海底実験場 3
魚の、姫?
あの人が噂で聞いた魚の姫?
それならここは楽園―――あれ、ここってどこだっけ?
何か、すごく気になることがあるのに、考えようとするとボンヤリする。
手招きする姿に近付こうとしたけど脚が動かない。
立ち尽くすカイと、進もうとして前のめりになるけど、やっぱりあの人へ近付けないセレスがいる。
私も、私も行かなくちゃ。
―――近付いたらダメだ。
どうして?
絶対に近付いたらいけない。
これは違う。
何が違うの?
おかしいよ、いやおかしくない、なにか変だ、変、変、ヘン―――臭い。
「はるっ」
急に痛みがあって、驚いて見ると腕にモコが噛みついていた。
すぐ口を離して私を見上げながら泣きそうな顔で「ごめんね」って謝ってくる。
「はる、せれすをよんで」
「せ、れす?」
「もっとおっきなこえで! はやくよんで!」
よく分からないけれど、呼ぼう!
「セレスッ」
声を張り上げると、魚の姫へ両手を伸ばして宙を搔いていたセレスの動きが止まる。
ゆっくり振り返って、不思議そうに首を傾げた。
「ハル、ちゃん?」
「―――あらいやだ、なによ、そうだったの?」
魚の姫が「面倒ねぇ」って嫌そうに呟く。
「あれ、今、私?」
戸惑うセレスと見つめ合ったまま混乱していたら、モコが「かいっ」っていきなりカイに頭突きした。
「うおッ、お、おい、何するんだこのクソラタミル!」
「ラタミル?」
顔を顰めた魚の姫が、モコを見る。
「そう、そうだったのね、気付けなかった、ホント嫌になる、またラタミルだなんて」
まだ状況が呑み込めない。
だけど頭の中が段々はっきりしてくる。
おかしいって違和感が、いよいよ現実味を増して膨らんだ。
「一体なんだ、なにが、どうして」
「はる、せれす、ちゃんとみて」
「何を?」
「かいはみえてるでしょ、あれちがうよ、こわいのだよ、みて!」
カイが槍を構えなおす。
「ッチ! 俺としたことが、最悪だッ」
改めて魚の姫を見て―――やっと気付いた。
違う。
これは、人ですらない。
白いドレスの裾は赤くてぐちゃぐちゃした肉の塊だ。
ドレスだって着ていない、そもそも白くもない、全部がぐちゃっとした塊で、両腕と肩から上だけかろうじて人の形をしている。
あの顔に覚えがある。
サマダスノームで遭った、ロゼが潰した魔人、ラクスだ。
「夢から覚めちゃったみたいね、ウフフ、お久しぶり、ところであの美しい方はどこ?」
「な、んで」
「あら、ご挨拶じゃない、あの強くて美しい御方よ、フフ、思い出すだけで体が疼いて仕方ないの、とっても痛かったわァ」
「貴様は何者だ!」
「まあっ、こっちも美味しそう、美しいわ! 女なのが残念だけど、デザートとしては悪くないわね」
「なッ」
ニヤッと笑うラクスに、セレスは後退りする。
「では、改めて名乗らせてもらおうかしら―――私はラクス」
肉塊の体を粘ついた音を立てながら引きずって「どうぞ、よろしくね」って微笑む。
魔人だ。
サッと血の気が引いていく。
相手をするなんて、多分カイでも無理だ。
ロゼを呼ばないと―――すぐ呼んで、この魔人をどうにかしてもらわないと。
浅く短くなっていた呼吸を吸い込んで叫ぼうとしたら、後ろから大勢の気配が押し寄せる。
「いたぞーッ!」
「侵入者発見! 施設長のお部屋の前だ、なんて不敬なッ」
「急いで取り押さえろッ」
「貴様ら覚悟しろよ!」
「所長、申し訳ありません、その者たちはすぐに取り押さえますので!」
必死に訴える武装した人へ、ラクスは「いいのよ」って笑う。
この人たちどうして、今の状況を見ておかしいって思わないの?
全員、ラクスの幻覚に操られているの?
「クソ、厄介だな!」
「おいカイ、奴は一体なんだ、まさかッ」
「今は理解するんじゃねえ、余計な感情に振り回されちまう!」
武器を振りかざして襲ってきた武装集団と、セレスとカイが戦闘になる。
それを見ながらラクスが不意に手をパチンと打ち鳴らして「そうだ、もっとオモチャを増やしましょう!」って楽しそうに目を光らせた。
「ずっと退屈していたから丁度いい見世物だわ、貴方たち、精々私を楽しませてちょうだい」
クスクス笑いながら体を引きずり、部屋の奥の大きな台座の上へ移動する。
ぐちゃ、と座り込んだラクスは、そのままニヤニヤと私たちを眺め始めた。
「ヴぇんてぃ・れがーと・すとうむっ」
モコが無詠唱で風の精霊ヴェンティの防護壁を展開する。
私も詠唱! 向こうは数が多過ぎる、援護と防護を中心に、攻撃!
「火の精霊よ、我が希う声に応じて来たれ、汝の力をもって我が欲する望みを叶えよ! イグニ・コンペトラ・ストウム!」
まずはセレス、攻撃してきた相手を炎上させる火の精霊イグニの防護壁だ。
次はカイ、集中しろッ!
