ドライアの大森林にて 3
目が覚めた。
パチパチと火が燃えている。
その上をフワフワ飛んでいた光がすいっと傍へ来て、鼻先にチョンと触れて、また火の上へ戻って行く。触れた瞬間仄かに暖かかった。
「ん、おはよう」
「おはよう」
見上げると、リューが笑いかけてくる。
「と言っても、まだご覧の通り夜だ、よく寝ていたな」
「うん」
モコは寝たままか。ふふ、ぐっすりだな。
今日一日たくさん歩いてすごく疲れているんだろう、頑張ったね。
「昼間は頑張ってよく歩いたな、陽が昇ったらもうひと頑張りだ」
「森を抜けたらすぐ町があるの?」
「ああ、だがその前に川を渡らなくちゃならない、結構大きな川だ、渡し船を着けている船着き場があるから、夜が明けたらそこへ向かう」
「ここから遠い?」
「まあまあ距離があるな」
「そっか」
頑張ろう。
シェフルでロゼが待ってるし、旅は始まったばかりだもんね。
「ねえ兄さん、王都って凄く遠いんだよね」
「そうだな」
「兄さんは行ったことがあるの?」
「お前が生まれる前は王都で暮らしていたんだ」
「そっか、そうだよね、王都ってどういう場所なの?」
尋ねると、リューは困った顔をして「悪い、俺も小さかったから、あまりよく覚えていない」と指で頬を掻いた。
「大きな建物が沢山あったな、人も大勢住んでいた」
「何人くらい?」
「数千、いや、数万人かもしれない」
「数万!」
驚く私に、リューはハハッと軽い調子で笑う。
「想像もつかないか?」
「うん、ねえ、王都ってこの森くらい広いの?」
「さてどうだろう、流石にこの森全部ほどは無いと思うが」
「すっごいね! それじゃお店もたくさんあるんでしょ?」
「ああ、オーダー用のオイルの素材になりそうな物を売ってる店もあるだろう、オイルそのものを取り扱っている店もあるかもしれない」
「本当?」
「多分な、それくらい物も人も集まる場所なんだ、王家のお膝元だからな」
そんな話を聞いたら、ますます期待しちゃうよ。
村の周りだけじゃ採取にも限界があるし、本で見たり、読んだりしただけ、話に聞いただけで、手に入れる方法は無いけど欲しいと思った素材は数知れない。
それだけじゃない、オーダーのオイル自体売っているかもしれないなんて、だとすれば道具も色々揃えてあるよね、うわ、うわぁーっ、なんだかドキドキしてくる!
「ハル」
呼ばれて見上げると、リューが微笑みかけてくる。
優しい、ホッとする笑顔だ
いつも頼りになる大好きな兄さん。
―――今頃、ロゼはどうしているかな。
「この先、色々なことがあるだろう、長い旅だ、大変な思いをすることもきっとある」
「うん」
「だけど、俺とロゼは必ずお前を守るからな」
ぱちんと焚き火が爆ぜる。
辺りの木が風にざわざわと揺れている。
「お前に何が起ころうとも、どんな目に遭おうとも、絶対に守ってみせる、だから信じて、頼りにしてくれ」
「有難う、でも急にどうしたの?」
「いや、言っておこうと思っただけだ、驚かせて悪い」
「ううん、嬉しいよ、兄さんとロゼのこと、いつだって頼りにしてる」
「そうか」
大きな手がゆっくり頭を撫でてくれる。
もしかして慣れないこと続きで私が不安になっているかもって、心配して気を遣ってくれたのかな。
大丈夫だよ、だって私は兄さん達の妹で、母さんの娘だもん。
色々なことをたくさん教わった、だからこれくらいで音を上げたりしない。
私も頑張るよ!
自分に出来ること、精一杯やるからね!
