シャルークへ
馬車の中で、これから向かう先のことをロゼに教えてもらった。
「まず隣の宿場町へ向かい、少し手前の合流地点から街道へ出る、そのまま街道を進んでいけば、大体三日ほどで領主の館がある街シャルークに辿り着く」
「宿場町には寄らないの?」
「馬車がなければそうしただろうが、町で宿を取る必要は無くなったからね、流石リューは賢明だよ」
そっか、馬車だもんね。
野宿に必要な道具は揃っているし、夜はこの荷台で眠ればいいんだ。
「さて、そろそろか」
ふとロゼが顔を上げて呟くと、合わせたように馬車が止まる。
どうしたんだろう?
前から幌を上げて荷台の中を覗き込んだリューが「ロゼ」と呼んだ。
「頼めるか?」
「無論だとも」
「何をするの?」
「まあ見ていなさい」
ロゼはニコッと笑って、荷台の後ろから外へ降りる。
後から荷台の中でモコと一緒に何をするのか窺っていたら、周りを見渡してから、ゆっくり深呼吸をした。
ロゼ?
直後にいきなりロゼの気配が膨れ上がる。
ビリビリと肌に伝わる何かが空気まで震わせて、波紋のように広がっていった。
風もないのに近くの木々がざわめき、一斉に鳥たちが飛び立つ。
思わず荷台の縁をぎゅっと握り締めた私の隣で、モコがこてんと倒れた。
「うわぁッ」
モコを心配する暇もなく、馬車までがたんと大きく揺れる。
ど、どうしたんだろう。
「大丈夫か?」
声を掛けながら馬車の前へ向かうロゼを見て、気になったけど、それよりモコが心配だ。
「モコ、どうしたの、平気?」
「びりびりした」
「そうだね、ビックリした、何が起きたのかな」
「ろぜ、すごい」
「う、うん」
倒れたモコは目を輝かせながらボーッとしている。
大丈夫かな、これってさっきの衝撃のせいかな。
「ああ、やはりこうなったか」
「少し休めば平気だろう」
「まったく不甲斐ない、形ばかり大きいだけか」
「そう言うなよ、契約済みの騎獣だからこの程度で済んだ、今頃あの店主青くなってるだろうな」
「可愛いクマの店主だったか」
「まあな」
前の方からリューとロゼの話し声が聞こえてくる。
モコをこのままにしておいていいか迷うけど、まだぼんやりしてるし、怪我もしていないようだし、よし、あっちの様子も見に行こう。
荷台の前へ向かい、幌を捲って覗き込むと、話していたリューとロゼが振り返る。
「ハル、大丈夫か?」
「驚かせてしまったかな、ハル」
「クロとミドリ、どうしたの?」
クロとミドリが膝を折って地面に座り込んでいた。だからいきなり馬車が揺れたんだ。
どっちも体を小刻みに震わせて、なんだか怖がっているみたい。
「これは怯えているのさ、僕の圧に中てられてね」
「圧?」
「さっきロゼに威圧を頼んだ、あれをやると暫く魔物が出て来なくなるんだ」
「そうなの?」
ロゼ、そんなことができるの?
「効果の範囲はまちまちだが、大体二、三十キロ圏内といったところかな、契約済みの騎獣であればこの程度で済むが、大抵の魔物、獣も、僕に恐れを成して姿を見せなくなる」
「本当に?」
「君には嘘など吐かない、人や獣人も精神的に脆ければ影響を受けてしまうだろうね、まあ、一晩眠れば立ち直るさ」
あまりのことにポカンとする。
私の様子に気付いたロゼは、苦笑して「でも、これは滅多にやらないことだよ」と補足した。
「どうして?」
「頻繁にやるとストレス過多で魔物が凶暴化しかねない、何より、野生動物も姿を見せなくなるから食料の確保に苦労する羽目になる」
「ついでに言うと、さっきこいつも話していたが、人や獣人も気が弱いと寝込む羽目になるんだ」
リューが何となくバツの悪そうな顔をしているのは、今頃シェフルで起こっているだろう騒動を予想しているのかな。
だけどこれって凄いよ、もしかしてロゼは私が知っているよりずっと強いのかもしれない。
「つまらない用件は手早く済ませてしまうに限る、道中邪魔が入るのも不愉快だ、手形を受け取った後は、僕はなるべく威圧を使わない、急ぐ旅でもないからね」
「それは、もし魔物や盗賊が現れたら戦うってこと?」
「そうとも、経験は何よりの研鑽となる、君には常に健やかであって欲しいけれど、同時に強く美しくもあって欲しい、なかなかに悩ましいが、お兄ちゃんとしては可愛い妹が成長する機会を奪うわけにはいかないからね」
「あのな、ハル、時と場合に因るぞ、ロゼの話をあまり鵜呑みにするな、いつもと同じで大げさなだけだから」
「事実じゃないか、ハルに足りないのは実戦経験だ、僕らの妹はこれから更に美しく育っていくだろう、僕はその姿を傍で見ていたい」
「好きにしろ、うるさいからお前はもう荷台に戻ってろ、ハル、クロとミドリの体を擦ってやるから手伝ってくれ」
ロゼを押し退けながら呼ぶリューに、はーいと返事をして荷台から降りる。
兄さん達は相変わらずだな。
クロとミドリはまだ震えているけれど、さっきより少し落ち着いてきたみたい。
「掌で肌を強めに擦ってやってくれ、でも危険を感じたらすぐ傍を離れるんだ、いいな?」
「うん」
「ハル」
「何?」
「今ロゼがしたこと、驚いただろう?」
振り返るとリューがこっそり笑い返してくる。
ロゼはさっき拗ねながら荷台に戻っていった。そういえばまだモコは倒れたままなのかな。
「驚いた」
