波音の夜
「どうして私なんだろう」
口に出して呟いていた。
今はもう夜、閉じた窓の向こうで星が瞬いている。
―――ロゼから『決して一人にならないように』と釘を刺されて、話はおしまいになった。
海底の建物が何に使われているのかまだ分からないし、ピンクのイルカのことも今は様子を見るしかない。
兄さん達はまた明日、色々と調べるつもりでいるらしい。
モコはずっと私の傍を離れようとしない。
セレスも心配してくれる。
夕食はリューが美味しいクリームシチューを作ってくれたけど、あまり食欲が湧かなくて、ポブルのパイも一切れしか食べられなかった。
お湯を貰って、寝る支度をして、今はベッドの中。
枕元で小鳥の姿になったモコがうずくまっている。
星明りが照らす窓辺に、今も波の音が寄せては返す。
どうして私なんだろう。
妖精の恩人、それだけなら私じゃなくてもいいはず。
本当は何となく分かっている。
エノア様から贈られた花、ポータスとトゥエアを咲かせることができるのは私だけ。
そしてピンクのイルカはオルト様の僕だ。
また夢を見たような気もする、内容はよく覚えていないけど、きっと関係している。
それは何?
ロゼが言っていた、海底の建物の中にいる『よく分からないもの』って一体なんだろう。
怖い。
よく分からないもの、そう聞いて思い出したのは、ネイドア湖の大蛇や、私は結局見なかったけれど、サマダスノームのキメラだ。
そんなものがいる建物にイルカはどういう理由で人や獣人を連れていくの?
楽園はとてもいい所で、だから誰も帰ってこないんじゃないかって、その噂は誰が流したの?
悪い予感ばかり膨らんでいく。
ため息を吐いて寝返りを打ったら、隣のベッドで横になったセレスがこっちを見ていた。
「ハルちゃん」
「セレス」
モコが喉をクルクル鳴らした。
「やっぱり不安なのか?」
「うん」
「そうだろうな、イルカの狙いは君なのか、それとも、君だけが咲かせることのできるあの花なのか」
「えっ」
「そんな気がしたんだ、師匠は妖精の恩人だからと仰っていらしたが、それならリュゲルさんでも構わないだろう、師匠だっていいはずだ、まあ不敬だが」
「そう、だよね」
「そもそもエノア様はなぜ君に花を授けられたんだろう」
「それは、私にも分からないよ」
私は、自分では普通で、どこにでもいる一人だって思ってる。
ずっとノイクスにある大きな森の小さな村で暮らしていて、最近になって外の世界を知ったばかりの、ただの十五歳だって。
だけど違うのかな。
そんなわけないよね、確かに兄さんの一人がラタミルで、ラタミルとハーヴィーの友達まで出来たけど、兄さんのことは最近まで知らなかったし、モコやカイと知り合ったのも成り行きだ。
「ねえ、セレスはどう思う?」
「ごめん、私にも分からない」
でも、とセレスは起き上がってベッドから降りると、私のベッドまで来て端に腰掛けた。
「君が旅に出てくれたから、私は君と出会えた」
白い手が私の髪をそっと撫でる。
「私は、知ってのとおりアサフィロスで、だけど小さな頃から王子として育てられた、王宮ではいつも兄上たちや姉上の顔色ばかり窺っていたよ」
「うん」
「思いがけず生まれた末子だったからな、父上や母上、城の皆は可愛がってくれたが、私は兄上や姉上に兄弟として認められたかった、その思いは今も変わらない」
「どうして、だって、血が繋がっているのに」
「血縁だけじゃどうにもならないこともあるのさ、兄上たちや姉上は私に興味がないんだ、兄弟として扱ってくださったこともない」
「おっと、いけない」不意にセレスは笑う。
星明りが照らす姿は光の化身みたいに眩しくて綺麗だけど、なんだか寂しい。
「またつまらない話をしちゃったな、私は君と、師匠と、リュゲルさんやモコちゃんと出会えて、世界が一気に広がった、だから感謝しているんだ」
「セレス」
「特に君と出会えたこと、私にとって一番の奇跡で、とびきり最高な出来事だ」
オレンジ色の瞳が優しく眇められる。
「君と一緒に過ごして自信が持てた、兄上に逆らって城を飛び出すなんて、かつての私じゃきっと思いもよらなかったよ」
「それは、ベルテナと結婚していたかもしれない、ってこと?」
「ああ、想像するのもおぞましいが」
嫌だ。
やりきれない気分で無性に腹が立った。
手を伸ばしてセレスの手に触れると、少し驚いた様子のセレスは、クスッと笑って私の手を握る。
ベルテナになんか渡さない。
だって、あの子はセレスのいい所を一つも見ようとしていない。