「氷の精霊よ、我が希う声に応じて来たれ、汝の力をもって我が欲する望みを叶えよ! ガラシエ・コンペトラ・ストウム!」
氷の精霊ガラシエの守りがカイを包んで、切りつけてきた武装集団の一人をバキバキと凍り付かせる。
ひとまずこれでよし、次は攻撃!
「ヴぇんてぃ・ふぃん・るーふぇむ!」
モコに呼ばれた風の精霊ヴェンティの起こす真空の刃が、武装した人たちを切り裂く。
セレスとカイも、それぞれ両手に持った短剣と、槍で、攻撃してくる人の数をどんどん減らしている。
不意に異様な臭いを感じてハッとした。
別の大勢の足音が響いてくる、唸り声、叫び声、突然奥から悲鳴が上がる!
「ぎゃああッ」
「ひ、非検体ども? 何故ここにッ」
「分からん! 分からんが抑えろ! 殺害も止む無しだ!」
「ひぎッ、よ、よせッ、ギャッ」
武装集団の中へなだれ込む大勢の人や獣人、血走った眼でなりふり構わず暴れている。
殴って、蹴って、噛みついて、反撃されて体のあちこちから血を流して、折れたり曲がったり、飛び出したりしているのに止まらない。
ラクスの笑い声が響く。
―――もうメチャクチャだ。
「いいわぁ、久々にとっても楽しい、ねえもっとよ、もっと! 赤いのが欲しいわ、皆さんお願い」
「はい姫!」
「姫のお望みのままに!」
「お前たち赤が足りないぞ、もっとだ、姫が赤をご所望だ!」
「我らが姫! 姫!」
「ぎゃあっ、ひひひ姫ッ、ひめぇッ」
「崇高なる我らの使命のため、人の進化のために!」
「あはッ、あははッ、あはははははははは!」
誰もがただ殺し合っている。
何の目的もなく命の奪い合いをしている。
壁も、天井まで、全部全部赤く染まって、ラクスの笑い声が響いて―――
「はるっ」
ハッと視線を下ろすと、モコと目が合った。
空色の綺麗な瞳。
そうだ、兄さんを呼ぼう、今すぐロゼ兄さんを呼ばないと!
「はるきいて、ししょー、いまこれない」
「えッ」
「だからぼくが、はるのことまもる」
来られない?
どうして?
「はる、はなさかそ」
「花?」
「そうだよ、えのあのはな、さかそ!」
「でも」
今、まともに動けなくなって、声も出せなくなったら、私は足手まといになる。
セレスやカイが余計な怪我を負うかもしれない、モコだって傷つくかもしれない。
「だいじょぶ」
手をギュッと握られる。
小さくて柔らかなモコの手。
「ぼくをしんじて、はる」
胸がドキリと高鳴った。
空色の瞳に強い光が宿っている。
不思議だ、今のモコはなんだか普段のモコと違う、強くて頼もしく見える。
「分かった、やろう」
ニコッと笑ったモコは手を離した。
そして私の前に立つと、ラクスと正面から向かい合う。
「あら、なに? 小さくか弱いラタミルが一体何の―――」
「フルースレーオー!」
ラクスの表情がサッと変わった。
ぐちゃりと粘つく音を立てて立ち上がると、こっちへズルズル向かってくる。
「やめろ―――またアレをするつもりか!」
「花よ咲け!」
「やめろ!」
突然衝撃波みたいなものが飛んできた。
モコが翼を広げて両脚を踏ん張る、白い羽根が宙に何枚も飛び散った。
「っうぅ、ううぅーっ」
「モコ!」
「だいじょぶ、だいじょぶだから、はる、さかせて!」
壁になって衝撃波を防いでくれている。
モコの体のあちこちが裂けて血が流れ出す。
モコ、モコ!
「愛よ開けッ」
「やめろやめろやめろッ、おいラタミル! 醜いお前には何もできないんだよ! 失せろッ、消えてしまえッ!」
「やだッ」
「小さく非力で何にも出来ない、そうして突っ立っていることしかできない、弱いお前は醜い! 醜いラタミル!」
「うるさい!」
「あらそう、なら分からせてあげる―――頭からバリバリと食べちゃうんだから、あはは!」
少しずつ、少しずつ、モコが衝撃波に押し負け始めた。
庇われている私の腕や脚にも裂け目が入って血が噴き出す。
痛い、でもモコはもっとずっと痛いんだ!
「ポータス!」
叫ぶ!
赤く染め上げられた空間に、紫色の綺麗な花が咲き乱れる!
「いやぁッ、またこれ! イヤよイヤイヤッ、何なのよこれぇッ、なんなのよぉッ!」
「声よ響けッ」
ラクスがこっちを睨んだ。
強い衝撃波でとうとう跳ね飛ばされたモコに巻き込まれつつ、もう一度叫ぶ!
「トゥエアッ!」
苦しい。
目の前がかすむ、声も出ない、だけど無理やり体を起こす。
モコ、モコ、しっかりしてモコ!
「いやあああああああッ! ウグッ、ぐうううッ、ぐるしッ、ぐるじいッ、きぼちがわるッ、おえッ、ごぼっ」
ラクスがどうなっているかよく見えない。
あんなのどうだっていい、それよりモコ、ねえお願い動いて、モコ、モコッ!
目がじわっと熱くなる。
涙がこぼれて落ちて、何かキラキラと光を放つ。
腕の中でモコが小さく身じろぎした。
「は、るぅ?」
「モコ!」
よかった、意識が戻ったんだ、モコ!




