旅の前に
「お風呂、よかった!」
部屋の戸を開けると同時に報告したら、振り返ったロゼとリューがニッコリ笑う。
ホカホカと湯気を立てるお湯を張ったタライの傍で、リューに拭かれている最中のモコがくしゃみをした。
「そうか、満足できたかい?」
「うん」
「それは何より」
「よかったな」
立ち上がったロゼが傍に来て、私を腕の中にフワッと包み込む。
「うん、よく温まってきたね、それにいい香りだ」
「お風呂、精霊の力を借りて沸かしているんだね」
「ああ」
浴室にはオーダー用の香炉が掛けてあった。
精霊の力で満たされた良い匂いの空間で、お湯も温かくて気持ち良かったし、すっごく寛げたよ。
本当に最高だったな。
オーダーってあんな風に使われることもあるんだ、ちょっとビックリ。
「ねえ、家にも浴槽を用意したら、オーダーで毎日お湯に浸かれる?」
「不可能ではないな」
でもあまり現実的じゃないと、私を促すロゼと一緒にテーブルへ向かう。
「どうして?」
「君も知っているだろう、オーダー用のオイルはそれなりに値が張る」
「うん」
「加えて効果を限定するなら尚更だ、オーダーは特殊な調合を行った香気で呼び寄せた精霊の力を借りる魔法、しかし特定の精霊を選んで呼ぶことは基本的にできない」
ロゼの言う通りだ。
オーダーは魔力が無くても使える代わりに、専用の道具を用意する手間や費用がかかるし、狙った効果が得られない可能性だってある。
だから一般的じゃないって側面もあるんだよね。
魔法が使えるなら、魔力で発動させるマテリアルや、精霊の力を借りるエレメントの方が、よっぽど便利だし確実だから。
「ここの風呂は有料で、宿代とは別料金なんだ、それだけ手間のかかることを家で気軽にとはいかないだろう」
「そうなんだ」
「しかし、君はオーダーのオイルを調合する技術とセンスを持っている」
椅子に掛けてニコッと笑いかけてくるロゼに、思いがけず「えっ」と返す。
「興味があるなら調合してみるといい、ここの風呂で使われているオイルの調合内容は訊いても恐らく明かさないだろうが」
鼻の頭をチョンとつつかれた。
「君には、この優秀な鼻がある」
「あ」
「それに僕もリューもあの香りを覚えているぞ、なあリュー?」
「ああ」
モコを乾かしたリューが、お湯の入ったタライを持って立ち上がった。
その足元で体をプルプルと振ってから、モコはこっちへ駆け寄ってくる。
「はる!」
「ハル、調合するなら手伝えるぞ」
「本当?」
「火の精霊、イグニを呼び出すオイルだ、風呂を焚く以外にも使えるだろう、作ってみるのもいいんじゃないか?」
「うん!」
そうだね。
前のオイルは失くして、新しく調合しようと思っていたから、丁度いいかも。
「あ」
タライを返してくるとリューが部屋から出ていった後で、大事なことを思い出した。
「どうかしたかい?」
「ロゼ兄さん、あのね、私、オイルと、その、香炉も全部失くしちゃったんだ」
他の道具もバッグの中でどうなっているやら。
オイルの瓶は穴の中で落して、香炉は、一つはグランドクロウラーをおびき寄せるために放り投げて、もう一つは水に呑まれた時どこかへ行ってしまった。
それに今更だけど、ティーネがくれたベストもきっと酷いことになっている。
憂鬱が一気に圧し掛かってきて、項垂れて溜息を吐いたら「なんだそんなことか」と思いがけず返ってきた。
「君が眠っている間にバッグの中身を整理しておいた、道具はあらかた補修を済ませたし、皮袋の中のベストも手洗いして僕が作った袋に入れ直しておいたぞ」
「えっ? えッ!」
「あれはティーネの毛だろう、君にとって宝物だ、今度の袋は丈夫で水濡れにも強いから安心するといい」
ロゼ、そこまでしてくれたんだ。
驚いて、嬉しくて、テーブルに身を乗り出した私の頭をロゼは笑いながら撫でる。
「有難う!」
「なんの、可愛い君のためさ、他の荷物も手入れしておいたよ」
「あっ、うん」
他、は、ええと、それについてはあまり深く考えないでおこう。
着替えとかそういう話だよね?