セレスの個性だって認めようとしない、そんな人にセレスを任せられない。結婚なんて絶対に嫌だ。
「だから君に恩返しがしたい」
「そんなのいいよ」
「私の気持ちだ、受け取ってくれとは言わないから、せめて君を支えさせて欲しい」
「うん」
「君だけは何があっても必ず守るよ、ハルちゃん」
握った手を持ち上げて、甲に唇が触れる。
セレスにキスされた。
物語で読んだ騎士のキスだ―――そういえばネヴィアで別れる時も鼻の頭にキスされた。
心臓がドキドキ鳴ってうるさいくらい。
胸が苦しい、唇を噛む私を見てセレスがフフっと肩を揺らす。
「どうかな、少しは不安を晴らせたかな」
「うん」
「それはよかった、早速君の力になれて嬉しいよ」
セレスはいつも優しい。
それに私を勇気づけてくれる。
私からも恩返しがしたいよ、セレスがいてくれるだけでこんなにも嬉しい。
「おやすみハルちゃん」
解かれた手が、私の髪をそっと撫でる。
「また明日、いい夢を」
立ち上がって向かいのベッドへ戻っていく背中に「おやすみなさい」って声を掛けた。
振り返ったセレスは笑って、ベッドに横になって目を閉じる。
私も仰向けで瞼を下ろした。
ああ、潮騒だ。
まだ早い心臓の音と重なる、ふわふわ、ゆらゆら、心と体が波のように揺れている。
今も海の底で眠っているオルト様。
だけど人の眠りと違って、神の眠りは仮死状態みたいなものだってカイは言っていた。
海からゆっくり加護が失われて、僕たちは狂い、妖精同士で争い合っている。
眠っているオルト様は何も知らないのかな。
それとも、今も夢の中で、少しずつおかしくなっていく海を哀しんでおられるのかな。
――――――――――
―――――
―――
青い。
果てしなく青くて、暗い。
―――深い。
「待っていたよ」
聞こえて振り返ると、大きな目があった。
その目と目が合う。
「怖がらせてしまって、すまないね」
穏やかな声だ。
「夜が明けたら、私の元へ来てもらえないだろうか」
君にお願いしたいことがある。
ゆっくり瞬きをした目は、困ったように細くなった。
「私は老いて、力もすっかり失ってしまった、どうすることもできないんだ、どうか助けて欲しい」
私に?
「そうだよ、我々は君を待っていたんだ、ずっと、ずっと待っていた」
大きな手にそっと触れられる。
花が咲いた。
ポータス、トゥエア、私だけが咲かせられるエノア様からの贈り物。
「どうか、あの方を呼び起こしておくれ」
大きな瞼がゆっくり閉じていく。
闇が震えた。
「このままでは多くの愛しい者たちが失われ、あの方は嘆かれるだろう―――君の愛を、君の声で、どうかあの方に届けて欲しい」
――――――――――
―――――
―――
目を開く。
朝だ。
ぼんやりしたまま「どこへいけばいいの?」と呟いた。
「うみだよ」
声のした方を見ると、小鳥姿のモコが首を傾げる。
今日も真っ白でフワフワ、可愛い。
手を伸ばして首の辺りをコチョコチョくすぐった。
「ううーっ、はるおはよ、くすぐったいよ」
「フフ、おはようモコ」
「ハルちゃん起きたか、おはよう!」
セレスが覗き込んでくる。
もうすっかり着替えも済ませて、今朝も早いなあ。
毎朝鍛錬しているんだよね、私も早起きを心掛けるべきかな。
「おはようセレス」
「どうやらちゃんと眠れたようだな、けど、また夢を見たのか?」
「うん、変な夢だった」
「一応師匠とリュゲルさんにご報告しておくか」
「そうだね」
あの目、誰の目だろう。
なんだか悲しそうだったな。
それにあの手、あれって何の手だろう、手というかヒレ? うーん、陸の生き物ではなさそうだった。
考えても思いつかない、絵に描いてロゼに見せたら教えてくれるかな。
とにかく着替えよう。
ベッドから降りて服を脱ごうとしたら、セレスが急に「わッ、わッ」って慌てて向こうを向いた。
「あ、あのさ、ハルちゃん、その、今更だけどもう少し私のこと意識した方がいいぞ」
「どうして?」
「だってその、アサフィロスだから、半分は男なんだ、知ってるだろ」
「でも今は女の子でしょ」
「そうだけど、そういう事じゃなくて」
「女の子ならいいよ、セレスは平気、だって友達だし」
「ううっ、嬉しいような悩ましいような複雑な気分だ、友達ならいいってものでもないと思うが、はぁ」
なんだか落ち込んじゃった。
とにかく、支度を済ませて兄さん達のところへ行こう。
窓の外は今日もいい天気だ。
鳥の鳴き声が聞こえる、昨日の浜でまた泳ぎを習うんだ。
イルカのことは心配だけど、兄さん達も、セレスも、モコだっているし、きっと大丈夫。
私も十分気をつけよう。




