兄たちの密談:リュゲル視点
今回はいわゆる番外編、ハルが寝ている間の出来事です。
(今後も展開によって番外編が挟まることがあります)
目が覚めた。
起き上がって、まだぼんやりしている頭を振る。
疲れはそれなりに取れたような気もするが、気分の方はあまり晴れない。
あの時―――ハルが穴に落ちたあの時、生きた心地がしなかった。
小さな頃からずっと、それこそ目に入れても痛くないほど可愛がってきた妹だ、失うかもしれないと思った瞬間の恐怖は例えようもない。
本当に恐ろしかった。
二度と同じ目に遭わないよう、もっと気を引き締めなければ。
俺は多分、少し浮かれていたんだろう。
緑濃い森の奥の景色、大きな川や、賑やかなこの町を、話に聞いては目を輝かせていた妹にやっと見せてやれる。
それが嬉しかった。
我ながら呆れてしまう、この旅はきっと―――楽しいだけでは済まないというのに。
「ロゼ」
「やあ」
ふと視線を感じて目を向ければ、椅子に掛けて何かしていたらしいロゼがニコッと笑い返してくる。
繕いものか?
「おはよう、よく眠れたかな?」
「それなりに」
「ふむ、その割に浮かない顔だ」
手にしていた道具や布を卓に置いて、椅子から立ち上がり傍へ来た。
相変わらず大きい。
着痩せする方だが、そもそも上背があるからこうして見上げる格好になると改めて実感する。
ぬっと伸びてきた手に髪を撫でられた。
「やはり子守唄を歌うべきだった」
「いいって言っただろ」
「君も僕の歌を好むじゃないか、どうして頑なに拒むんだ、思春期か?」
「いつの話だ」
「そうだな、君はあまり拗らせなかったからな」
俺が使っているベッドに腰を下ろして、クツクツ笑う。
こっちは寝起きだぞ、からかうなよ、性質の悪い奴だ。
「どれ、見せてごらん」
顎に添えられた手が、俺が何か言う前に顔を強引に上へ向かせる。
ロゼはいつもこうだからもう慣れた。睫毛が長いな。
もさもさした前髪の隙間から覗く、水晶のように透き通った紫色の瞳。
敢えて隠している理由を知っているけれど、この目をいつも綺麗だと思う。
「フフ、至高の玉だな、夏の盛りの青葉の色だ、実に美しい」
「そういうのは兄弟に使う褒め言葉じゃないぞ」
「僕の偽りなき本心さ、何故いけない?」
「お前のそういうところだよ」
首を傾げるロゼに、やれやれと思う。
だからよく勘違いされるんだ。そんな調子じゃ、いくら顔を隠したところで意味がないってそろそろ気付け。
「なあリュー、起きたなら聞かせてくれないか」
言いながらロゼは俺の顎を掴む手を離す。
「僕と会うまでに、君達に何があった」
「ああ、話す」
「そのことが理由で君は落ち込んでいるのだろう?」
「気付いたか」
「当然さ、目を見れば分かる、僕は君のお兄ちゃんだからね」
よく言う。
後で起きたハルに話してもらってもいいが、二度手間になるから聞いた内容もまとめて俺からロゼに伝えた方が早い。
ハルは隣のベッドでまだ眠っている。
あんなことがあった後だ、きっと酷く疲れているに違いない、目を覚ますまでゆっくり休ませてあげよう。
地下で辛い思いをしたはずだ。
怖かっただろう、怪我もしただろう、不安に怯えて、泣いたかもしれない。
―――それなのに俺は、何もしてやれなかった。
守ると言ったのに、いざハルに危機が迫った時、傍にいることすらできなかった。
「ドリアドの森でグランドクロウラーが暴走した話はもう伝わっているか?」
「この町にということならまだだ、しかし僕は個人的にその件を知っている、君達の身を案じていたよ」
「流石に耳が早いな」
もし、ロゼがハルを迎えに行ったなら少しは、いや、全然違っただろう。
ロゼならあの状況で、間違いなくハルを助けることができた。
「俺は気付けなかった、気になる兆候は幾つもあったのに油断した、だからハルを危険な目に遭わせてしまった」
森に入った時、おかしいと思ったんだ。
あの時すぐ引き返せばよかった。俺だけ先行して状況を調べてから改めて出立を決めるべきだった。
村から川までの経路は幾つかある。
なぜあの道を選んだ? 途中で他の道に変えようと思わなかったんだ?