家で家事は当番制だったから、今更恥ずかしいってこともないけれど。
「香炉は流石にすぐとはいかない、明日まで待ってくれ」
「うん、ごめんなさい、あの香炉もロゼが作ってくれたのに」
「気遣いは無用さ、今度はもっと勝手のいい、可愛らしい香炉を用意しよう」
「嬉しい、有難う!」
「オイルは自分で調合するのだろうが、ひとまず僕の手持ちを分けておこう、ヴェンティ好みに調整したものだ、役立ててくれ」
「はーい」
ヴェンティ、風の精霊。
元素を司る力の化身である精霊に個別の意志はないけれど、それぞれ呼ぶための名前を持っていて、他に水のアクエ、土のソロウ辺りがよく知られている。
エレメントで精霊の力を借りるときは、呼ぶ精霊の名前を知っていることが発動の必須条件だけど、オーダーにその制限はないんだよね。
でも、さっきロゼが言ったように、ヴェンティ好みの調合はできても、必ずヴェンティを呼べるわけじゃない。
そこがオーダーの可能性であり、調合の腕の見せ所だって、これは母さんの受け売りだ。
「お風呂のオーダーはどうなのかな?」
「イグニが来なければ薪をくべて焚くしかないだろう、もしくは風呂の使用を断るか、この辺りは手間に対しての収支によりけりだろうな」
「水はどうしているのかな?」
「前に大掛かりな治水工事を行った際、川からこちらへ水を引いたそうだ、故に浴槽付きの風呂はシェフルならではというわけだな」
「へえ」
「しかし同時にこの町はドライアの森に近く、宿を借りるには些か不安がある、だから大抵の観光客は森の散策と風呂を楽しんで、陽が暮れる前には宿のある街へ帰っていく、ここで宿を宿として利用しているのは商人と冒険者くらいなものだ」
ロゼと話しているうちに、リューが部屋に戻ってきた。
「ねえはる」
「うん?」
「ぼく、おなかすいた」
モコに言われて私も急にお腹が減った。
そういえば、昨日の夜から何も食べてないや。
窓の外はすっかり暗い。
気付くと同時に鳴きだすお腹を擦っていたら、リューに「ハル」と声をかけられる。
「何?」
「宿の厨房を借りて夕食を作ってくる、すぐ戻るから、それまでモコとこれでも食べろ」
ポンッと投げられた袋の中には木の実が入っていた。
「多少は腹の足しになるだろう」
「わあ、有難う!」
嬉しい。
モコもぴょんと飛び跳ねて喜んでいる。
でも、リューは私がお風呂に入っている間にモコを洗ってくれたし、任せてばかりはよくないよね。
「兄さん、私も用意を手伝うよ」
「気なんか遣うな、借りた場所で作るから簡単な物しかできないし、すぐだから待っていろ」
「ううん、手伝う、木の実はモコにあげる」
「はるはいらないの?」
どうしたんだろう。
モコは急にしゅんとして、その場にぺたんと座り込んでしまった。
「じゃあ、ぼくもたべない」
「えっ」
「気にするな、元よりラタミルに食事の必要はない」
素気なくロゼが言う。
知っているけど、モコのお腹も鳴ってるよ?
うーん、でも、やっぱりリューを手伝おう。
昨日は私と同じくらい大変だったはずだし、この先一緒に旅をするなら、世話を焼かれるばかりは嫌だ。
「それじゃモコ、ロゼと一緒に待っていて」
「うん」
「なるべく急いで作って持ってくるからね!」
「わかった」
「やれやれ、仕方ない、それじゃハル、行くぞ」
「はーい!」
今度はロゼを怖いって言わなかったな。モコ、お腹が減ってそれどころじゃないのかも。
ロゼは相変わらずモコを気にする素振りさえない。
まあ、さっきみたいに言い合うよりマシか。
それから―――宿の厨房を借りて、リューと一緒に作った料理を部屋へ運んで四人で食べた。
料理中に私だけこっそり先に少し食べさせてもらったことは内緒。
お腹ペコペコだったから、その後の夕食もペロリと全部食べちゃった。
「お茶入ったよ」
使った食器の片付けも済んで、宿で借りたポットとカップで食後のお茶を淹れた。
なんだか少し不思議。
兄さん達と、モコまでいるのに、ここは家じゃないなんて。
ティーネはどうしているかな。明日になったら母さんとティーネに手紙を出そう。
「有難う」
「ああ、良い香りだ、有難う、ハル」
「ぼくものむ」
「こぼさないように気を付けてね」
