平手:リュゲル視点
ハルが人を叩くところを始めて見た。
こいつは優しい子だ。
いつも周囲を気遣い、相手を慈しみ、尊重し、無用な暴力を好まない。
そのハルが、友達だと話していたカイに手を上げた。
―――俺のために。
悔しそうに涙を溢して、強ばった体を震わせている。
「ハル」
もういい、と肩に手を置く。
こんな真似をさせてしまった俺の落ち度だ、お前は何も悪くない。
「すまないな、カイ」
呆然と立ち尽くしていたカイは、ふいと顔を背けてそのまま行ってしまった。
彼の頬、腫れなきゃいいんだが。
これでハルは見た目よりずっと力がある、恐らく結構痛かっただろう。
酷く動揺していなければいいが、次会った時は謝らなければ。
「兄さんごめんなさいっ」
しがみ付いてくるハルを受け止めて「いい」と髪を撫でる。
俺こそ謝らなければいけない。
「セレスも悪かったな、俺のせいで」
「なッ、何を仰られるんです、謝るなんてやめてくださいッ、私はただ腹が立っただけです!」
「だが彼は友人だろう?」
「だからといって何でも言っていいわけじゃない、それにアイツはワザと貴方に喧嘩を売った、私にはそう見えました!」
そうなのか?
だとすれば、あの言葉はもしかしたら俺にだけ向けた言葉ではなかったのかもしれない。
彼から仄かに覚えた後ろ暗い雰囲気、その訳に繋がっているのだろうか。
―――いきなり胸をドンッと叩かれて、驚いて目を向けるとハルが睨み上げてくる。
「どうして兄さんが謝るの? やめてよ、バカッ、謝ることなんて何もないでしょ!」
「ハル」
「セレスだって怒ったのは兄さんが好きだからだよ、幾らカイでもあんなこと言われたら腹が立つよ、なのに兄さんが謝ったら私達の気持ちはどうなるのッ」
「そう、だな」
「兄さんのバカ、何にも分かってないんだから、バカッ」
傍に寄ってきたモコがハルにぺたりとくっつきながら「だいじょーぶ?」と気遣う。
セレスももどかしそうに黙り込んでいる。
ああ、俺は本当に至らないな。
「ハル」
ハルと、モコもまとめて抱きしめる。
こんなに泣かせてしまった、心配をかけてしまった、いくら後悔したところで起きてしまった出来事を取り返せるわけでもない。
後でロゼにも叱られるかもな、まったく、本当に兄失格だ。
「有難う」
「うん」
「モコも、お前達にそんな顔をさせたこと、反省するよ、すまない」
「兄さん?」
「これくらいは謝らせてくれ、だけどこれ以上はもう謝ったりしないからさ」
「それならいい」
顔を上げてセレスにも「有難う」と告げると、はにかんで笑う。
もっとしっかりしなければ。
俺はきっとお前たちを守る、兄として、仲間として、お前達を本当に大切に想っているんだ。
ハルとモコを抱く腕を解きながら、カイが歩き去っていった方へ目を向けた。
彼は恐らくハーヴィーの少年。
オルト様の神殿があるここディシメアーにいても不思議はない。
しかし、確か彼は何かしらの事情があって旅をしているんじゃなかったのか?