シェフルで暫く待たせてもロゼは腹を立てたりしない、逗留にかかる費用も手持ちで足りただろうし、もし使い切ったら自力でどうにかしたはずだ。
だから、俺はまずハルのことを第一に考えて行動するべきだった。
「あの子はグランドクロウラーが掘った穴に落ちたんだ」
―――その後のこと、ハルに何があったかは、ハルから聞いた通りに伝えた。
俺は地下から響いてくる異音を頼りに夜の森を駆け回り、何度か地上に姿を見せたグランドワームを追い払って、ハルを探し続けていたら、いつの間にか東の空が明るくなっていた。
夜が明けてしまったと蒼褪めた時、川の方角から大きな音がして、駆け付けたらハルがいたんだ。
こうして説明すると改めて自分の不甲斐なさを痛感する。
俺は何をやっていたんだ、もっと冷静になって、考えて行動すればよかった。
「なるほど」
聞き終えたロゼが深々と溜息を吐く。
「君にも困ったものだな」
呆れた声に返す言葉もない。
「後悔して自分を責めるばかりで、僕らの可愛い妹が目覚ましい成長を遂げた事実にまるで気付いていないとは」
「え?」
前髪を軽く除けてロゼが微笑む。
まともに顔を見たら、少しだけ気分が落ち着いた。
「ハルは敏い子だ、肝も座っている、だけどまだ十五のお嬢さんだ、一人きりになって、自分の力で困難な状況を打破しなくてはならなくなって、恐ろしかっただろう、不安だったろう、痛い思いも、辛い思いも、沢山しただろう」
「ああ」
「だが負けなかった、魔物にということではないよ、あの子は自分自身に負けなかった」
思いがけない言葉に、ハッと目の覚めるような思いがする。
「己に負けたら命を失う、そういう状況だったろう、精神論を語るつもりはないが、もしあの子の心が折れていたら、僕らはかけがえのない宝物がひどく傷つく様を目の当たりにせざるを得なかっただろう」
ゾッと鳥肌が立つ。
そうだ、ハルは本当によく頑張った。
運すら引き寄せ、自分に出来ることを精一杯やり遂げたんだ。あんな場所で奇跡的に協力者を得て危地を乗り超えた。
モコすら守り抜いた、本当に凄い、自慢の妹だ。
「だからハルはよくやった、流石僕らの妹だ」
「ああ、そうだな」
「そして君も頑張った、ハルを想って必死に行動したのだろう?」
「でも俺は」
「結果が出なければ、努力は報われてはいけないのか?」
ポンと俺の肩に手を置いて、ならば僕が評価しよう、と軽やかに笑う。
眩しい笑みに一瞬目が眩む。
「ハルのために必死だった君を僕は知った、まあ、そんな話を聞かずともハルに危機が迫れば君は必死になるだろう、そんな君を僕はとても尊いと思う」
「よせよ、大げさな話にするな」
「落ち込んでいただろう、励ましているんだ、素直に聞いて元気になりなさい」
「お前のそういうところ、いつも呆れるよ」
「まったく、君は本当に恥ずかしがり屋だな」
余計なお世話だ。
でも、いくらか気が楽になった。
偉そうで押しつけがましいけれど、ロゼの言葉にはいつだって俺やハルへの深い情がある。
良き兄であろうとしてくれる姿を頼もしく思う。
まあ、そんなことは敢えて言ってやらないんだけどな。
どうせ調子に乗るだろう、その相手をするのは面倒だ。ロゼなんて適当にあしらっておけばいい。
「やれやれ、聞きたい話も聞けたことだし、リューも憎まれ口を叩けるようになったから、僕は繕いものの続きに戻るとするかな」
「やっぱりさっき何か繕っていたのか?」
「ああ、ハルの上着だよ」
答えながら立ち上がって、ロゼは椅子に戻っていく。
俺もベッドを降りた。
「あの子が寝ている間に済ませてしまおうと思ってね、バッグの中もなかなか酷い有り様だったが、話を聞いて納得した、むしろあれで済んだならマシな方だ」
「オーダーの道具が壊れたのか?」
「僕の手作りだぞ、そう簡単に壊れるものか、多少修理は必要だが使用に問題はない」
ハルが使っているオーダーの道具は全てロゼの手作りだ。
俺の道具も同じく、こいつは大抵の物を自作してしまう。当人曰く「僕は手先が器用なのさ」なんて言葉で済ませられる程度の技能じゃない。
「ただ、香炉が二つとも無くなっているんだ、香料を入れていたビンもない、それからバッグの底に革袋の中でくしゃくしゃになったベストを見つけたよ」
「あっ」
それはティーネがハルに贈った誕生日プレゼントだ。
