を巻く水の中から、カイを抱えたルルがぎらつく目で睨んでいる。
ゆるさない。
そう告げる声を、確かに聞いた。