「だろうな、俺も最初に見た時驚いたよ」
「兄さん、ロゼ兄さんって、もしかしてものすごく強かったりする?」
ハハッと笑ったリューは「どうだろうな」と言うだけで答えてくれなかった。
今更ロゼに分からないことがあるなんて。
ロゼは父さんの遠縁らしいけど、何かあるのかな。
暫く体を擦ってあげたら、クロとミドリは立ち上がって動けるようになった。
私は荷台に乗り込み、リューが手綱を取って、また馬車は動き出す。
「はぁ」
荷台の外を眺めながら、迷惑そうな顔をしたロゼが溜息を吐く。
「視線が鬱陶しい」
中へ戻ったら、モコは起きて、隅の方で蹲りながらじっとロゼを見つめていた。
私が座ると傍に来たけれど、それでもまだロゼを見ている。
昨日森でロゼの歌を聞いた時と同じ雰囲気、目もキラキラだ。
「ろぜ、すごい」
「あのな、お前の賛辞など不要だと何度言えば理解するんだ、僕は見世物じゃない、その目障りな面を他所へ向けろ」
「うたうまい、つよい、すごい」
「いかにもラタミルらしい反応だな、まだ僕を見るならその目を潰すぞ」
「すごい」
ロゼ、本当に嫌そうだな。
なのにお構いなしのモコは本当にどうしちゃったんだろう。あんなにロゼのことを怖がっていたのに。
取りあえずロゼが本当にモコの目を潰さないように、モコを抱えて体の向きを変えさせる。
ラタミルらしいって言っていたけど、歌が上手かったり強かったりするとラタミルは喜ぶのかな。
「ねえモコ、ロゼのこともう平気なの?」
「ろぜこわいよ」
「えっ」
「でもすごい、ろぜ、こわいけどすごい」
うーん、よく分からない。
モコの頭をよしよしと撫でて、あまり人をじろじろ見ると失礼だよって教えてから、肩から下ろして置いていた私のバッグを引っ張り寄せた。
馬車はあまり揺れないし、魔物も出ないらしいから、シャルークに着くまでの間に調合しよう。
「はる、なにするの?」
「オーダーのオイルを調合するんだよ」
「ちょうごう?」
早速始めるぞ。
まずはこの携帯型の調合台。組み立て式だから持ち運ぶときは場所を取らない。
この調合台は優れもので、設置場所が多少歪んでいたり斜めだったり、こうして揺れていたって、乗せた道具を水平に保ってくれる。
使うのは素材となる植物から芳香成分を取り出す抽出器、その抽出した芳香成分を保管するビンと、計量器、調合用の器具、調合したオイルを容れるビン。
オーダーで使うオイルは植物由来の芳香成分のみを用いて作成する。
動物由来の香料を油に溶かし込んで使うこともあるけど、専ら対人、対魔物用で、精霊はそういった匂いを好まない。
いくら良い匂いでも精霊を呼べないとオーダーとしては意味がないからね。
芳香成分を抽出する方法としては、蒸留や油に浸けて成分を浸出させるのが一般的だ。
でもこのやり方は素材となる植物が沢山必要だし、手間も時間もかかる。
そこでロゼが作ってくれたこの抽出器がとても役に立つ。
魔力を込めると容器内で植物から芳香成分のみを抽出して、管で繋いだビンの中へ溜めていく。
蒸留のように熱を加えないから香りの中の繊細な成分を壊すこともなく、そして芳香成分以外の成分を含まず、純度の高い良質な芳香成分を短時間で抽出できるんだ。
この凄さはオーダーのオイルを扱っていないと理解できないみたい。
前にティーネに説明したらキョトンとしていたし。
だけど母さんとリューは絶賛している。売り出したら一財産築けるかも、なんて冗談で言ってたっけ。
実際、それは多分、冗談で済まないと思う。
専門店でも似た道具を扱っているらしいけど、蒸留や浸出の過程を単純化しただけのもので、取れる芳香成分も微々たるものだと聞いた。ロゼが作ってくれたこの抽出器とじゃきっと比べ物にならない。
でもこの道具はロゼが私のために作ってくれた特別なものだ。お金に変えられない価値がある。
丈夫で長持ち、多少の衝撃程度じゃびくともしない、だから森であんな目に遭ってもまだこうして使える、改めてロゼに感謝だ。
これからも大切に使おう。他の道具も全部、大切なロゼからの贈り物だもんね。
「よし」
数種類の草花からそれぞれ芳香成分を抽出完了した。
次はこれらを組み合わせてオーダーのオイルを調合する。
いよいよ腕の見せ所―――母さん曰く、オーダーのオイルを調合する時、最も重視すべき感性は『愛』らしい。
この香りで精霊を招いて、願いを聞いてもらうのだから、愛を持って調合しなさい。
確かに理由としては理解できる。
でも、愛って言われても正直ピンと来ないんだよね。
何なのかな愛って、誰かを好きになること、大切に想うことと、どこか違うのかな。
―――って、つい考え込んじゃった。
今回は火の精霊、イグニを呼ぶためのオイル。
シェフルのお風呂で嗅いだ匂いを思い出しながら、イグニが喜んでくれそうな香りを調合していく。
情熱と温もりを覚えるような香り。
よし、これだ、できた。
仕上がったオイルを容れたビンを目の高さに掲げて眺めていたら、ずっと隣で見ていたモコが首を伸ばしながら鼻をスンスン動かす。
「いいにおい、あったかいにおいだね」
「分かるの?」
「うん」
そうか、ちょっと嬉しい。
お返しにモコの頭を撫でてあげた。
これを使ってイグニを呼ぶことができたら、調香は本当の意味で成功だ。




