君のお名前は
「んん」
目を開く。
ふわぁ、あ、ふぅ、おはよう。
もう朝なのかな。
思っていたよりよく眠れたし、体もそんなにギシギシしていない。でもまだ眠い。
腫れぼったい目を擦りながら見た暖炉の前に、羊はちゃんといた。
昨日、いきなり転がり込んできた羊っぽい何か。本当に何なんだろう、喋るし、スープも普通に食べていたし、よく分からないなぁ。
この状況をリューやロゼが知ったら大変なことになりそう。
やっぱり、二人が帰る前にどうにかしないと。
羊はまだ寝ている。
こうして眺めていると、やっぱり魔物って感じはしない。
魔物は、名前が示す通り魔の存在で、大抵は良くないもの。
魔力によって存在を捻じ曲げられ、従来の生態系から逸脱してしまった生物って、本には書いてあった。調査は命がけで困難な場合が多い上に、よく新種が発見されるから、色々と分からないことの方が多いらしい。
性質は概ね凶暴、大抵は本能に従って行動する。種族間のみで通用する意思伝達手段しか持たない個体が殆どだけど、中には知性を有し他種族の言語を操る魔物もいるらしい。
ちなみに獣に近い姿の魔物は魔獣、人に近い姿の魔物は魔人って呼ばれている。
あの仔は羊だから魔獣かな。
でも本に書いてあった魔獣って、鋭い牙や爪を生やして、見境なく他の生き物を襲って、まさしく害獣って印象だった。
あの消えかけた暖炉の前で蹲ってすうすう眠る姿は、なんていうか、平和っていうか、そういうのとは無縁に見える。
「ッくしゅっ」
あ、くしゃみした。
寒いのかな。立ち上がって暖炉に薪をくべてから、耳を澄ませて外の気配を窺う。
風の音はするけれど、雨の音は聞こえない。匂いも澄んだ匂いだ。嵐はもう通り過ぎたんだろうな、暗い部屋に明かりを灯してから、取りあえず昨日のスープの残りを温めに行く。
朝ごはんはパンと目玉焼き、それにリューお手製のハムを厚めに切って焼こう。
酢漬けの野菜と、分けてもらったバター、私が作ったジャムも。
「んぅ、う」
あ、声がした。
あの仔も起きたのかな。暖炉の前でタオルを被った姿がもぞもぞ動いている。
「どこ?」
顔を上げてこっちを見た。
「だれ?」
え、まさか寝たら忘れた?
ボーッとしていた羊が、パチパチっと瞬きをして「はる」と呟いた。
よかった、覚えていた。
羊は少しよろめくようにして立ち上がる。
「おはよう」
「おはよ?」
「起きた時の挨拶、昼ならこんにちは、夜ならこんばんは、今は朝だからおはよう」
「うん、おはよう」
頷いてちゃんと挨拶ができた。
やっぱり賢い、見た目は羊だけど、羊じゃないよね。
「なにしてるの?」
トコトコとこっちに歩いてくる。
なんとなく昨日より元気かも、よく食べてよく寝て体力が戻ったのかな。
「ご飯を作っているんだよ」
「スープ?」
「他にも色々」
「いろいろ、なぁに?」
「パンとか、ハムとか、卵とか」
「おいしの?」
おお、言葉を覚えた。
昨日より会話が成立するようになったな。
「美味しいよ、特にリューが作ったハムは絶品」
「りゅー? はむ? ぜっぴん?」
首を傾げるから、ハムをちょっと切って「ハムはこれ」と口元に持っていく。
羊は躊躇いもせずパクッと食べて、モグモグ噛んでゴクンと飲み込み「おいしー」と目を細くする。
「ぜっぴん!」
「うんうん、絶品でしょ」
「りゅーは、なに?」
「リューは私の兄さんだよ」
「にーさん」
頭のいい仔だし、この先も質問されるたびに答えるんじゃなくて、ある程度の知識を先に与えておいた方が手間が減るかもしれない。
ティーネが来てから相談する時も、話を中断される機会が減るだろうし。
ちょっと待ってねと言って、ササッと食事の用意を整えると、暖炉の前へ移動した。
羊を座らせてから、私も近くに腰を下ろす。
そして一緒に食事をとりつつ、思い付くまま話し始めた。
「あのね、ここは大きな森の中にある村なの」
「もり?」
「木がたくさん生えている場所、森の中には大きな川も、ああ、川っていうのは水がたくさん集まって流れている場所のことだよ」
「むらは?」
「人が集まって暮らしている場所のこと、もっと人の数が増えると呼び方が町に変わるんだけど、ここは村」
この村に名前は無い。
だけど外の人達は、村を『フラウルーブ』って呼んでいる。
「森にも『ドライア』って名前が付けられていて、村の外ではそう呼ばれているんだって」
「ドライアのもりにある、フラウルーブむら?」
「そう、それが君が今いるこの場所のことだよ」
理解が早い上に関連付けまでできるのか。
「森にはね、質のいい薬草や、色々な種類の魔性植物が生えていて、魔力結晶や、たまに魔鉱石なんかも採れるんだ」
「それ、なぁに?」
薬草は、ハーブとは違う系統の薬になる草。
薬効を持つ植物って色々あるけれど、その中でも魔力を帯びて、効果が即効性かつ治癒力の強いものを一般的に薬草って呼んでいる。
比較的どこにでも生えているから珍しい植物ってわけじゃない。でも質のいい薬草が採れる場所は限られている上に、大抵は強い魔物の生息地と重なっている。
加えて栽培が難しく、いまだに人工での成功例はナシ。だから自生しているものを摘む以外の入手手段がない。
そのまま使ってもそれなりに効果があるけれど、成分を抽出したポーションタイプの方がより高く安定した効果を得られるから、一般的にはこっちの方が広く流通している。
