女神の目覚め
※津波の描写があります、ご注意ください。
生臭い潮風に響く嗤い声。
「ちょっとだけ、あぶない」
モコが私を庇うように体の向きを変える。
直後、カルーパ様を包むように光の柱が現れてドンッと爆発音が響いた。
今のは雷?
絶叫と肉の焼け焦げる臭い、眩しくて咄嗟に瞑った目を開くと、全身から煙を昇らせるカルーパ様の動きはさっきより鈍くなっている。
夜空にいつの間にか一際眩しい光を放つ星が現れていた。
背中には羽の先だけ赤く染まった純白の大きな翼、あれは、ロゼだ。
その傍にも誰かいる?
黒い髪、黒い翼の―――まさかラタミル。
どっちも遠くて表情はよく見えない。
ただロゼが片腕を上げてカルーパ様を示すのが分かった。
カルーパ様とロゼは友達なんだよね?
ごめん兄さん、こんなことになって、止められなくて。
「はる、やろう」
頷いて、カルーパ様の頭の上で叫び続けている姿を見詰める。
ラクスは酷いことを沢山して、私も、私の大切な人たちのことも何度も殺そうとして、正直憎い。
だけど少しだけ可哀想とも思う。
あの建物で何をしていたのかとか、どうしてここへ現れたのかとか、まだ分からないことばかりだ。
カルーパ様の両目を覆っていた肉の蔦がずるりとずれて、大きな目がゆっくり開いた。
私を静かに見つめる。
あの目は、オルト様を目覚めさせて欲しいと頼まれた時見た目と、同じ目だ。
「フルースレーオー」
声が出る。
今こそ咲かせよう、届け―――貴女へ。
「花よ咲け、愛よ開け」
モコに掴まる私の胸の辺りから紫色の花が溢れ出す。
「ポータス!」
ブワッと咲いた花が宙に舞った。
「声よ響け、トゥエア!」
今度は青い花。
数えきれないほど咲いた花が海上を埋め尽くす。
紫と青に染まってうねる海。
その中で悶え、苦しみ、叫び声をあげるラクスと、憑りつかれてしまったカルーパ様。
ああ、聞こえる―――
誰かの声が波紋のように響いた。
深く暗い海の底から、何かが緩やかに浮上する。
そうか、君が―――待っていた、ずっとずっと待っていたよ、我らがいとし子。
急に高くなる波に、二艘の海賊船は木の葉のように翻弄される。
船の下から現れた手の平が溜めた水に船を浮かべて掬い上げると、唐突に海が割れて、頭が、肩が、体が現れていく。
それは、胸から上の、髪の長い女性の姿。
少しずつ落ち着いていく波の上へ海賊船を戻し、優しく微笑む。
『愛しい私の僕たち』
―――海神オルト様。
見ただけで理解して、腑に落ちた。
海を統べる女神、遍く海の創造主であり、世界を創造された三柱の神の一柱。
『何ということだ』
そのどこまでも青い瞳が、カルーパ様を見詰めて哀しげに眇められる。
『カルーパ、忠心厚き我が僕、最も長く仕えてくれた、我が無二の友よ』
憑かれて操られていたカルーパ様は、振り返ってオルト様を静かに見上げた。
『もったいなき、おことばに、ございます』
その口が動いて、掠れた切れ切れの言葉を紡ぐ。
オルト様の瞳から涙が溢れて零れ落ちた。
『ときが、みちたの、です』
『そうか』
『けいあいする、わが、かみ、よ』
『愛しい私のカルーパ』
抱き寄せられた腕の中で、カルーパ様は静かに目を瞑り、憑りつくラクスは悲鳴を上げてガタガタ震えだした。
『あなたの、めざめが、そのあかし』
『ああ、分かっている』
『いずれ、ふたたび、まみえましょう、そのときは、かならずや、また、おそばに』
『待っているよカルーパ』
『かみよ、いだいなるかいしんおると』
何かに亀裂が入るような音がした。
オルト様の姿が少しずつ石に変わっていく。
背中の甲羅だけじゃなく、脚も、首も、全身に絡みつき張り巡らされたラクスの肉の蔦も一緒に。
『あなたへ、とこしえにかわらぬ、ちゅうせいと、あいを』
鼓膜が破れそうなほどの絶叫が夜の海に轟く。
ラクスが抵抗しながら離れようとしている、だけどもう遅い、きっともう逃げられないんだ。
今になって気付いた。
成す術もなく憑りつかれたわけじゃない、カルーパ様はこうするため、ラクスを自分に憑りつかせたんだ。
「いやぁ、おねがいよぉッ、どうしてこうなるの? わたしはここよ、ここにいるわッ、どうして、わたしはいるのに、みてッ、ねえみてッ、おねがい、わたしをみて、みて、みて」
ラクスも石に変わっていく。
みて、みてと、唇が石になって動かなくなるまで繰り返して、とうとう髪の先まで完全に石化した。
直後にカルーパ様と、憑りついたラクスも同時に崩れ、細かい破片になって海へ落ちていく。
腕の中から失われていく姿をじっと見つめていたオルト様は、両手を顔に押し当てた。
『ああ、カルーパ、なんて―――かなしい』
海が膨らむ。
波が高くなる。