皮袋に入れて他の荷物から保護していたのか。まさかその革袋ごと水に浸かるとは思っていなかったんだろう。
「とても質の良い毛織物だね、仕事が丁寧で手触りが素晴らしい、あれはティーネの毛だろう」
「分かるのか?」
「小さなあの子を何度も撫でた、抱っこだってしたことがある、なにより、見れば分かるさ」
「そうか、確かにあれはティーネがハルにやったプレゼントだよ、ハルも嬉しそうにしていた、大切にするって」
「分かるさ、そうだろうと思ったから、僕が丁寧に手洗いして乾かしておいた、すっかり元の通りさ」
卓上にあった革袋をポンと投げてよこす。
受け止めて袋を開くと、中に柔らかな毛のベストが畳まれて入っていた。
「その袋は僕が作った特別製だ、今度は水に濡れても、外から圧や衝撃が加わっても、中のベストは痛まない、そう簡単に破れもしないぞ」
「凄いな、どうやって作ったんだ」
「それはいつも通り企業秘密さ」
そう、こいつは手製の道具の作り方を教えようとしない。口頭で伝えるのが面倒なんだそうだ。
作るところを見せてはくれるんだが、毎度よく分からないうちに出来上がっている。もしかしたら自作の魔法で作業の補助をしているのかもしれない。
だとしたらそっちの方がよっぽどとんでもないけどな。
魔法なんて簡単に作れるものじゃない。
まあ、ロゼならやりかねないとは思うが。
「ハルの繕いものが終わったら、次は君の繕いものをするぞ、リュー」
「助かる、いつもすまない」
「君達の世話をするのは僕の趣味みたいなものだから気にしなくていい、それより風呂にでも入ってきたらどうだ?」
「あ、ああ」
そういえば埃っぽいまま寝てしまった。
臭うか? いや、とにかく風呂に入ってこよう。
「リュー」
ロゼに呼ばれて、服を嗅いでいた顔を上げる。
「ハルを王都へ無事に連れていくぞ」
しかつめらしいその声に、前髪の影から覗く瞳を見つめ返して「ああ」と頷いた。
俄かに身の引き締まる思いがする。
「これは僕ら兄の務めだ」
「分かっている」
「うん、だが」
ふっと気配が和らいだ。
ニコリと笑ったロゼが、針を持つ手を振りながら「なによりこの旅を楽しもうじゃないか」と声を弾ませる。
「君達に色々なものを見せてやりたい、この国は広いぞ、面白い場所や物が沢山ある、なにより兄妹三人、水入らずの旅だ」
「モコもいるぞ」
「ああ、そうだったな」
あからさまに鬱陶しそうな顔をするなよ。
「よりによってラタミルか」
「ああ、帰って驚いたよ、ハルは気付いていなかったが」
「雛なんてそう落ちてこないからな、落ちてきたところで魔物に食われるか、はたまた人に捕まるか、どのみち長い命じゃない」
「嫌なこと言うなよ」
「事実さ」
まあどうでもいいけどね、と話を切り上げて、ロゼは繕いものを再開させる。
この話題は気に入らないようだ、やれやれ。
「なあロゼ、風呂に行く前にあと一つ訊いてもいいか?」
「幾らでも喜んで、君なら大歓迎さ」
「ハルを助けてくれた冒険者、彼はハーヴィーじゃないかと思うんだ」
縫う手を止めてロゼが振り返った。
「それは何故かな?」
「話を聞いて気になったことが幾つかある、例えば―――」
ハーヴィー
海に住まう大海の神の眷属、酷く頑迷で閉鎖的で、生涯海から離れることはないと聞いている。
それがどうして冒険者に身をやつしているのか、何か事情でもあるんだろうか。
「川の水を呼び込んで脱出する、なんてことを、普通は考えないだろう?」
その場所は地下だ。
壁は厚く、壊せるなどとは到底思えない。そもそも壊したところでどのみち地下だ、状況が好転するわけでもない。
よしんば壁の向こうに通路があると分かったところで、その先が地上に繋がっている保証はない。
だったら今いる場所の崩落を招きかねない以上、無暗に壊そうなどとは考えないだろう。
俺なら、取り敢えず今いる通路の端まで行って、改めて手段を模索する。
端は地上に繋がっているかもしれない。
グランドクロウラーがうろついている以上じり貧だが、それはそれとして何かしらの手段や対策を講じる。
かなり絶望的な状況だが、それでも壁を壊して水を呼び込み泳いで逃げだす、なんてこと真っ当な冒険者ならまず考えないという話だ。
俺達は陸で暮らしている、水生生物じゃない。
いきなり流れ込んできた大量の水に抗い、泳いで穴の外へ抜け出せるのか?
