約束の海へ
シーリクを離れて、街道からも距離を取り、落ち着けそうな場所を見つけた頃にはもう日が暮れかかっていた。
今夜は野宿かな。
あの後、レース会場はどうなったんだろう。
テーペのオイルと賞金だけもらって逃げたような格好で、せっかくの楽しい祭りに水を差した。
でも仕方ないよね。
あんなことになるなんて思いもしなかったし、乱入してきたのはあの人たちだ。
「とりあえず火を起こそう、昼を取らなかったからな、腹が減っただろう?」
「うん」
「セレスも手伝ってくれ、スープを作る」
「はい」
セレス、ずっと元気がない。
落ち込まなくてもいいのに、いつもみたいに明るく笑って欲しいよ。
火を起こしてリューが料理を始める。
ふっといなくなったロゼは、すぐに小さなシカを二頭両手に提げて戻ってきた。
ベティアスに生息するシカで、この大きさで成獣なんだって。私が知っているシカの半分の大きさもないよ。
「ハル、解体を手伝ってくれないか」
「わかった、セレスも一緒にしてくれる?」
「ああいいとも」
解体したシカの、毛皮と臓器の一部は干して、肉は食用に、それ以外の部分はまとめて焼いて炭にする。
こういう作業もすっかり慣れた、前よりずっと手際が良くなったし、臓器の部位や価値も覚えたよ。
「このシカの胆のうは滋養にいいとされている」
「そうなんだ」
「角も滋養と強壮、舌は珍味だ、そして睾丸は精力剤の材料として」
「ロゼ」
そうこうしているうちにいい匂いが漂ってきた。
リューに言われて、皿を用意して、湯気を立てる美味しそうなスープを注いでもらう。
大きな肉がゴロゴロ入ったとろみのあるスープ、香辛料たっぷりの香りが食欲をそそる!
「わーい、ぼくおなかぺこぺこーっ」
「君の料理からはいつも愛を感じるよ、これもとても美味い、有難うリュー」
スープを啜るロゼの隣で、羊の姿に戻ったモコも皿から上手にスープを食べている。
セレスは―――受け取ったスープ入りの皿を見詰めるばかりでスプーンを使おうともしない。
「セレス、どうした」
リューに呼び掛けられて「いえ」って笑うと、やっと食べ始めた。
顔色が悪い。
どうしたらセレスを元気にできるだろう。
「すみません、本当に、私のせいで」
「気にするなと言ったところで、意味がないだろうな」
「そ、そんなことは」
「セレス、改めて言うが、俺とロゼに関しては構わなくていい、君はあの時ちゃんとハルを守ってくれた、だから俺は君を咎めたりしない」
「リュゲルさん」
「聞かせて欲しい、あの子は、ベルテナとか言ったか、君の見合い相手なのか?」
「そうです」
スプーンを置いてセレスは話し始める。
―――ベルテナ・グレマーニ。
武器商人ペレニタ・グレマーニの娘で、野爵令嬢として最近よく社交界に顔を出しているそうだ。
ペレニタとセレスの兄さん、エルグラート王家第二王子のサネウ様が懇意にしていて、そこからセレスに結婚の話を持ち掛けてきたらしい。
「私は最近あまり社交界に顔を出していなくて、ベルテナ嬢のこともよく知りませんでした」
「そうか」
「ただ、兄上は近頃西の商人やあまり名を聞かない者たちと交流を持たれているようで、妙だと感じてはいたんです」
「それはどういう?」
セレスは少し黙って「前にもお話ししましたが」と、改めて切り出す。
「兄上たちはあまり仲がよくない、王がご即位なされて、上の兄上が宰相の座に収まってからますます険悪になってしまわれた」
「ふむ」
「その辺りから次の兄上は件の輩と付き合うようになられて、一度理由を伺ったのですが『国のためだ』としか仰られず」
それって本当に言葉通りの理由なのかな。
今聞いた限りじゃ少し疑問だ。
サネウ様ってどんな方なんだろう、これまでセレスにしたこと、聞いた話を思い返す限りだと、尊大で強引な印象がある。
「ベルテナ嬢との婚姻も国の益になることだと、最初、私は何も聞かされず彼女に会いました」
「見合いだと知らなかったのか?」
「はい、言われた通り、言われた場所へ向かったら、そこで彼女を私の婚約者だと紹介されたんです」
「見合いですらないじゃないか、強引過ぎる」
「流石に私も抗議しました、ですが取り合っていただけず、既に婚礼の日取りなども決まっていると告げられ、それで」
「逃げた、と」
「塞ぎ込んでいたら、上の姉上が背中を押してくださったんです」
セレスは嬉しそうに言う。
確か『死んだ』ってことにされて、長く王室を離れていらした方だよね。
「君の人生は誰のためにある、人の命には『今』しかないのだから後悔しない道を選べと、そんな言葉を掛けられたのは初めてでした」
「そうか」
「私は王家の人間、その立場も責任も理解しているつもりです、身勝手は許されない、でも、あの時兄上の言葉通りに結婚することが本当にこの国のためになるとはどうしても思えなかった」
「君が思うならそうなんだろう」
「リュゲルさん」
「君は自分が何者であるかを自覚している、だったら君の判断は正しい、俺はそう思う」
「は、はい」
「まあ野爵ごときが王族に婚姻を持ちかけるなど甚だ身の程知らずな話だ、王家の信を得て碧爵、せめて華爵の地位を授かりでもしてから出直すべきだろう」
「そっ、それは、そうですが」
「娘の低俗さで親の格も知れたさ、逃げて正解だよ、しかしこれからどうするつもりだ?」
「はい」
セレスはまた俯く。
湯気の消えたスープ皿を「注ぎなおそう、もっと食べておけ」とリューが受け取った。
「ご迷惑を、おかけしています」
「構わないさ、なあハル?」
「うん、ねえセレス」
「なんだいハルちゃん」
「一緒に海へ行こうよ」
え、とセレスは驚いたように私を見詰める。
「前に言ったよね、ベティアスの海を一緒に見ようって」
「あ、ああ」
「あの時は色々あって諦めるしかなかったけど、今は違うよね?」
「そう、だね、私は逃げてきたから」
「逃げてもいいよ、海へ行こう!」
逃げることは悪いことじゃない。
いつも逃げてばかりじゃ成長できないけれど、戦術的撤退なら活用すべきだ、ってこれはリューの受け売りだけど。
今のセレスを元気にするなら海しかない、そんな気がしてきた。
一緒に海を見よう。
広くて、大きくて、どこまでも青くて、塩辛い海。
それからのことは海に着いてから考えればいい。
楽観的かもしれないけれど、何より私がセレスと海を見たいんだ!