「エヘヘ」
「どうした?」
「兄さんに撫でてもらうの大好き」
「そうか」
「ロゼの手も大きいよね」
「あいつは全体的に大きいだろ」
「背も兄さんより高いよね」
「言うな、背の高さなんて所詮は個性だ、俺だって別に低くない」
「そんなこと言ってないよ」
笑ったら、私を軽く小突いてリューも笑う。
隣でモコがモニャモニャ寝言を呟いた。
「兄さん」
「ん?」
「大好きっ」
面と向かって伝えるのって、ちょっと照れ臭いね。
だけど兄さんも伝えてくれたから、私だってちゃんと言いたい。
リューは目を丸くしてから、赤くなってコホンコホンと咳払いする。そのあとで、私の頭をグリグリっと撫で回して「俺もだ」って小さな声で返してくれた。
「あ、ねえ、もう目が覚めちゃったし、今度は兄さんが寝なよ」
「いや、俺は」
「旅では交代で番をして休むんでしょ?」
私を見ながら少し考え込んで、フッと笑ったリューは「分かった」と頷く。
こっちに体を少し預けるようにして、両腕を膝に乗せて目を瞑った。
少し重いかも、でも温かいし、いい匂いがする。
すごく落ち着く匂い。
「ハル、お前本当に大きくなったな」
「昨日で十五だよ、リューが作ってくれたケーキも料理も美味しかった!」
「そうか、もう十五か、来年には十六になるんだな」
「そうだけど、ちょっと気が早くない?」
「一年なんてすぐだ、俺がお前のおしめを換えてやっていたのは」
「もーっ、それは昔の話過ぎるよ!」
そうやってすぐ私が覚えていない赤ちゃんの頃の話をするんだから。
反対側でまたモニャモニャと寝言を言うモコの頭をそっと撫でる。
頭上でざわめく枝葉の影を見上げたら、隙間から覗く夜空で金色の月が輝いていた。
村の外で過ごす初めての夜。
ティーネは今頃どうしているだろう。もう寝たかな、それともまだ起きているかな。
ロゼには明日になったら会える。楽しみだな。
―――王都で母さんもあの月を見ているのかなぁ。
町に着いたら早速手紙を書こう。
この先、立ち寄った場所で手紙を書いて送ったら、きっと喜んでくれるよね。でもシェフルからティーネ宛に送ったら流石に早いって呆れられちゃうかな。
明日も頑張るぞ。
焚き火の上をフワフワ飛ぶ光が近付いてきて、私の目の前でポッポッと強く輝く。
光は小鳥の形に変わって赤い翼を羽ばたかせた。
「えっ」
暫く傍を飛び回ってから、また光に戻る。
もしかして、さっき私がリューのオーダーを羨ましがったから、真似してくれたのかな。
「有難う」
光は返事するようにチカチカと強く輝く。
いつか色々な人がオーダーを使えるようになったら、精霊って頼りになるだけじゃなくて優しいんだって知ってもらえるかな。そうなるといいよね、旅の間もオーダーの研究はなるべく続けていこう。
微かに聞こえ出したリューの寝息に、私も目を瞑ってほうっと息を吐いた。
「あれ?」
また地面が揺れている。
どうしたんだろう、こんなにしょっちゅう地震が起きたこと今まで無かったのに。
それに、変な臭いが強くなっている。
気持ち悪い臭い、なんだかゾワゾワするし、まさか魔物が―――
「ハルッ」
いきなり叫んでリューが飛び起きた。
呆気にとられる私の隣で、モコも流石に目を覚ます。
「なぁにぃ?」
「兄さん、どうしたの?」
「すぐ荷物を持ってモコを抱えるんだ、早く!」
「は、はいっ」
訳も分からず、急かされるままバッグの紐を肩からたすきにかける。
そのままモコに飛びついて、フワフワの体をぎゅっと抱きしめた。
「はる?」
ズズズ、ズズゥンと、今までになく地面が大きく揺れる。
驚いて固まる私にモコも体を寄せてきた。怖い、何が起きているの?
―――ドォン。
音と衝撃は同時に起こった。
ふわりと体が浮く。
目を大きく見開いて手を伸ばすリューの姿があっという間に遠ざかる。
落ちる―――
「ハルッ!」
「わあああああああああ!」
腕の中のモコをぎゅっと抱きしめる。
怖い、怖い、怖い!
助けてッ。
土が降ってくる。
何も見えない、暗い、痛い、怖いッ。
思いきり体をぶつけて、息が、できな、い。
痛い。
痛くて、いたくて、気が、とお、く。
―――あれ?
私、まだ生きてるのかな。
すごく痛い。
それに暗い、なにも見えない。
ここ、どこ?
「う、うぅ、う」
リュー
モコ。
「パナー、シアッ」
やっと痛みが引いた。
でもまだ頭がクラクラする、ここは真っ暗で湿っぽくて、何となく息苦しい。
土の上を這わせた指先にふわっとしたものが触れて、呻き声がした。
「いたい、よぉ、は、るぅ」
「モコ!」
血の臭い、モコも怪我しているんだ!
