ドライアの大森林にて 6
「どうして?」
「どうしてもだ、それより行くぞ、のんびりしている暇はないって言ってるだろう」
カイ、なんだか様子がおかしい。
『パナーシア』は母さんから教わった。
だけど母さんにもあまり使わないようにって言われている。
病気や怪我を簡単に治せると知られたら、大勢の人が押しかけてきて村が大変なことになるから。
そんなふうに母さんは訳を話してくれたけど、カイも同じ理由であんなことを言ったのかな。
「ねえ、はる」
擦り寄ってきたモコの頭を撫でる。
「大丈夫だよ、それよりモコ、彼となるべくケンカしないでね」
「ぼく、けんかしてないよ」
モコ、随分喋れるようになったな。
ラタミルの成長速度って早いのかも、そのうち羽が生えて飛べるようになるかもしれない。
でも、羽の生えたモコって、それ以上に私が知っているラタミルの姿に変わったところなんて想像つかないよ。
オーダーで呼んだ精霊の光に照らされながら、暗く湿った穴の中をカイ、モコと一緒に駆けていく
「おい、そろそろ頃合いだ、ヤツを呼び寄せてくれ」
言いながら携帯型のカンテラに火を入れようとするカイに、分かったと返事をしてもう一つの香炉を取り出した。
「お前、オーダーを複数使いできるのか?」
「うん」
「つくづく無茶苦茶だな、頭が痛くなってきた」
「えっ大丈夫?」
「誰のせいだと思ってる、気にするな、いいからやってくれ!」
よく分からないけれど、とにかくやろう。
香りで魔物を呼び寄せたり操ったりするのは、オーダーの中でもコールって言って、やり方が少し違う。
だけど使う道具と手順は一緒だから、オーダーが使えるならコールも使える。ただ、呼ぶのはともかく操るとなると相応の魔力や技術が必要になってくるけれど。
それから、コールを使うと後の始末がちょっと面倒なんだよね。
バッグから取り出したオイルを香炉に垂らして、熱石に魔力を通す。
そして指先を噛んで、染み出た血を少しだけオイルに混ぜ込む。
こういう手順を踏むから、コールに使った香炉は洗浄しないとオーダーに使えない。血の臭気を好む魔物と違って、精霊は血に中てられて暴走するから。
「はるぅ」
モコの不安そうな声に重なるようにして、鳥肌の立つ咆哮が光の届かない闇の奥を震わせた。
足元に伝わる振動はやがて穴全体へ広がっていく。
「走れ!」
叫んでカイが私とモコの後方へ移動する。
「言ったとおり、俺に構うな、死ぬ気で走れ、絶対に足を止めるなよ!」
「はい!」
「おいラタミル、お前はそいつの邪魔をするなよ、こっちも奴の相手で手いっぱいだ、自分のことは自分でどうにかしろ!」
「もこだよ! はる、ぼくだいじょぶだよ!」
「頑張ろうね、モコ!」
「うんっ」
気配がどんどん近付いてくる。
振動も音もどんどん大きくなっていく。
気持ちの悪い臭い、また現れた、グランドクロウラーだ!
後ろでカイが怒号を上げる。
視界の端に戦う姿がチラリと映った。
もっと、もっと急がないと、走らないと、片方をコールで使っているから、オーダーはこれ以上使えない。
「はる!」
落ちてきた大きな石を避ける。
大丈夫、やり遂げてみせる。
湿った臭いが漂ってくる方へ、グランドワームをおびき寄せる方向を間違えるわけにいかない。
カイに指定されたのは大まかな位置だから、あとは感覚が頼りだ。
「くそっ」
「わッ、わぁああぁぁあ!」
地面が揺れて、足がもつれて転びそうになる。
小石や土がバラバラ降ってきてあちこちぶつかる、痛い、視界も悪い。
「はるぅッ」
オーダーで呼んだ光が消えそう!