「ねえセレス」
隣に座ってセレスの目を覗き込む。
朝焼けの空みたいな色、夜の闇を払う陽の光のオレンジ、焚火が反射してキラキラ輝いている。
「私とセレスは友達で、友達を助けたいって思うのは普通のことだよね?」
「そっ、それは、でも私がいたらまたあの時みたいなことが」
「心配なら守ってよ」
「えッ」
「私もセレスを守る、だからセレスも私を守って、それで一緒に海へ行こう、だってここはベティアスだよ!」
「うん、そう、だね」
「私、初めて他の国へ来たよ、セレスは何度も来たことがあるかもしれないけど、私は初めてなんだ、だからセレスと一緒に海が見たい、泳ぎを教えて欲しい」
「ハルちゃん」
「一緒に海へ行こうよ、色々なことはそれから考えよう、きっと大丈夫だよ、セレスには私がいるし、兄さん達もいるし、モコだって一緒なんだから!」
「そうだよー!」
ポフッと小鳥に姿を変えたモコが、パタパタ羽ばたいてセレスの頭の上に乗る。
「ぼくもいるよ、せれす、ぼくね、いろんなことができるようになったよ」
「モコちゃん」
「だからだいじょぶ、みんなでうみいこ! ぼくうみたのしみ、せれすもいっしょだとうれしーっ」
リューがちらっとロゼを見て笑う。
ロゼは渋い顔で、溜息を吐いてスプーンを下ろす。
「おい」
「は、はい師匠ッ」
セレスはびくりと震えながら返事した。
「お前、僕のハルにここまで言わせておいて、まさか断りはしないだろうな?」
「ですが師匠」
「はぁ、煮え切らない奴だ、面倒だから僕が決めてやる、お前も海へついてこい、僕は気に食わないが、ハルが喜ぶ」
「し、し、師匠ッ」
有難う、ロゼ兄さん、リュー兄さんも。
リューと顔を見合わせてクスクス笑ったら、ロゼは空になった皿をリューへ突き出して「おかわり」ってムスッとしながら言う。
「う、ううっ、うううーッ」
急にセレスがボロボロ泣き出した。
えっ、ど、どうしたの、落ち着いてセレス。
「ハルちゃん、モコちゃん、リュゲルさん、師匠ぉッ、ほッ、本当に、有難う、ござッ、ございまずうぅッ」
「セレス、泣かないで、どうしたの?」
「うッ、うれじ、嬉じいんだハルちゃんッ、ぅわたッ、私のために、ご、ごんなに優じぐッ、じで、もらっでぇッ」
「いいよ、当たり前だよ、友達なんだから」
「うああッ、ありがど、有難うハルぢゃんッ、りゅ、リュゲルさん、師匠ッ、もこぢゃんも、ごの、ご恩は、ずえッ、ずえったいに、が、がえし、まずぅッ」
「そんなのいいよ、もう泣かないでってば」
「うおおおおおおおおおおおんッ!」
「セレスぅ」
モコもセレスの頭の上で「なかないでぇ」って困ってる。
ええと、ハンカチどこだっけ、セレスは私より大きいのに、今はまるで小さな子供みたいだ。
「海ッ、いぐッ、私もハルちゃんと一緒に、海ッ、いぐぅーッ!」
「うん、うん、分かったから、楽しみだね、海」
「だのしみだぁーッ」
なんだか段々笑えてきた。
涙と鼻水でぐしゃぐしゃなセレスの顔を拭いてあげていたら、リューが熱々のスープを注ぎなおした皿を手渡してくる。
受け取って今度は美味しそうに食べ始めるセレスに、やっとホッとした。
今度こそ約束通りセレスと海が見られるんだ。
嬉しい、今はそのことだけ考えて楽しみにしよう。
問題は何一つ解決していないけど、焦っても仕方がないし、セレスは一人じゃない。
「このスープおいしいなぁ、ハルちゃんッ」
「そうだね、セレス」
「やっぱりリュゲルさんの手料理は絶品だ!」
嬉しそうなセレスに、私も笑顔で頷き返した。




