暁の海
「オルト様!」
慌てて呼んだけど、オルト様は微笑んでゆっくり目を閉じる。
「オルト様ぁッ!」
私じゃない大声がオルト様を呼ぶ。
驚いて見下ろすと、カイがいた。
波の間から体を乗り出すようにしながら、叫ぶようにオルト様へ訴える。
「どうか! どうか教えてください! アイツはッ、ルルが今どこにいるのか、どうか!」
瞼が上がり、奥から覗く海色の瞳が真っ直ぐカイを見詰めた。
『愛しい私の欠片―――あの子は、今は西にいる』
「西」
『歯車と金属でできた街、とても狭い水の中、その身は毒に犯され、儚い泡のよう』
「そんな」
サッとカイが青ざめる。
「まさかっ、ルルは、し、死にかけてるんじゃ」
『いいや、だが、いびつな形で永らえさせられている』
「いびつ?」
『欠片よ、私の愛よ、もし求めるというのなら、お前に導をあげよう』
海の中から現れたオルト様の指先が、何かを落とす。
カイは慌てて受け取ったそれをじっと見つめる。
『愛しい私の欠片たち、どうか、失われることなくこの腕へ戻っておいで』
また目を閉じて、オルト様のお姿は海へゆっくり還っていく。
長い髪がざあざあと流れ落ちる水流に変わってお姿を覆い尽くし、幾つかの大きな渦を残してとうとう全部見えなくなった。
その渦も緩やかな波になって、夜明けの海は静けさを取り戻す。
―――今見た何もかもが夢だったみたい。
「はる、あれ」
モコに言われて振り返ると、朝日の差す浜にハーヴィーたちが沢山の人や獣人たちを引き上げていた。
火の消えた街のあちこちから薄く煙が昇っている。
あんなに綺麗だったのに、ディシメアーの街は特区と同じように見る影もない。
不意に水音がして、また海を見下ろせばカイがすごい勢いで禁足地の浜の方へ泳いでいく。
「待ってカイ!」
私を抱えたモコが空から後を追ってくれる。
「はる、ぼくはやいからおいつくよ!」
「うん、お願いモコ!」
浜に泳ぎ着いたカイは魚から人の形に変わった足で今度は駆けだした。
「カイ!」
呼んでも止まってくれない。
もう一度「カイ!」って呼びながら近づくと、カイの向かう先に黒い翼が舞い降りた。
あの人、ディシメアーに来た時に会った女の人だ。
メルって名乗っていた。
黒い髪、金の瞳、そして、黒い翼。
あの人もラタミル?
だけど、黒い翼のラタミルなんて、本で読んだこともなければ、話に聞いたこともない。
「待ってカイトス」
カイがやっと足を止める。
「メリーエル!」
メリーエル。
それがメルさんの本当の名前?
「行くぞッ、ルルの居場所が分かった、今すぐ向かう!」
「落ち着いて、居場所が分かったって、それは」
「グズグズしてらんねえんだ、あいつが、あいつが死ぬかもしれねえッツ、急がないと!」
「カイトス」
「西へ行く、商業連合だ、そこにルルがッ」
「―――待てと言っているだろう」
メルの後ろに降り立つ姿を見て、カイが息を呑む。
ロゼだ。
じり、と後退りして、傍に降りた私を振り返り、目を大きく見開いたまま何か言おうとするように口を動かした。
「ハルッ、ハルちゃん! ハルちゃぁーん!」
大声で呼ばれた方を見ると、岩場の奥からセレスが走ってくるのが見える。
ヴァニレークと子分たちも一緒だ。
「ハル! ロゼも、お前達無事か!」
向こうからはリュー兄さんが来た。
よかった、皆、大きな怪我もしていないみたい。
私も声が出せることに今頃になって気付く。
あんなに沢山ポータスとトゥエアを咲かせたのに。
「勢ぞろいね」
苦笑するメルに、追い詰められたような表情のカイが唇を噛んで、一人離れて行こうとする。
その腕をロゼが掴んだ。
途端にビクッと震えたカイは動かなくなる。
もしかして怖がられてる?