ポーションの性能は使用した薬草の質に左右される。そのうえ、ポーションを作るとなるとそれなりの量の薬草が必要になってくる。
だから他と比べて魔物がそれほど強くないドライアの森は、採取地として重宝されているらしい。
魔性植物は、種類によって用途も色々だけど、大抵は安価で入手しやすい魔法道具を作るために使われることが多い。魔力を帯びた紙とか布とかそういう類ね。
そして魔力結晶と、魔鉱石。
まず魔力結晶。これは空気や水、土なんかに含まれている魔力が結晶化したもので、専ら魔法を使うための触媒を作る道具として使われる。
大きい結晶なら研磨して水晶に、小さいものは魔法のアクセサリーなんかにって感じ。
そのままだと七色に輝く結晶なんだけど、属性を付与されると性質が固定されて色が着く。例えば、火属性なら赤、水属性なら青って具合に。
最後に魔鉱石。これは魔力を取り込む性質を持つ鉱石で、魔力水晶より更に希少。
魔法そのものを込めることができるから、魔力を持たない人でも魔法が使える道具を作ることができる。
魔法を使えるかどうかって、先天的な能力に因るところが殆どなんだよね。
私や兄さんたち、それに母さんは魔法を使えるけれど、この村で他に魔法を使える人はいない。
だからそういう面でも、母さんや兄さんたちは村の皆から頼りにされている。
「だけど私、あんまりうまく魔法を使えないんだよね、まともにできるのって『オーダー』くらいなんだ」
「おーだー?」
「これ」
ポケットに入れていた携帯香炉を取り出して見せる。
「オーダー、香魔法、香りを触媒に精霊を呼ぶの」
「せいれい?」
「元素を司る力の化身だよ、土、水、風、火、他にも色々」
オーダーはかなりマイナーな魔法なんだけど、母さんはこのオーダーの研究をずっと続けていた。
どの魔法よりも可能性に満ちた魔法なんだって。
「いいにおい」
羊は香炉に鼻を近付けてスンスン匂いを嗅いでいる。
「はるのにおいがする」
「それは昨日使ったから」
「どうして?」
おっといけない。ニッコリ笑って誤魔化しておこう。
「それよりも、ほらこれ、食べてみてよ」
「なあに?」
「リンゴのジャムだよ、私の手作り」
毎年たくさん作るんだ。
まだあと二瓶あるから、誕生日だし贅沢に使っちゃおう。
「おいし!」
一口食べて、羊は目をキラキラと輝かせる。
甘いものの魅力って共通なんだなあ。あっという間にジャムをたっぷり塗ったパンを一枚、ペロッとお腹に納めてしまった。
「はる! はる! リンゴのジャム、おいし! もっと!」
「はいはい、ちょっと待ってね」
「んん~っ、おいし~!」
もう何枚かパンに塗って食べさせて、これでおしまい、とジャムの瓶に蓋をした。
あっという間に一瓶空になっちゃったよ、本当によく食べるなあ。
スープを二杯、目玉焼きは三つ、厚く切ったハムを五枚、酢漬けの野菜もモリモリ食べる。これって育ちざかりってやつ?
「んふーっ」
やっと満足した様子で、羊は敷物の上にコロンと寝転がった。
目を瞑って、味を反芻するみたいに口をモニャモニャ動かしている。呑気な姿がちょっと可愛いけれど、こうしてのんびり眺めているわけにはいかない。
「ねえ君」
「んー?」
どうしようかなぁ。
外はもう陽が昇っているか分からないけれど、朝になればティーネが様子を見に来るはず。
ありのままを説明して、相談に乗ってもらおう。
リューとロゼが帰ってくる前にこの仔をどうにかしないと。
「はる?」
そうだ、名前。
「名前だよ」
「なまえ?」
「君に名前を付けよう」
名前は一種の魔法だって聞いたことがある。
対象に名付けることで術者の支配下に置けるらしい。
まともにやるなら準備や道具が必要だけど、付けた名前を相手が受け入れるだけでも簡易な術として成立する。勿論、簡易だから効果は多分気休め程度、だけどやらないよりはマシじゃないかな。
「なまえをくれるの?」
「そうだよ、名前がないと呼ぶとき不便でしょ?」
「わかった」
素直に頷く姿に、少しだけ罪悪感が湧く。
まだ素性が知れないし、仕方ないよね、怖いってことはないけれどやっぱり不安だもん。
それに名前がないと呼ぶとき不便なのは事実だ。
さて、なんてつけようかな。
小さくてフワフワ、うーん、フワフワっていうよりモコモコ?
―――そうだ!
「モコ」
口に出して呼んでみる。
うん、悪くない響き。
「もこ?」
「そう、今から君はモコ、いい名前でしょ?」
考えるように黙り込んで、羊は立ち上がると、私の周りをトコトコ歩いて回り始めた。
「もこ、もこ、もーこ、ぼーくのなまえはもーこ」
「ぼく?」
この仔、男の子だったの?
「そうだよ、ぼくだよ、ぼくはモコだよ」
「気に入ってくれた?」
「うん!」
よし、名付けは成功だ。
気に入ってくれて良かった、我ながらモコって可愛くていい名前だと思う。
「はる、ありがと!」
「うん」
お礼の言葉は知っているんだ。
知識に偏りがあるみたい。
「ねぇ、はる」
「何?」
「もっとおはなしきかせて」
「えっ、うん、そうだなぁ」
まあいいか。
ティーネが来るまでの時間つぶしにもう少し話そう。
「分かった」
汚れた食器を片付けて、また暖炉の前に座ってから、モコに話をしてあげることにした。