このままじゃ真っ暗になる、思い切って壁の方へ駆けて、走る速度を少しだけ落しながらバッグを探ってオイルの瓶を取り出した。
「あッ」
手元が滑った!
オイルの瓶が! どこ? もう見つけられない!
「何やってるんだッ、走れ! 止まるな!」
ドンッと鈍い音がした。
振り返るとカイが倒れている。
ボロボロだ、酷い、グランドワームはすぐそこにいる。
どうしよう、心臓の音がうるさい、手が震える、どうしよう、どうしよう!
「ッくそ、おい!」
カイ!
立ち上がった、よかった!
でもフラフラしてる、あんなに頑張っているのに私は―――私も、頑張らないと!
「行けッ、走れぇッ!」
「はるぅッ」
モコ!
モコも土まみれだ、やるんだ、私がやらないと!
怖いのか、走り過ぎて疲れたのか、緊張しているのか、どれが理由か分からないけれど体の震えが止まらない。
何度も足がもつれそうになる。
酷い臭い、息が苦しい、誰か助けてって叫びたい。
リュー、ロゼ、母さん、私、私ッ、こんなところで死にたくないよ!
「ルッビス・ディフェソロー・ストウム!」
振り返って手をかざし、叫ぶ。
土の中からせり上がった岩の壁がグランドクロウラーを阻んだ。
やった、できた!
「やるな、助かった!」
「で、でもあまり長く持たないよ!」
「足止めになりゃ充分だ、お前も気合入れろ、片を付けるぞ!」
「はいッ」
駆け出して間もなく、背後で岩の壁の崩れる音が聞こえてきた。
やっぱり私じゃ無詠唱のエレメンツで充分に効果を発揮できない、グランドクロウラーの咆哮が辺りに響き渡る。
気持ちで負けたら負けるってロゼも言ってた。
最後は覚悟と気合だって、走れ!
あの時みたいに―――ここが崩れたら、今度こそ生き埋めになってお終いだ。
「その辺りだ!」
叫んだ直後に呻き声がして、何かがビシャッと髪や体にかかった。
クサくてドロッとした汁、グランドクロウラーの体液?
気持ち悪い、ゾワゾワっと鳥肌が立って立ち止まりそうになる。
「はるぅ」
モコにもかかったの?
振り返ると懸命に体を揺すっているモコにグランドクロウラーの巨体が迫るのが見えた。
「モコ!」
「このくそラタミルがぁッ」
間一髪でカイが助けてくれた。
抱えて飛んだ先は暗くてよく見えない。
心配だけど、私は私のやることをしないと。
また走り出した直後、いきなり背中を思いきり叩かれて、そのまま前へ吹っ飛んだ。
「オイッ!」
痛い。
苦しい。
転ぶ前に渾身の力でコールに使っている香炉を暗闇の奥へ放り投げる。
全身を強く打って、肌が擦れて、痛くて、涙が滲む。
むせ返るような酷い臭い、激しい息遣い、大きな気配がこっちへ向かってくる。
潰される。
逃げないと。
死にたくない。
体、動け、動け、うごけぇッ!
「ッく!」
いきなり抱えられて飛びのいた。
傍を臭くて大きな姿が勢いよく通り過ぎて壁へ突っ込んでいく。
もの凄い音、さっきまでと比べ物にならないくらいの地響き、どっと降り注いでくるたくさんの土や小石。
「くそっ、勢いが足りなかったか」
カイの吐き捨てる声がした。
助けてくれたんだ。
でも私は失敗した。
香炉を追いかけて壁に激突したみたいだけど、壁に穴を開けるまではいかなかった―――ううん、ほんの少しだけ水の匂いがする。
どうして?
考えている暇はない。
「は、離して」
「どうした」
「大丈夫、だから、まだやれるっ」
オーダーで呼んだ光はもう消えた。
辺りは真っ暗だ。
何も見えないけれど、匂いがする、気配が伝わってくる、覚悟を決めろ。
手をかざして、口の中に土が入らないように、少しだけ開いた唇の隙間からゆっくり息を吸い込んで。
「はるぅ」
そうか、モコも傍にいるんだ。
有難うカイ、私達の命の恩人だね。
今度は私が頑張る番。
私たち全員、生きてまた陽の光を浴びるんだ!