確かに兄さんはラタミル―――元ラタミルだけど、怖くないよ。
「カイ」
隣に行って呼びかけると、私を見て、辛そうに俯いた。
ロゼが手を離す。
「聞いてねえぞ」
そう呟いたカイの声は少しだけ震えていた。
――――――――――
―――――
―――
何があったか、何をしたのか、何を見たのか。
状況整理も兼ねた話し合いをすることになって、ヴァニレークたちの案内で岩場の奥へ移動する。
周りをゴツゴツとした青い岩に囲まれた、吹き抜けの洞窟みたいな空間。
なんでも、青岩石を波が長い年月をかけて浸食してできた場所で、ここへは空を飛ぶか船で海を渡るかしないと来られないらしい。
私とセレスは、羊の姿になったモコが背中に乗せて運んでくれた。
リューはロゼが、カイはメルが、それぞれ抱えて運んだ。
ヴァニレークたちは小舟に乗ってついてきた。海賊船は一応無事らしいけど、柱が折れたから修理で暫くは使えないらしい。
「まずは傷を治すぞ、お前達傷だらけだ、ハル、手伝ってくれ」
「うん」
「恐縮ですクゥ、感謝いたしますクゥ」
私とセレス、モコとカイの傷を癒して、ヴァニレークと子分たちの傷も癒す。
誰も大きな怪我はしていないけれど、あちこち細かく傷だらけになっていた。
リューとロゼ、メルに怪我はない。
ヴァニレークの子分たちは、肉の蔦に掴まって毛が禿げて火傷みたいになっていた傷が癒えて元のフワフワに戻ると、はしゃいでピョンピョン跳ねた。
「お前たちに死人は出たのか?」
「ありませんクゥ、ラタミル様とハーヴィー様、何よりハル様のおかげですクゥ」
「そうか」
「恩人様、有難うございますクゥ!」
「やっぱりアンタらは俺たち妖精の恩人様だクゥ! 感謝いたしますクゥ! この事も皆に伝えておきますクゥ!」
「必ず恩返ししますクゥ!」
ふふ、よかった。
騒ぐ子分たちをヴァニレークが落ち着かせて、改めて話し合いを始めることになった。
―――カイはずっと俯いて黙ったままだ。
心配で、何度も様子を窺うけれど、こっちを見てもくれない。
セレスもモコも気にして時々そっと目を向けている。
「ハル」
リューが私に「怪我以外の不調はないか?」って訊く。
「大丈夫だよ、寒くないし、声もほら、ちゃんと出せる」
「そうだな」
「しかし酷い姿だ、可哀想に」
そういえば寝間着のままだった、色々あってボロボロ、セレスの寝間着もボロボロだ。
ロゼが「おいで」って呼ぶから傍に行くと、翼を出して包んでくれる。あったかい。
「えッ!」
急に大声をあげたセレスが、目を大きく見開いたまま口をパクパクさせている。
あ、そうか。
―――しまった、セレスはまだ知らなかったんだ。
「はッ、はわッ? しッ、しッ、ししししししししししししししぃーッ!」
「うるさい」
「ええと、ごめんねセレス」
「はえええええええええええええっ!」
どうしよう。
リューが額を押さえて溜息を吐く。
「ロゼ、セレスもお前の翼に入れてやってくれ」
「むっ、何故だ」
「いいから、今は理解させるより馴染ませる方が手っ取り早い、ハル頼む」
「うッ、うん」
大丈夫かな、驚き過ぎて気絶したりしないかな。
立ち上がって、フラフラしているセレスの手を引いて、ロゼのところまで連れてきて隣に座ってもらう。
私もロゼを挟んだ隣に座ると、ロゼは私と、セレスも渋々翼の中へ抱き込んでくれた。
「はわあああああっ、あたッ、あたたかい、はわっ、し、師匠、師匠が、師匠が!」
