泡沫の夢
体をフワリと抱き上げられた。
見上げると、ロゼが「僕が運ぼう」ってニコッと笑う。
「それならセレスも連れていってくれ」
「むッ」
「え!」
途端にロゼは眉間にしわを寄せて、セレスは目を真ん丸にして固まる。
リューは全然気にしてない。
「俺はモコに運んでもらう」って言って、モコに「いいか?」って訊いた。
「いーよ、でも、りゅーはこんだら、ぼくもはるのとこいっていい?」
「ああ」
「わかった!」
「よろしくな」ってモコの頭を撫でて、またロゼを見上げて「頼んだぞ」と声をかける。
ロゼは、渋い顔でセレスを見て、セレスもロゼを見上げて、急に鼻血を噴き出した。
わっ、わあ、どうしたの、大丈夫?
「おいセレスどうした! 大丈夫か?」
「りゅ、リュゲルさん、すみませんが大丈夫じゃありません、あはは」
「君もつくづく大概だな、流石にそろそろ慣れてくれ、ほら、これで血を拭いて」
フラフラしているセレスをリューが介抱する。
それを見ていたメルがクスクス笑って「それじゃ、私はリュゲルと一緒に行こうかしら」ってリューに視線を向ける。
「カイトスは明日まで戻らないだろうし、個人的に貴方に興味があるわ、仲良くしましょう?」
「あ、ああ、構わない」
「おい、僕の最愛の弟に色目を使うな」
睨むロゼに「無論でございます、当然弁えております」とメルさんは恭しく頭を下げる。
メルさんは昔のロゼを知っている。
だからああいう態度をとるんだ。
今度話を聞かせて欲しい―――サマダスノームを離れる時に現れたラタミルたちもそうだったけど、ロゼって本当に凄いラタミルだったんだろう。
でもそうだよね。
あの時は噴火を収めたし、今回はディシメアーの街を津波から守った、カルーパ様にあの凄い雷を落としたのもきっとロゼだ。
「う、すみません師匠、ハルちゃん、お待たせしました」
やっと鼻血が止まったセレスを見て、ロゼはため息を吐いて「掴まれ」と私を抱えていない方の腕を広げた。
「は、はひっ! でででですがどどどどどどこにッ、どこに掴まればよッ、よろしいのでしょうか!」
「どこでも好きにしろ」
「はわっ、はわわっ、でッではえーっと、ええとッ」
決められないセレスを見かねたんだろう、リューが後ろからひょいっと持ち上げてロゼに渡す。
ロゼは片腕で受け取って翼を羽ばたかせる。
「わあーッ!」
「セレス、兄さんにつかまって!」
「いいのかハルちゃんッ、いいのか? 許されるのかッ?」
「大丈夫だよ、落ちるよッ」
話している間に、あっという間に岩場が遠ざかる!
慌ててロゼにつかまりながら、セレスは目をギュッと瞑って「わああああああッ」と叫ぶ。
「うるさい、口を噤め」
「は、はいっ、すみません師匠ッ」
「ここから海へ落としてやろうか」
「やめて兄さん」
「静かにします師匠、うッ、でも、ふぁあぁあ、いい匂いがするぅ」
「やはり落とそう」
「兄さん!」
兄さんもセレスも仕方ないな。
―――少し肌寒いけど、風が気持ちいい。
だけどディシメアーの街は本当に酷いことになっている。
またたくさん燃えてしまったんだ、人も、財産も、思い出も。
見下ろす景色にオルト様の大神殿へ殺到する人たちがいた。
神殿に保護を求めているのかな。
「ねえ兄さん」
「なんだいハル」
「あの人たち、神殿に保護してもらうために集まったのかな」
「それもあるだろうが、それだけではなさそうだ」
「他に理由があるの?」
「女神の奇跡を目の当たりにした者たちが、寄る辺を求めて集まっているようだね、こんなことになってしまっては、立て直すための精神の支えが必要なのだろう」
「そうか、オルト様に祈りを捧げるんだね」
「ふふ、そうとも、あれは全てオルトの力になる、まったく―――いい気味だ」
「兄さん?」
最後の一言、何だったんだろう。
だけど尋ねる前に神殿脇の建物に着いて、窓から部屋に入った。
「ハル、僕はリュゲルの元へ行く、何か僕にして欲しいことはあるかい?」
「平気だよ、体を綺麗にしたら、ちょっと寝ようと思ってる」
「うん、それがいい、ではおやすみハル、よく頑張ったね」
大きな手で頭を撫でられる。
ちょっとくすぐったいな。
ロゼは笑って、白くて大きな翼を翻し、朝の空を飛んでいく。
本当に綺麗だ。
羽の先だけ赤く染まった特別な翼、陽の光に輝きながらなびく金の髪も、全部が眩しい。
セレスと一緒に、窓辺から姿が見えなくなるまでずっと見詰めていた。
「はぁあぁぁ」
急にセレスがくたっと座り込んだ。
「どうしたの?」
「は、ハルちゃん、流石に今は、ショックで頭がまともに働かない」
「ごめんねセレス、ずっと黙っていて」
「いや、いいよ、どのみち驚いただろうし、師匠ならあり得ると思っていたからね」
そうなんだ。
赤ちゃんの頃から傍にいてくれたから、私はすっかり見慣れているけど、ロゼみたいな人って他にいないよね。
神の眷属かもなんて思われることも、あり得ない話じゃない。
流石にラタミルだって分かった時は私も驚いたけど。
でも、兄さんは兄さんだし、何も変わらないよ。
窓から吹いてきた風に鼻がムズムズして、クシュッとくしゃみがでる。
顔を上げたセレスが立って「ハルちゃん、大丈夫か?」って気遣ってくれる。
「取り敢えず体を綺麗にしてから、ベッドで休もう」
「うん」
