散歩
多少過激な表現が含まれますので、苦手な方は注意を(特に女性の方)
進行方向数メートル先を老人が歩いている。
老人の歩みは遅く、間もなく追いついてしまうだろう。
僕はふと、その気になればこの老人を殺せるな、と思い立った。
ジーパンのベルトを外しながらゆっくりと近づき、背後から首にベルトをかけ一気に引き絞る。
多少の抵抗はあるだろうが、かなりの確率で殺害は達成出来るだろう。
でも僕はそれをしない。しようと思ったこともない。
なぜだろう?
殺す理由を考えてみる。
当然だが、特に無い。
件の老人は近所の人だろうが、面識はない。
それに僕は人を殺して快感を覚えるような感性を持ち合わせていない。たぶん。
では殺さない理由は?
警察に捕まるから?
警察がいなかったら?他に理由は?
…殺す意味が無い。
では意味を見いだせれば僕は人を殺すのか?
そこまで考えて、いつの間にか老人を追い越していた事に気づく。振り返っても彼は見えない。
拍子抜けしている自分に何とも言えないわだかまりを覚えつつ、僕はまた歩き出す。
少し歩くと、今度は向こうから一人の女性が迫ってくる。迫ってくるという表現は正しくないか。ただ歩いてきているだけだ。
女性は遠目に見ても美人だった。近づいていくほど、自分の好みのタイプだと分かる。
僕はふと、その気になればこの女性を強姦出来るな、と思い立った。
僕は特段腕っぷしが強いわけではないが、流石に女性には負けないだろう。力尽くで近くの茂みに連れ込み、押し倒すのは容易い。当然騒がれるだろうが1、2発顔を殴って黙らせればいい。
でも僕はそれをしない。しようと思った事もない。
なぜだろう?
強姦する理由を考えてみる。
これは明白。見た目が好みの女で性欲を発散させるためだ。
では強姦しない理由は?
警察に捕まるから?
…またそれか。強姦をしようとしている人間に、その後なんて関係無いだろうに。
女性を傷つけるのに抵抗があるから?
無い、とは言えない。というより無闇に他人を傷つける趣味は無い。
意味があれば人を殺せるかもしれないのに?
さっきと違って今度は理由がある。理由は意味に成りうるのか?
意味があれば女を強姦せる?
理由があれば人を殺せる?
そこまで考えて、いつの間にか女性と擦れ違っていたことに気づく。振り返っても彼女は見えない。
内心安堵している自分に何とも言えないわだかまりを覚えつつ、僕はまた歩き出す。
少し歩くと踏切が見えてきた。
僕が近づくと警報器が鳴り響き、遮断機が降りる。
僕はふと、今線路に出るだけで簡単に死ねるな、と思い立った。
死にたいと思ったことはある。何度も。
でもその度に死ぬことを選べずにここまできた。
…そもそも本気で選ぶつもりがあったのだろうか?
今は別に死にたいとは特に思っていない。
生きたいのか?と聞かれたらそうでもない気がするが。
ああ、そうか。
生きたくないから死ぬのではない。
生きていないから死ねないのだな。
そこまで考えて、ごおっと電車が通りすぎた。
思っていたより前に出ていたらしく、眼前数十センチ先を電車が走る。乱暴な走行風に煽られ、僕は思わず尻餅をついてしまった。
両手を後ろに身体を支え、ただ通りすぎる電車を見ていた。
ふらふらと道を歩く。
いつの間にか、ずいぶんと遠くに来てしまった気がする。そんなつもりはなかったのに。
疲れた。足が痛い。何故こんなことをしている?
殺しもせず、強姦しもせず、死にもしない。
正にも負にもなれず、ただ何故か、かろうじて0ではないというだけの存在。それが僕だ。
「ああ、なんて…」
言いかけた、その時だった。
風が吹いた。
背中を押すわけではなく、かといって押し返すわけでもない。
ただただ暖かく、優しい風。
立ち止まりふと周りを見ると、自分以外の人間が誰もいない事に気づく。
誰もいなくなった世界で、僕はただ、風に吹かれていた。
「…気持ちいいな」
どのくらいそうしていただろうか。
風がやんだ。
ハッとした僕は周りを見る。
前方から車が走ってきているのが見える。
後ろを見れば、自転車に乗った学生二人が、並んでこちらに向かってきている。
僕は苦笑いを浮かべ、また同じ道を歩き出した。
「もう少し、行ってみよう」