「うるさいと言っている、その口を噤め」
「はひッ、はひぃ!」
「ねえセレス、大丈夫だから落ち着いて」
「ハルちゃんッ、ハル、ハルちゃッ、ふえぇ、師匠はッ、師匠はッ」
「うん、後でちゃんと説明するから」
「ひょあええぇッ!」
セレス、涙とか涎とかまた色々出てる。
嫌そうにしているロゼの隣から手を伸ばして拭いてあげた。
元ラタミルでも兄さんは兄さんだし、何も変わらないから、早めに慣れて欲しいな。
「では改めて、まず何があったかそれぞれ報告して欲しい、最初は俺から―――」
急にカイが立ち上がる。
そのまま海の方へ向かおうとするのを、メルが慌てて引き留めた。
「どこへ行くの?」
「こんなことしてる場合じゃねえ、俺はすぐ西へ向かわなくちゃならねえんだ」
「カイトス」
「ルルが待ってる、アイツを迎えに行ってやらねえと、こんなところで水売ってるヒマはねえんだ!」
「気持ちは分かるわ、でも落ち着いて、今の貴方は冷静じゃない」
「これが冷静でいられるか!」
怒鳴ったカイはメルを睨みつける。
「ルルは生きてた! だがそれだけだッ、いびつな形って何だよ、毒って何だよ!」
「カイトス」
「俺はッ、俺は、アイツを助けなくちゃならねえんだ、何があっても、アイツが今どんな状態だったとしてもだ」
「だからこそ今は彼らと情報を共有すべきよ、分かるでしょう?」
「俺にはこれがある!」
カイは槍を持つ手と別の手にずっと握りしめている何かを見せてくれる。
あの時オルト様が下さったものだ。
平たくて小さな、石?
表面に矢じりのような模様が描かれている。
「この矢は動くんだ、矢の向く方にルルがいる、俺には分かる」
「ほう、珍しい道具を授かったな」
ロゼがそんなことを言うから驚いた。
知ってるの?
リューも「知ってるのか?」ってロゼに尋ねる。
「僕も似た道具を作ったことがある、だから仕組みを知っている、ハーヴィーの言うとおり、それは探し物を見つけ出す道具だよ」
「お前は本当に何でもできるんだな」ってリューは何だか呆れ顔だ。
でもロゼは嬉しそうに「もっと褒めてくれていいよ」ってニコニコする。
モコが「ししょうすごい!」ってはしゃいで、メルもロゼを尊敬するように見ている。
―――もしかして、メルは昔の、ラタミルだった頃のロゼを知っているのかもしれない。
「そうだ」
カイが苦い顔で唸る。
「これさえあればやっとルルを見つけ出せる、だから西へ行かなくちゃならねえ、今日まで時間がかかり過ぎてんだ、もう少しも無駄には出来ねえ」
「だけど、いくら指針があっても闇雲に行動したんじゃ目的は果たせない、そうでしょう?」
「うるせえ! もうついてこないってんなら、俺は一人でも行く!」
「カイトスッ」
「メリーエル、お前とはここまでだ!」
「いい加減にしろ」
ロゼがカイを睨む。
途端にカイは竦んで黙り込んだ。
「情の深いオルトが、眷属に無意味な希望を抱かせるような真似などするものか、当面は命に関わる状態ではないと理解しろ」
辺りがしんと静まり返る。
「それでも」とカイの震える声が響いた。
「それでも、俺はッ、今すぐ西へ、ルルを取り戻しに行かなくちゃならない」
「カイ、そのルルという人は君とどういう関係なんだ?」
リューが尋ねると、カイは苦しそうな、今にも泣き出しそうな表情でオルト様から戴いた石を握りしめて叫んだ。
「ルルは俺の―――たった一人の妹だ!」




