大いなる古老
「えッ」
セレスも驚いてる。
あれって亀の甲羅に似た形の、ただの岩じゃないの?
「ほ、本当に亀の甲羅だったのか」
「ええ」
ヴァニレークはイタズラっぽく笑う。
「ただ、今は眠っておられるので、近付いてもただの岩にしか見えませんクゥ」
「オルト様と同じようにか?」
「いいえ、カルーパ様はディシメアー近海を遍く知覚するため五感を封じ、眠りの中で我々を見守っておられるのです」
「すごいな、そんなことができるのか」
オルト様の眠りと違って、カルーパ様はご自分の意志でああしてディシメアーの海を守っているんだ。
子分たちに促されて乗船すると、海賊船は岩場を離れて海をゆっくり進み始める。
うわぁ、船から見る景色も凄くいい、吹いてくる潮風も気持ちよくて楽しい!
ネイドア湖の帆船には乗れなかったから余計に嬉しいよ。
「カルーパ様は我々と念話で語られますクゥ」
「ねんわ?」
「頭に直接話しかけてこられるのですクゥ、カルーパ様はオルト様の僕を統括されるお立場なのですクゥ」
「それじゃ、オルト様が眠っておられるのもご存じなのか」
「勿論ですクゥ」
ヴァニレークは俯いて溜息を漏らす。
「ですが古老はいまだ何も、ただ時を待てとしか仰りませんクゥ」
「時を待て?」
「はい、いずれ時が訪れたら女神は目を覚まされると、だから我々はオルト様が目覚めるまで、自らとこの海を守ることに専念すると決めたのですクゥ」
「それでバニクードたちと対立したってわけか」
「その通りですクゥ」
どこか寂しそうなヴァニレークに、本音はバニクードと仲直りしたいんじゃないかって気がした。
昨日も言い争っていたけど、二人でロゼの手助けに向かってくれたよね。
もしかしたら二人は友達だったのかもしれない。
「アイツは、これ以上は待てないと、確かに我らの同胞や僕、ハーヴィー様までもが海に現れ始めた魔物に多数食い殺されましたクゥ」
「そうか」
「オルト様の加護が薄れ、魔物は増え続けておりますクゥ、しかし古老は待てと仰った、その言葉を違えて血を流し、更なる犠牲を出してしまっては、お目覚めになられたオルト様は深く嘆かれることでしょうクゥ」
「それは分かるが、俺も後手に回るのは上手いやり方じゃないと思うぞ」
「では我々に戦えと?」
「いや、君達の主張を曲げてまで傷つく必要もない、これは難しい問題だな」
「同感ですクゥ、カルーパ様の仰られる『時』は一体いつくるのか」
「それははるだよ、かるーぱ、はるをよんだよ」
セレスが「えっ」とモコを振り返る。
ヴァニレークたちも唖然とモコを見上げた。
―――どういうことなの、モコ?
「呼んだって、いつ」
「かるーぱ、きのうゆめではるをよんだよ」
「あの夢をモコも見たの?」
「ううん、ぼくゆめみない、でもみえた、だからうみだよっておしえた」
今朝の、あの時の?
甲板に動揺が広がっている間に、海賊船は甲羅岩のすぐ傍まで来ていた。
こうして見上げると本当に大きい、小さな山くらいありそう。表面にたくさんのコケや不思議な形の生き物が張り付いている。
「この近くへヒトや船は滅多に来ませんクゥ、来てもハーヴィー様が追い払われるので、避けられているのですクゥ」
「大きいね」
「ええ、こちらがカルーパ様でいらっしゃいますクゥ」
船べりから眺めていたら、不意に岩が―――動いた。
「なッ」
固まったヴァニレークたちはまた甲板を脚で叩いて鳴らす。
海上がうねり、膨らんだ波の奥から何かがゆっくり、ゆっくりと浮かび上がってくる。
やがて飛沫を上げて現れたのは、頭?
左右にすうっと切れ込みが入って、開いた目が真っ直ぐ私を見詰める。
―――あの目だ。
夢に現れた、あの目。
『よく来てくれたね、満ちし子よ』
頭の中で声が響く。
驚いて後退りした私を、セレスが後ろから支えてくれる。
『待っていた』
「わ、たし、を?」
『そう、エノアから花を贈られた、君こそが満ちし子、我々はずっと待っていた』
どういうこと?
どうしてエノア様の花のことを知っているの?