海賊船が船首を返し、それぞれオルト様の傍から逃げ出すように離れて行く。
海上に姿を見せたハーヴィーたちが、船を追って魔力で障壁を張った。
ロゼとあの黒い翼のラタミルももういない。
海が、膨らんでどんどん大きくなっていく。
不意に光が見えた。
ディシメアーの海岸沿いに大規模な障壁が展開される。
あれはきっとロゼだ。
皆、一体何に備えているんだろう。
モコが私を抱えなおしてもっと上へ飛んでいく。
『ああ』
オルト様が囁くようにもらした、その吐息交じりのひと声と同時に、大きく膨らんだ海は波になって一気にディシメアーへ押し寄せる。
ロゼの防壁がもっと高くなった。
街一つくらい簡単に飲み干してしまいそうなほどの波は、障壁にぶつかって轟音と共に砕ける。
ディシメアーに海水の大雨が降り注ぐ。
街のあちこちでちらついていた赤い光は全部一瞬で消えた。
その後―――薄くのぼる煙を見て気付く。
空が明るくなり始めている。
大波が落ち着いて、水没していた浜が現れると、障壁も消えた。
サマダスノームの時と同じように、今度はディシメアーを守ってくれたんだ、有難うロゼ兄さん。
モコが羽ばたいて私をオルト様の傍まで連れていってくれる。
顔を覆っていた両手を静かに下ろしたオルト様の、深い海色の瞳と目が合った。
『満ちし子、ようやく会えたね、ハルルーフェ』
どうして?
名前を呼ばれて、驚いて、訳が分からなくなる。
どうして私を知っているんだろう。
『待っていた、まずは感謝を、深い眠りの中で君の声を聞いた、目覚めさせてくれてありがとう』
「は、はい、オルト様、あの」
『なんだ、ハルルーフェ』
差し出された手の平に、モコはゆっくり私を下ろす。
わっ、うわぁ、か、神様の掌だよ、いいのかな。
「もう、泣かないでください」
オルト様は不思議そうに私を見詰める。
「カルーパ様に言われたんです、貴方が悲しむだろうから、涙を拭って差し上げて欲しいって」
『そうか、カルーパが』
「お辛い気持ちを理解できる、なんておこがましいことは申し上げません、でも、私も悲しいから、慰めることをお許しください」
『許そう』
微笑むオルト様を見上げて、今度は私が泣きだしてしまいそうだ。
唇を噛んで目元をギュッと擦る。
『ハルルーフェ』
「はい」
『君に導きを授けて欲しいと頼まれている』
「えっ」
誰に?
そう訊ねる間もなく、オルト様は語り始めた。
『エノアが君へ託す種子は五つ、二つは既に受け取っているだろう』
「は、はい」
『残りは三つ、一つは西の地、一つは北、そして一つは中央に、それぞれ竜と、そして、白銀の翼が種子を抱き君を待つ』
竜と、白銀の翼?
竜はもう二度会った、ネイドア湖のネイヴィ、シェーラの森のリューラ。
名付けて、エノア様から託されていた種子を受け取った。
白銀の翼は何だろう、竜とは違うのかな。
『全ての種子を君が受け取り、君とあの子の花を咲かせる、君にしかできない、故に君に託す』
「あのっ」
どうして私なんだろう。
「―――どうして私なんですか!」
思い切って叫んだ、ずっと教えて欲しかった。
花は私の何かを消費させる。
ポータスなら愛、トゥエアなら声、他の種子から咲かせる花だってきっとそうに違いない。
だとしたら、全ての花を集めたら私はどうなるんだろう。
どうして私が選ばれたのか、エノア様は私に本当は何を託そうとしているのか、知りたい。
『君は、有限なるもの、無限なるもの、命の全てを備えしもの』
白み始めた夜明けの空を背景に、オルト様の波のようにうねる髪が時折飛沫を散らす。
その髪を透かして陽の光が差した。
長く暗い夜の果て、海の彼方に陽が昇り始める。
『エノアでは、まだ満ちていなかった、しかし君は満ちた、愛しい子、そういえば君への贈り物がまだだったね』
「えッ」
『加護を授けよう』
私を乗せている手の平とは別の、もう片方の手の指先に髪を撫でられる。
耳元で波の音がした。
自分のものじゃない魔力が体に流れ込んで溶けていく。
『エノアの導きは君の足元に種子への道を描く、委ね進むといい、私たちはいつでも君を見守っているよ』
「オルト様」
『なんだ』
「あの、有難うございます」
フフ、とオルト様は笑う。
取り敢えず加護のお礼を伝えたけど、さっきの言葉だけじゃ何も分からない。
満ちるって、何が?
(あの子)は多分エノア様のことだろうけど、建国の女王エノア様はとっくに故人だ。
共に咲かせるってどういう意味?
それに、どうして花を集めて、どうして咲かせるのか、その行為にどんな理由や必要性があるのか、もっと具体的に教えて欲しい。
「はる」
不意に後ろから抱えられて、体がふわりと浮かび上がった。
私が乗っていたオルト様の掌が沈み、お姿が海へ還っていく。