水の勢いで辺りが崩れ落ちて生き埋めになったら? その危険から逃れるためには、土壁が崩れるより速く泳がなければならない。
しかも水圧によって川へ吸いだされたグランドクロウラーの巨体を避けながら、だ。
―――できるわけがない。
「それにその少年は不思議な形の槍を使っていたそうだ」
「へえ、それはどんな?」
「先が三つに分かれている槍だよ」
思い浮かぶのは三叉槍、トライデントという槍だ。
先が三又に分かれて、更にその先端にそれぞれ返しがついている。
単に武器として扱うならば、槍に刺すのみならず、返しを引っ掛けて捕えるような機能は必要じゃない。トライデントは魚を捕るための銛が進化したものだとも聞く。
この槍を好んで使う者、そして、あんな常人には到底及ばない脱出方法を考案し実行できてしまう者。
可能性を組み合わせた時、件の眷属が頭をよぎった。
「ラタミルに続いてまさかとは思ったんだが」
「ふむ、確かにハルとあの雛を抱えて、地下の壁を破り川へ泳いで出るなんて芸当、ハーヴィー以外にはまず無理だろう」
「ハーヴィーコールを使ったんだろうか」
「恐らくそうだろうね」
ハーヴィーは彼らの神の加護により、どんな場所でも水を呼ぶことができると聞く。
いまいちぼやけたハルの説明も、少年がハーヴィーだと仮定するなら一応納得はできる。
「ただ、そのことをどうしてハルが隠そうとするのかまでは、流石の僕にも測りかねるが」
「そうだな」
まあ何となく想像は付く。
海神を信仰している漁師や海辺に住む人々以外は、大抵がハーヴィーは恐ろしい存在という認識だ。
そこであえて名乗らないだろうし、ハルもその辺りを慮って俺達に隠したんだろう。少し寂しい気もするが、ハルの優しさを無下にはしたくない。
「まったく、可愛がりがまだ足りていないということか、僕はお兄ちゃんだぞ、もっと信用して欲しいものだ」
「そう言うな、ハルなりの気遣いだろう」
「年頃の妹が知らない男の事情を黙っているんだ、何かあるんじゃないかと勘繰りたくもなるだろう」
「お前ってそういうところ意外と下世話だよな」
「これはあくまで一般論だ」
はいはい、まあ、今のハルには縁遠い話だろう。
一応獣人の可能性も伝えてみたんだが、ロゼの見立ても少年はハーヴィーでほぼ確定とのことだった。
「しかし、あんな奴らに借りを作るハメになるなんて、ハーヴィーはしつこいぞ」
「俺が来る前に退散したなら、またどこかで会わない限り接点を持とうとしないだろう」
「そういうフラグを立てるな、リュー、僕はハーヴィーなんかに会いたくないし、あの雛だって本当は適当なところへ捨て、いや、置いていきたい」
「そうだな、そのために大神殿へ向かうんだよな」
「王都の近くじゃないか、当分一緒だ」
「ハルがそれを望んでいる」
「うぐ」
大体、件のハーヴィーの少年はハルの命の恩人、如いては俺達にとっても大恩人だ。
ロゼだって分かっているだろう。それで拗ねているんだから、世話が焼けるのはどっちだって話だ。
「リュー、一応言っておくが、だからって僕は君を責めているわけじゃないぞ」
「はいはい」
「心底不本意だ、元をただせばあの嵐が全ての元凶か、いっそ吹き飛ばしてしまえばよかった」
「おいおい」
ぶすくれながらまたチクチクとハルの上着を縫い始めるロゼに、軽く肩を竦める。
「それじゃ、そろそろ風呂を使わせてもらってくる」
「ああ、今頃はちょうど男湯だろう、僕の名前で伝えてあるから主人に言って鍵を借りなさい」
「分かった」
「僕も一緒に行こうか?」
何故?
顔を上げたロゼと暫し見つめ合う。
「お兄ちゃんが一緒じゃなくて平気か?」
「あのな」
「もし裸をじろじろ見る奴がいたらあとで教えなさい、目を抉ってやろう」
「言わないしいないよ、一人で大丈夫だ、じゃあな」
「リュー」
まったく何を言っているんだ、ハルだけじゃなく、俺のことも過保護気味なんだよな。
何か言いたげな気配を背中に感じながら部屋を出て、宿の廊下を進んでいく。
大体お前まで一緒に風呂に入ったら、あの部屋にはハルとモコだけになる。その方がよっぽど気懸りじゃないか。
「さて、と」
ハルが起きたら、まず風呂を勧めて、それからどこかへ飯を食いに行こう。
落ち着いたら先のことを話さないとな。
長い旅になる。
後悔を積み重ねずに済むよう、俺も改めて腹を括りなおさないと。
あいつの兄として、俺にしかできないことがある。
必ず王都へ無事に連れていくよ、待っていてくれ―――母さん。