こんな、まだ旅に出たばかりなのに、こんなところで死んでたまるか!
「フルーベリーソ!」
暗闇の中で声を張る。
肺がキシキシ軋むように痛い、頑張れ、頑張れッ。
「咲いて広がれ、おいで、おいで!」
オーダーに使っている方の香炉からはもう殆ど匂いがしない。
オイルの瓶も落として失くした。
でも、それでも、やるんだ。
「私の声に応えておくれ!」
ズンッと押し潰されそうな沈黙があって、光がふわっと―――現れた。
来た。
来てくれた。
来てくれたんだ!
うっすら見えるようになった視界が濁る、泣いている場合じゃない、私の声に応えてくれたこの光に、今の全部を賭ける!
「あの壁を」
指さす先には水の匂いの元があるはず。
湿った土の匂いじゃない、これは確かに水の匂いだ。
「壊して!」
光はフワッと広がって、私の体を包み込んだ。
不意に初めてオーダーを使った日のことが頭に浮かぶ。
あれは―――不思議な感覚だった。
今、同じ気配がこの光にはある。
指した私の指先へ、光が一気に収束していく。
その光は眩く輝きながら、闇を切り裂くように真っ直ぐ飛んでいった。
グランドクロウラーの巨体が一瞬照らし出されて、おぞましい絶叫が響き渡る。
匂いだけじゃない、水音も聞こえてきた。
壁は壊せなかったけれど、穴が開いたんだ。
この水の気配はそこから、でも、どうして水が流れ込んでくるんだろう。
ふらつく体を力強い腕が支えてくれる。
温かい、嗅いだことのない不思議な匂い、これって一体なんの匂いだろう?
「はる、はるぅ、だいじょぶ?」
モコも反対側から擦り寄ってくる。
また真っ暗、何も見えない。
「平気、モコは?」
「だいじょぶ」
「そっか、ねえ、私頑張ったよ」
「うん」
「―――ああ、よくやった」
カイの声にドキリとする。
少しリューに似てる? おかしいな、そんなことないのにね。
そういえば兄さん達以外の男の人とこんなに距離が近いのは初めてかもしれない。
近いっていうか、抱えられているっていうか、やだな、変に意識してる場合じゃないよ。
「お前、根性あるじゃないか、見直した」
「えっ」
「後は俺に任せろ」
何をするつもりだろう。
これからどうやって外へ出るつもりなのかな。
「おいラタミル、お前はこっちだ、早くしろ」
「どうして?」
「いいから来い、このまま生き埋めになりたいのか」
モコがカイの方へ移動する。
こんなに暗いのに見えるんだ、ラタミルって目がいいの?
「いたいっ」
「我慢しろ」
「はるぅ」
「ど、どうしたの?」
首の後ろを掴んだだけだとカイが答える。
「お前ら泳げないだろ」
「え?」
「しっかり掴まってろよ、あと口を開くな、息を止めてろ」
「な、何するつもり?」
「こうするんだ、とっておきだぜ」
腰に回された腕にぐっと力が籠められる。
つられて、カイに縋るような格好になって、言われたとおりしがみ付いた。
ドキドキする、これから何が起こるか想像もつかない。
「行くぞ」
すうっと息を吸い込む気配と同時に、カイの魔力が大きく膨らんだ。
「ハーヴィーコール!」
―――その声は、崩れる壁の音やグランドワームの唸り声さえ打ち消すくらいはっきりと暗闇の中で響き渡った。
誤字を発見したので修正しました。(2022/3/31)
・転ぶ前に渾身の力でコールに浸かっている→転ぶ前に渾身の力でコールに使っている
・オーダーに浸かっている方の香炉からは→オーダーに使っている方の香炉からは
どんだけだって話です。
浸かり過ぎ(笑)