偶然立ち寄っただけか、それとも訳があるのか。
ハーヴィーなら今この海で起きていることに妖精たちよりもっと詳しいかもしれない。
「ねえ、あのね兄さん」
ハルが控えめに俺の服を引いて話しかけてくる。
「カイはね、その、普段はあんなこと言う人じゃないんだよ?」
「ハルちゃん! アイツは元々失礼な奴だろ!」
「でも、確かに言葉遣いは荒っぽいけど、私もセレスも何度もカイに助けられたよ」
「それは」
「さっきのカイ、ちょっと様子がおかしかった気がする、どうしたんだろう」
「だとしてもリュゲルさんとは初対面だ、しかもハルちゃんの兄君だ、到底許容できる態度じゃない」
「せれすはかいきらい?」
「嫌いだね、あんな奴」
そう言って、セレスはハッとハルを見て、気まずげに視線を泳がせる。
ハルは少し寂しげだ。
「そ、そういやハルちゃん、手は平気か? 痛かったりしない?」
「うん、平気」
さっき平手を張った手を見詰めながら「きっとカイの方が痛かったと思うよ」と呟くハルに、胸が痛む。
「なあハル、セレスとモコも、戻る前に繁華街へ行かないか?」
「え?」
「買い物をしに行こう、夕飯の食材と、何かおやつを作ってやる」
「おやつ!」
モコが目を輝かせてピョンと跳ねた。
「りゅー、おやつなに? なにつくってくれる?」
「俺が作れるものなら何でも、三人で相談するといい」
「うひゃあ! ねえはる、せれす、そーだんしよ! おやつなにがい? ぼくねえ、ぼくおいしーのがいい!」
ハルとセレスはモコを見て、顔を見合わせて笑い合う。
よかった、やっと笑顔を見せてくれた。
「私はチョコレートが食べたいな」
「ちょこれーと! ぼくも! ぼくもはるといっしょがい!」
「セレスは?」
「え、私はなんでもいいよ、作っていただけるだけ有り難いから」
「遠慮しなくていいよ、兄さん、おやつで私達の機嫌を取ろうとしてるんだ」
「おいハル」
その通りだが、まいったな。
やっぱりお見通しか、まあ、俺にはこれくらいしかできないからな。
「いやでも」
「セレスはクリームがいいんじゃないか?」
「えッ」
実は知っている、というか気付いていた。
セレスは乳を使った食品や料理全般が好みだ。
チーズ、ヨーグルト、バターにクリーム、シチューはクリームシチューが好きだし、粥にも乳が入っていると喜ぶ。
「そうだね、セレスってクリーム好きだよね」
「ハルちゃんにまでバレてたのか?」
「見てたら分かるよ」
「あー、ええと、実はそうなんだ、乳製品全般、あと甘い果物も好きだ」
それならチョコレートタルトだな。
フルーツで飾り付けて、クリームチーズをたっぷり添えよう。
そう三人に提案してみたら、早速大喜びされた。
「たるとっ、たーるとっ、ちょっこれーとのたーるとっ」
「楽しみだね、モコ、セレス」
「う、うん」
「買い物行くぞ」
「はーい!」
「あの、有難うございます」
繁華街へ向かう。
ハルとセレスは、真ん中にモコを挟んで三人で手を繋いで歩いている。
こうして眺めていると本当に姉妹みたいだ。
つい口元が綻ぶ。
今日は三人と、今海底で調査してくれているロゼのために、いつも以上に腕を奮おう。
「皆さん、お聞きください!」
不意に声が響く。
また路上でガナフが演説している。今朝と場所を変えたのか、迷惑なことだ。
相変わらず差別と偏見まみれの弁舌に嫌気がさす。
聞かないよう耳を塞ぎながら三人を促し、さっさと立ち去ろうとした。
「これはまだ世に明らかにされていない事件なのですが、ひと月ほど前、獣人特区にて大規模な暴動が起こりました!」
咄嗟に足を止める。
往来を行き交っていた人々の何人かも怪訝そうにガナフの話に耳を傾けている。
ハル達は唖然とガナフを見て、振り返り俺を見上げた。
「欲望に身を任せ破壊活動を行った暴徒たちのせいで特区は壊滅的な被害を受けました、彼らの本質はやはり獣同然、我々人同様の社会性も理性も持ち合わせてなどいない!」
特区の騒動をどうしてガナフが知っている?
代表指示で内部に厳しくかん口令が敷かれ、いまだ閉鎖中の特区から情報が漏れる理由など、内通者がいる以外考えられない。
やはり一枚噛んでいるのか、時期的にあんな騒動が起きたこと自体怪しい。
件の事件の裏には獣人を狂わせる粉が、ベルテナが、そして魔人が深く絡んでいる。
つまりガナフはあの粉にも関わっている可能性がある。
―――代表にも一応知らせておくべきだろう。
ベルテナと関わりがある可能性を考えると、まさかと思うがセレスの次兄とも繋がっているのか?