ふわふわを抱き締めながら「パナーシアッ」と叫ぶように唱えた。
廻る魔力が淡く発光して輪郭を現す。
すぐまた戻った暗闇の中で、モコがほうっと息を吐く気配がした。
「ありがとう、はる、もういたくないよ」
「よかった」
「ねえ、ここどこ?」
「分からないけれど、多分、私達落ちたんだと思う」
「あな?」
「うん」
そうだ鞄、鞄はどこだろう。
肩にまだ紐がかかっていることに気付いて、手探りで確かめる。
鞄の中身はグチャグチャ、だけど壊れた物は少なそう。どれくらいの高さから落ちたか分からないけれど、これって殆ど奇跡だな。
目当ての感触を指先に探り当てて、急いで取り出して弄ってみる。
良かった、香炉も無事だ、これでオイルも無事ならオーダーが使える。
オイルの瓶も、大丈夫。ヒビが入っている感じもしない、よしッ。
触感だけでビンの蓋を開けて、中のオイルを慎重に香炉に垂らして、魔力を通して発熱させた熱石を香炉の底部に仕込むと―――暗闇に心地よい香りがフワンと漂う。
「フルーベリーソ、おいで、おいで、この暗闇を照らして」
フッと現れた光が、私の頭の上で眩しいくらいの光を放つ。
それでも、私とモコの周りを照らすだけで精一杯みたい、奥や上の方は相変わらず暗くて見えないけれど、さっきより状況は把握できた。
ここは穴の底だ。
崩れ落ちた土砂が奇跡的に空間を作って生き埋めにならずに済んだ。
そう気付くと同時にゾッとする。
本当に死んでいたかもしれないんだ。
村から出るって、旅って、こういうことなんだ。
浮かれていた、リューが一緒だから大丈夫だって無条件で思い込んでいた。
バカだ。
こんなことになって思い知るなんて。
どうしよう。
怖い。
ここからどうやって地上に出よう。
今はギリギリ保っているだけかもしれない。そのうち天井が崩れ落ちて、今度こそ本当に土砂に潰されて死ぬかもしれない。そうならなくてもいずれ穴の中の空気が無くなって窒息死する。
怖い、怖い、怖い。
助けてって叫んだら、リューが来てくれるかな。
声の振動で土が崩れたら?
オーダーを使ってどうにかならないかな。
考えろ、考えるんだ、だって私まだ生きてる、何もできないわけじゃ、私にもできることが。
―――空いている方の手で頬をパンと叩いた。
しっかりしろ!
「ねえはる、りゅーは?」
モコが不安そうに体を摺り寄せてくる。
そうだ、私一人じゃない。
「分からない」
「ここ、どこ?」
「分からないよ、モコ」
モコもいる。
助かるために、助けて欲しいなんて考えていちゃダメだ。
しゃがんで、怯えた気配のモコの空色の瞳を覗き込んで、ギュッと抱き締める。
フワフワして柔らかくて温かい。
絶対助けるからね、助かろうね、モコ。
「はる?」
立ち上がって、ゆっくり息を吸って、吐いて、震える一歩を踏み出す。
怖くて、不安で、気を緩めたら泣きそうだ。
でもそんなことしている場合じゃない、まだきっと私に出来ることがある。助かる方法がある。
「とにかく、ここから出ないと」
「はるぅ」
「大丈夫だよ、行こう」
二歩、三歩と進み出して、足がもつれて転びかけた。
「はる!」
地面に倒れ込む前にモコが受け止めてくれる。
埃っぽい毛の臭いを嗅いだら、途端に目の縁がじわっと滲んだ。
「だいじょうぶ?」
「うっ、うくっ、うぅッ」
泣くな!
ギュッと両手を握って堪える。大丈夫、大丈夫だから、まだ大丈夫だから。
傷は癒えても、怪我を負った時に消耗した体力はまだ戻っていない。少しふらつく私にモコがぴったり体を寄せて支えながら一緒に歩いてくれる。
有難う、モコ。
一人じゃないってやっぱり心強いね。
「なかないで、はる」
「大丈夫だよ、ごめんね、モコ」
「どうして?」
「心配かけてるでしょ、モコだって私と同じなのに」
「がんばろ、はる、ぼくもがんばる、ぼくとはるはいっしょだよ」
「うん」
鼻を啜って、袖で目元をグイッと拭った。
とにかく外へ出る方法を探そう。
考えるんだ。
ここがただの穴だったら、あの時落ちて埋もれてお終いだった。
でも、こうして空間ができているから、ここはただの穴じゃない。
例えば横に長い穴。周りは暗くて見えないけれど、体感としては結構広い。それなら、崩れた場所と逆側は地上へ通じているかもしれない。
まあ、行き止まり側に閉じ込められた可能性もなくはないけれど、そういうことは今は考えない!
進めるだけ歩いてみよう。
じっとしているよりきっとマシなはず。
そうだ香炉、もう一つあった、そっちも無事だといいけれど。
鞄の中を探って、見つけた、これも少し歪んでいるけど使える、オーダーで別の精霊を呼べる。
それにしてもひどい臭いだな。
外で感じていた時よりずっと濃くて気持ち悪い。
オーダーの効果もあまり持たないかもしれない、急ごう。
「フルーベリーソ、おいで、おいで、ここより外へ空気が抜ける場所を教えて」
賭けだったけれど、ふわっと現れた光は導くように先へ向かって飛んでいく。
やった!
この先は行き止まりなんかじゃない、どうなっているか分からないけれど、少なくともここから出られる場所があるんだ!