それに(満ちし子)って。
『君はハルルーフェ、とても良い響きだ』
「えっ」
『オリーネの胎にいた頃から君を知っている』
「どうして、母さんのこともご存じなんですか?」
『勿論、祝福されしオリーネ、そして満ちし子ハルルーフェ、君だけが千の時を経て真の安寧をもたらすことができる』
何の話をしているんだろう。
混乱する、訳が分からなくて怖い。
セレスが私の肩を掴む手にぐっと力を込める。
その感触とぬくもりのおかげで少しだけ落ち着いた。有難う、セレス。
「あ、あの、私を待っていたって、それに、あの夢って!」
『ハルルーフェ、君に頼みたい、どうかオルト様を目覚めさせて欲しい』
「えッ」
ヴァニレークたちが一斉に私を見上げる。
そんな、どうやって。
『私にはできない、だが君にはできる、だから頼む』
「私も分かりません!」
『いいや、君なら分かるよ、大丈夫』
そんなこと言われても知らない、分からないよ。
任せられても困る、責任なんて取れない、約束だって出来ない。
モコが私の手をギュッと握る。
「だいじょーぶ」
「モコ?」
「ぼくいる、せれすもいる、かいもいる」
「カイも?」
頷いたモコは、今度はカルーパ様を見上げた。
「かるーぱは、だいじょぶ?」
『ふふ、お久しいですな、無論ですとも、どうかお気になさらず、私ならばとうに覚悟はできております』
「ぼく、わかんないけど、でも、わかるよ」
『そうでしょうとも、ご安心ください、お役目はしっかり果たしましょう、ですが』
「だいじょぶ?」
甲羅が揺れる。
カルーパ様は笑ったみたいだ。
『いいえ、心配です、どうかあの方の涙を拭って差し上げてください、満ちし子よ、とても情の深い御方ゆえ、きっと大いに嘆かれる』
「あの方って、オルト様のことですか?」
『よろしくお願いいたします』
目が閉じる。
首はまたゆっくり海の中へ沈んでいく。
「待って、待ってください! 私まだ何もッ、そんなこと言われたって、何も分からない!」
『時は満ちた、今はただ、流れに身を委ねるのみ』
「カルーパ様!」
青い水面の奥へ沈んだ首はもう影も見えない。
甲羅も動かなくなって、またただの岩に戻ってしまった。
―――どうして私?
またなの? こんなことになるなんて。
ヴァニレークたちが期待のこもった眼差しを向けている。居たたまれない、本当に何も分からないのに。
もし私がオルト様を目覚めさせられなかったら、この海は、ハーヴィーやオルト様の僕は、ヴァニレークたちはどうなるの?
『満ちし子』ってどういう意味?
考えても何も分からない、混乱するばかりで、状況に気持ちが置き去りにされるみたい。
―――怖いよ。
「ハルちゃん」
「はるぅ」
心配そうなセレスとモコに「平気」って答えようとしたけど、言葉がつかえて出てこない。
顔も強ばってうまく笑えない。
「お嬢さん、いえ、ハルルーフェ様」
ヴァニレークが近づいてきた。
「貴方様が、カルーパ様の仰られていた『時』であらせられたのかクゥ」
「分かりません、あの、本当に私何も知らないし、分からなくて」
「しかし古老のお言葉ですクゥ、ならば貴方こそが我らが長らく待ち望んだ救い主であられるクゥ」
「でも」
「待ってくれヴァニレーク、彼女はまだ混乱しているんだ、ひとまず船を岸へ戻して欲しい」
セレスの言葉に、ヴァニレークは少し考えこんでから、子分たちに船を動かすよう伝える。
「ハルルーフェ様」
「はい」
「貴方様がどう仰られようとも、我らはカルーパ様のお言葉を汲み、協力を惜しみませんクゥ」
「それは」
「古老カルーパ様はオルト様のもっとも古く、最も信厚い僕、彼の方があのように仰られるのなら、オルト様には貴方様のお力が真実必要なのですクゥ」
「ヴァニレーク、だけど」
「よくぞお越しくださいましたクゥ、我らが救い主よ」
ヴァニレークと、甲板の子分たちもそろって私に恭しくお辞儀をする。
どうすればいいの。
期待されても、だって―――ううん、そうじゃない、考えよう。
何ができるか分からない以前に、まだ何もしていない。
やれるだけやってみるんだ。
もし上手くいかなくても、私にはセレスも、モコも、兄さん達だっている。きっと皆が助けてくれる。
それにしても、眠りを覚ますとはいっても、オルト様はどこにいらっしゃるんだろう。
海は広い。
私はまだオルト様の居場所さえ知らない。
ヴァニレーク達に訊いてみたけど、分からないって申し訳なさそうに答えられた。
カルーパ様はまた眠ってしまわれたようだし、他に誰か知っていそうなのは、ハーヴィーかな?
―――海賊船は飛沫を上げながら、さっきの岩場まで私達を運んでいく。