それはまだ結論を出すべきではないな。
とにかく状況は非常によろしくない。
ガナフが語る特区の暴動は恣意的に不安や恐怖を煽るような内容に改変されている。
殆ど事実だが、原因や顛末などは事実とは程遠い、ガナフの話では獣人たちは獣の本性に狂って内輪で殺し合い、特区内に今も死体の山が積み上がっていることになっている。
そんな話を聞かされて、これからは過去の差別から脱却し、獣人と手を携えて国を作ろう、なんて考えに至るわけがない。
だがこんな与太話をさも真実のように語るペテン師がこの国の代表になれば、獣人だけでなく人までよからぬ目に遭うだろう。
彼が作るこの国の未来に、獣人は勿論、人にとっての光も恐らくはない。
「ねえ兄さん」
「行こう」
「でも」
「今はどうすることも出来ない、代表には連絡しておこう、聞き流しておけ」
差別は根の深い問題だ。
だがベティアスは変わろうとしていると代表は語っていた。
なら俺達もその言葉を信じよう。
あの男も恐らくは近く尻尾を出すことになる。
今この海で起きていること、僕のイルカに連れ攫われる人々、深く眠りについた海神オルト、その全てが繋がっているような予感がしている。
賑やかな繁華街へ着いても浮かない顔の三人に、目についた屋台で飲み物を買ってやった。
生絞りした果物の新鮮なジュースだ、少しは気晴らしになるといいが。
「んッ、ハルちゃん、これ美味いぞ、一口飲んでみなよ」
「本当だ、甘くておいしいね、何のジュース?」
「ミグファだったかな、マンゴーの近縁種らしい」
「マンゴー?」
「ベティアスで採れる名産品の一つだよ、こう、楕円の黄色い実でさ」
「ぼくも、ぼくも!」と騒ぐモコに、三人はそれぞれ違う飲み物を回し飲みして感想を言い合う。
元気になってくれたようだな、よかった。
さて、食材店はあれか、今更だが一度荷物を置いてくるべきだった。
ロゼが戻ったら、さっきの件も併せて話し合っておこう。
海底の建造物、まだ壊すなとは言っておいたが、状況次第では今頃どうなっているか分からない。
この辺りの海で暮らすハーヴィーたちは、どうしてそんなものを放置したままにしているのだろう。
見過ごすとも思えないが、やはりさっきの少年、カイから話を聞きたい。だがあの様子では現状は難しそうだ。
澄んだ海色の目をしていた。
髪は黒く染めていたが、それでも地の青が陽にうっすら透けて覗いていた。
ハーヴィー、実際に見たのはこれが初めてだ。
水中では下肢が魚に変わるという、どんな様子だろう、その姿にも興味がある。
今思えば、彼はどこか焦れているようだった。
俺が不甲斐ないことに腹を立てているのだろうと思ったが、そこまでハルに入れ込んでいる様子でもなかった。
なら、彼が焦れた相手は俺に投影した誰か。
彼自身だろうか。
分からないが、もしかしたらカイは何かを悔いているのかもしれない。
「兄さん、今日の夕飯は何にするの?」
「ああ、肉たっぷりのクリームシチューだ」
「えっ」
「よかったね、セレス!」
「あ、うん」
「おにく!」
「それと、生憎リンゴはなかったがポブルが売っていた、だからポブルのパイも焼こう」
「やった! 嬉しい、有難う兄さん!」
材料は大片手に入ったし、そろそろ帰ってタルトを作ろう。
濃厚なチョコレートタルト、それとたっぷりのクリームチーズに時季のベティアス名産の果物、こいつらの喜ぶ顔が目に浮かぶ。
ロゼにも何切れか残しておこう。
後で話だけ聞くことになったらきっと拗ねる、それにアイツの喜ぶ顔も見たいからな。