改めて気合を入れて、両脚にもぐっと力を込める。
行こう。
気持ちで負けたら本当に負けるぞってロゼも言ってたよね。
モコと一緒に、足元程度の範囲を照らされながら、光を追って暗闇の中を進む。
「はる、くうきだ、かべにあながあるよ!」
そうして暫く歩いて、先に気付いたのはモコだった。
近付いて確認してみる。これは穴じゃない、大きな亀裂だ。
向こう側は暗くて見えない。
この先も地上へ繋がっていないかも。
だったらどうする?
別の場所を探す?
―――ううん、行こう。きっとここしかない。
覚悟を決めて、最初に使った香炉をしまうと、周りを照らしていた光も消える。
その香炉はバッグにしまって、もう一つの香炉にオイルを足した。
「モコ」
「なに?」
「今からこの亀裂に穴を開けるけど、衝撃で周りが崩れるかもしれないから、穴が開いたら一気に飛び込んで」
「うん」
「この正面だよ、暗いけど迷わないで、いいね?」
「わかった」
少しでも躊躇ったら今度こそ生き埋めになるかもしれない。
モコが飛び込んだらすぐ私も飛び込む。
不意にまた靴底に微かな揺れを感じて、頭上から土や小石がパラパラ降ってきた。
そうか。
私とモコが落ちる前に起きた大きな地震、あれでお終いじゃないのかも。
さっきと同じことがもう一度、今度はここで起きる可能性がある。
「フルーベリーソ! 私とモコを守って!」
ここまで導いてくれた光が渦を巻く風の防壁に変わって私とモコを包み込む。
これで多少の落下物は防げる。でも、長くは持たないし、重過ぎるものには効果を期待できない。
「やるよ、モコ!」
「うんっ」
オーダー以外は苦手なんて言ってられない、やるんだ!
「大気を司る精霊よ」
体を廻る魔力の流れを翳した掌へ集中させる。
これは精霊を呼び出して力を借りる魔法、エレメント。
自分の魔力だけを用いて発動させるマテリアル以上の効果を得られるけれど、その分制御が難しい。
だけどやる、やってみせる。
「我が希う声に応じて来たれ、汝の力をもって我が欲する望みを叶えよ」
掌がカアッと熱くなる。
グネグネとうねる魔力をどうにか固定させて、収束する風の力を裂け目へ向けて解き放つ。
目の前がパアッと眩しく輝いた。
「ヴェンティ・ボル・タージエンス!」
渦巻く風が裂け目をこじ開けて吹き飛ばす!
直後に予想通り土や小石が雨あられと降り注いできた。
「モコ!」
走り出す傍にモコの蹄の音がする。
空気が流れ込む方へ、その先へ、迷うな、躊躇うな、全力で駆けて飛び込んだ。
背後でズドォンと物凄い音が鳴り響く。
衝撃に吹き飛ばされて、もうもうと舞い上がる土埃に咽て、倒れ込んだ体勢からどうにか起き上って座った。お尻の下には冷たい土の感触がある。
「モコ、いる? 大丈夫?」
「はるぅ」
「怪我してない?」
「うん」
まだ暗い、真っ暗だ、オーダーを使おう。
握っていた香炉に手探りでオイルを足して、オーダーを唱えて、また周りを照らしてもらった。
さっきより広い場所に出たような気がする。
「いてて」
「はる、だいじょぶ?」
「うん、これくらいなら全然平気」
転んだ時に擦り剥いたかな、さっき落ちた時よりはずっとマシだ。
この程度なら魔法で治癒するほどでもないから手当てで済ませよう。
「あな、うまった」
「そうだね」
土砂が流れ込んでいる、あの奥はさっきまで私とモコがいた場所だろう。
助かったとはまだ言えないけれど、ずっと感じていた息苦しさは少し薄くなった。
こっち側の壁が硬くて助かった、ここまで崩れてたら今度こそ埋まっていたよ。
「はる、ちがでてる!」
「え?」
慌てるモコを宥めて、これくらい大丈夫だよって声をかけながらバッグの中を探る。
元から結構丈夫なんだよね。
怪我の治りも早いし、病気だってあまり罹ったことがない。
それにしてもここはどこなんだろう。
森の下にこんな地下通路みたいな場所があるなんて、誰も知らなかったのかな。
洞窟?
うーん、ちょっと違う気がする、さっき浮かんだ地下通路って表現の方がしっくりくる。
だとしたら、誰の、何のための通路なのかな?
仄かに空気の流れを感じる。それと、あの気持ち悪い臭いがますます強い。
一体なんの臭いだろう。
この空気の流れを辿れば外へ出られるかな。
「―――おい」
不意に呼びかけられた。
その声は聞いたことのない声だった。
同時に、鼻先に嗅いだことのない不思議な匂いがフッと淡く香った。