「湯を貰ってくるよ」
「あ、それなら私も一緒に」
セレスについていこうとして、思いがけず足元がふらついた。
「おっと」
私を抱えたセレスは、そのままベッドに座らせてくれる。
「いいよ、君はここで待っていてくれ」
「でも」
「私はまだ元気だし、体力に自信もある、それに君の方が大変だったんだ、だから休んでいてくれ」
「うん、有難うセレス」
「それじゃすぐ戻るよ、寒いなら窓を閉めておこうか?」
「平気」
「分かった」
セレスが部屋から出ていくのを見送って、ベッドにぱたりと倒れる。
なんとなく体が熱い、眠いのかな。
―――たったひと晩で色々なことがあった、同じような経験をもう何度もしたけど、やっぱり全然慣れない。
また人も獣人もたくさん死んでしまった。
きっとハーヴィーや、オルト様の僕も命を落としているだろう。
ディシメアーの街は焼けてメチャクチャになった。
ベルテナはきっとまた現れる、どうすればこんな酷いことをやめてくれるのかな。
海と私たちを守るため、カルーパ様は犠牲になった。
あの『粉』、取り憑くための『器』を創ろうとしている魔人、内乱の可能性、商業連合の企み。
頭がグルグルする。
胸元を探って、母さんから貰ったネックレスを朝の陽にかざした。
七色の光が煌めいて私を照らす。
ねえ母さん。
なんだか大変なことになってるよ。
私は母さんに会いに行こうとしているだけなのに、どうしてだろう。
もう暫く手紙を送っていない。
元気にしているか知りたい、会いたいよ、母さん。
―――ごろんと寝返りを打つ。
商業連合ってどんな国だろう。
砂漠はどんなところなんだろう。
エノア様の花はあと三つ、全部集めたら何が起こるの?
『満ちし子』ってどういう意味?
どうして私なの、誰が、何を私に求めているの?
怖いよ、母さん。
「―――待たせたなハルちゃん」
扉を軽く叩いて、セレスが戻ってきた。
ぼんやりしながら起き上がって服を脱ぐ。
「ど、どうぞ」
湯に浸して絞った布を手渡された。
あったかくて気持ちいい、今更だけど体じゅうベタベタだ。
口の中も気持ち悪い、そういえば吐いたんだっけ、あの酷い光景ももう無いんだ。
「み、見てないぞ、大丈夫、私は見ていない」
「ん」
「はっ、ハルちゃん、その、髪を洗ってあげるよ、ほらこっち、立てるか?」
「うん」
「海水に濡れたままにしておくと痛むからな、それにしても眠そうだなハルちゃん」
「うん」
「疲れたもんな、大丈夫だよ、後は私に任せて」
気持ちいい。
セレスが全部してくれる。
洗った髪がまだ湿っているけど、もう瞼が開かない、眠い。
ベッドに倒れると、優しい手がゆっくり私を撫でた。
「おやすみ、ハルちゃん」
「うん、おや、すみ、セレス」
「ああ、いい夢を」
波の音だ。
まるで包まれているみたい、穏やかで、心地いい。
カルーパ様、約束はちゃんと果たしました。
どうか安らかに。
有難う―――本当に、ありがとう、カルー、パ。
――――――――――
―――――
―――
青くて静かな場所にいる。
ありがとう、と声がした。
「カルーパ様?」
そうだよ、ハルルーフェ。
大きな甲羅岩。
前にも夢で見たあの眼差しが私を見詰めている。
「約束、ちゃんと果たせました」
ああ、感謝する。
「でもカルーパ様は」
分かっていたことだ。
―――私はずっと、この役目のため、あの場所で待っていた。
君を待っていた、ハルルーフェ。
「はい」
君でようやく『満ちた』
あの方が語られたとおり。
私も安心して逝ける。
「あの、『満ちた』ってどういう意味ですか、私のことを『満ちし子』って、一体何が満ちたんですか?」
エノアでは足りなかった。
しかし君で『満ちた』
永き時を経て約束は果たされ、君という種子を育んだ。
後は、君が咲かせるだけ。
「教えてくださいカルーパ様、私はどうすればいいんですか、何をすれば、何も、分からない」
西へ。
行きなさい、ハルルーフェ。
「カルーパ様」
白銀の翼が待っている。
君をずっと待っている。
歩みを止めてはならない。
辛くとも、苦しくとも、前へ、明日へ、進むことを恐れるな、諦めないように。
「白銀の翼?」
これから君には海神の加護もある。
私も見守っているよ、またいつか、どこかで会おう、ハルルーフェ。
君たちが紡ぐ、ずっとずっと先の、遠い日に。
視界を急に泡が埋め尽くす。
何も見えない、気配が遠のく、カルーパ様が行ってしまう。
今度こそ本当にお別れなんだ。
さようなら、カルーパ様。
守ってくれて、ありがとう。
――――――――――
―――――
―――
「はる」
目の前にモコがいる。
綺麗な空色の瞳だ。
「モコ」
「おはよう、だいじょぶ?」
「うん、平気だよ」
起き上がって、「セレスは?」と訊きながら周りを見回した。
「まだねてるよ」
隣のベッドでグッスリだ。
寝る前にたくさん世話を焼いてもらったような気がする。
髪も体も綺麗になっているし、寝間着も洗濯したものを着せられている。下着まで替えてもらったのか、うう、流石に恥ずかしいというか気まずい。
あとでしっかりお礼をしないといけないな。
セレスもこんなに疲れていたのに、本当に、いつも優しいよね。
ありがとう、セレス。
窓の外はいい天気、今は昼を少し過ぎたくらいかな。