「わかった!」
モコには大きめのお皿に注いで、椅子の上に置いてあげた。なんだかスープみたい、上手に啜って飲んでいる。
私達の真似したがるなんて、やっぱりまだ雛なんだな。
「それじゃハル、ロゼも、明日からのことを少し話しておこう」
リューが切り出した。
私も椅子に掛けてカップを持ちながら、ロゼと一緒に耳を傾ける。
「母さんからの手紙で、俺達はハルの十六歳の誕生日に合わせて王都へ向かう予定だ」
「うん」
「そうだな」
「ついでにラタミルの大神殿へ立ち寄って、モコを保護してもらおうと思う」
ラタミルが降臨するという、その大神殿で保護してもらえば、モコはいつか元いた場所へ連れ帰ってもらえるかもしれない。
何より私達と一緒にいるよりずっと安全だろう。
お別れするって思うと今から少し寂しいけど、モコのためだ、必ず連れていってあげたい。
「つまり、それまでこのお荷物を連れ歩かなければならないということか」
「言い方が悪いぞロゼ」
「ふん、僕としては面倒なことこの上ないが、君達が望むなら甘んじて受け入れよう」
ロゼ、どうしてそんなにラタミルを嫌がるんだろう。
やっぱり今度機会があったら訊いてみよう。気になるし、できればモコと仲良くして欲しいよ。
「ハル、明日は一日準備にあてて、明後日に領主様の屋敷がある街へ向かう」
「えっ」
どうして?
領主様に何か用があるのかな。
頭の上に疑問符を浮かべていたら、リューは続けて説明してくれる。
「戸籍が置いてある領以外の場所へ行くには手続きが必要だ、これを怠ると他領へ入れない、それどころか道中何かあっても全て自己責任で片づけられてしまう」
「そうなんだ」
「目的地が定まっている旅なら旅券発行の手続きをする、これは行程を定めて申請するもので、道中の補償や保護が手厚い分、申請外の行動をとった際はそれら全ての適応外とされる」
「勝手に寄り道して、何かあっても知りません、という話だな」
ロゼの補足が加わって分かり易くなった。
でもそれじゃ、色々な場所を見に行って最終的に王都へ向かうっていう、この旅の目的と少しずれる気がするけれど。
「もう一つ、こっちは特に目的を定めず、自由に国内を移動する際の申請だ、専ら商人や冒険者が行う」
「それは何?」
「通行手形を発行してもらう、ただし、発行には条件があって、定められた一定の戦力を持っていることが必須だ」
「申請所で審査試験を受け戦力を提示する、もしくは討伐課題をこなす、どちらかを行う必要があるな」
そうなんだ。
それなら私達は通行手形を発行してもらうんだね。
審査試験とか、討伐課題とか、ちょっとドキドキする。どんなことをするんだろう。
「だが、今回は領主様から直接手形を発行してもらうことになっている」
「どうして?」
「俺とロゼはもう手形を持っているんだ」
知らなかった。
驚く私にリューは話を続ける。
「お前の分は俺達が一緒だから本来必要ないんだが、持っていた方がいいだろうと領主様が取り計らってくださってな」
「領主は母さんの古い知り合いなのさ」
「そうなの?」
「領主様の亡くなられた奥様が、母さんと友人だったんだ」
は、初耳。
話が唐突過ぎて反応に困るよ。どうして教えてくれなかったんだろう。
「俺達がお前を連れて王都へ向かうと伝えたら、久しぶりに大きくなった姿を見たいと手紙が届いた」
「領主様、私のこともご存じなの?」
「ああ」
呆然とする私を見上げてモコが首を傾げている。
「村での暮らしぶりを聞きたいそうだ、餞別代わりにお前の手形を発行して下さるとしたためてあった」
「手紙って、いつ届いたの?」
「君達がここへ着く少し前だな」
ロゼがテーブルの上に指の長さ程度の筒を置いた。
確か伝令用の筒で、表面の刻印は領主様の紋章だろう。本物を見るのは初めてだ。
「中の手紙を読んでもいいぞ、君に会うことをとても楽しみにしているそうだ」
「う、いい、やめておく」
「ハハッ、会う前から緊張してどうする」
「怖がらなくてもいい、気さくな方だから」
「兄さん達は領主様にお会いしたことがあるの?」
「ああ」
「あるぞ」
私は―――開いた口がすっかり塞がらなくなって、ポカンと二人を見ることしかできなかった。




